「カレタセカイジュⅤ」
翌朝。
惨劇の後、孤島は見るも無残な姿に変わっていた。
無数の巨大な亀裂が島を細かく分割し、陸地の大半が消失、数多の世界樹と人々の痕跡が海の底へと消えてしまって……それが、この星全土でも、同様に。
世界中、あんなにも溢れていた人々は、どこへいってしまったのだろうか。
あれほどに栄えていた命の営みは……幻想だったとでもいうのだろうか。
今はもう、何処にも、見る影がない。
ただ静かに水面は揺れて、雲が流れていくのみだった。
地上の破滅から逃れることが出来た鳥たちは、翼を休めるために再び地上に戻ってくる。
……しかし彼らとて、これから先、遠くない未来に、静かに、緩やかに、絶滅していくことだろう……。命の連鎖の途絶えてしまったこの星で生きていくことなど、誰にもできはしないのだから……。
昨日まで孤島の一部だった、巨大な岩の塊。その海上に残された僅かな陸地に、倒壊したモニュメントが横たわっていた。それは孤島に眠る者たちを弔うための墓標であったが、きっともう、今はその役目さえも終えたのだろう。
だってこの場所を訪れ、花を手向ける者すら、この世界にはもう、誰もいない。
だから、眠ったように、横たわっている。
海の上には、同じように役目を終えた様々な道具が漂っていた。
もう二度と使われることのない彼らも、帰らぬ主をいつまでも待ち続けることはなく、すぐに沈んでいくことだろう……。誰も知らない海の底へと、還っていくことだろう……。
まだ僅かに、森らしき痕跡が残る孤島の残骸があった。
その中をウグメは歩いていた。
向かう先には、あれだけの災害に見舞われながらも奇跡的に原型を留める、小さな屋敷があった。
……隆起した地面ごとめくり上げられ、ほとんど逆さにひっくり返って、亀裂に落ちる途中で引っ掛かって止まっているだけの物体を、まだ屋敷と呼ぶことが許されるのならば――だが。
ひた、ひた、ひたと。ウグメはその、大きく傾いた屋敷の中に、入っていく。
そして――見つける。
この災厄の、唯一の生存者を。
昨晩までは、ゼクとフリムの娘で、ゼレスの姉だった、少女の姿を。
リィフが生き残れた理由を、ウグメは知っていた。
それは彼女が、そういう能力を持っているからだ。
そしてその能力を目覚めさせたのは……遠き時代から糸で結ばれた、小さな箱の中の……奇跡。
「これは本当に。奇跡ね」
――かつては天井だった床の端に。
気を失って倒れているリィフの手の中で、小さな指輪がきらりと光る。
それが少女に課せられた封印を壊して、眠れる権能を呼び覚ましたのだ。
……恐らく、他のどの能力であっても生き残れなかったであろう、あの災厄を。
彼女自身の眠れる力は、こうして無事に、彼女を生き残らせた。彼女だけを……生還させた。
「
そこにはいない、かつての知り合いにそんな言葉を投げかけながら。
ウグメは、その少女――リィフの肩を揺すって、起こす。
「……う……」
「おはよう、リィフ。ご機嫌いかが?」
「……う、……ぐめ……?」
霞がかった意識が、視界が、ぼんやりと捉えた女の名を、無意識に呟かせる。
呪神、ウグメ。
シマの封印を司る神。
誰にも倒すことの出来ない、絶対の存在。
だが、思い出せたのは名前だけだ。
彼女が自分とどういう関係なのかは分からない。
……ただその僅かな表情の変化から、敵ではないことは伝わって来た。
「――良かった。本当に。あなたが生き残ってくれて」
「……何が、……起きたの……? みんな、は……?」
「…………残念ながら。今、この星で生きてる人間は、あなただけよ」
「……………………」
あまりにも突拍子のないウグメの言葉に、リィフは驚きすらしなかった。
最後に覚えているのは、突然、地面が揺れて、家がひっくり返ったこと。
死ぬかと思って、死にたくないと強く願って――藁にも縋る思いで何かを掴もうとした時、テーブルから例の箱が転がり落ちて……その弾みで壊れた箱の中から偶然、あの指輪が手の中に転がって来て……。
……果たして指輪には、いったいどんな魔法が秘められていたのだろうか。
それが魔道具であるならば、何らかの魔法が入っているはずだとは思っていた。それを使えばもしかしたら助かるかも知れないと――無我夢中で起動したところまでは覚えている。
しかしその瞬間、途轍もない力が体の奥底から溢れ出して……そこで意識が飛んだのだ。
そうして気を失っている間に、自分以外みんな死んだのだと、ウグメは言う。
意味も、わけも分からない。
何を言っているんだ。
信じられるものか。
そう思い、下らない冗談として聞き流そうと思った――のに。
なぜだか、ウグメの言葉が真実であるということに、驚くよりも納得が勝ってしまう自分が心の中にあった。
だって、それは。
「………………ラヴィアが、……目覚めたのね」
百年前に自分自身が、既に経験していたことなのだから。
「お陰で、今回ばかりは、詰んだかと思ったわ」
また、負けたのか。
しかも今度はシマだけじゃなく……この星の全てが。
「……そっちは、面白い冗談だねー……。素人の私の目には、とっくにゲームが終了してて、検討すら終わってるように見えるんだけど?」
「格下にはね、一度だけ使える必殺技があるのよ」
「必殺技?」
「“ちょっと待った”」
「お優しい対戦相手だこと」
いったいどんな賄賂を贈ったのだろうか。
あの残虐非道なる最強生物、
自ら指した無慈悲なチェックメイトに対し投げ込まれたウグメの「今の無し!」を、「一度だけだぞ」などと言いながら承認してくれる光景を想像し、リィフは思わず笑ってしまう。
……大事な人も何もかも全部死んでしまったばかりだというのに。
本当に全てが終わってしまうと、悲しいという感情すら無くなってしまうものなのかという、自嘲の意味も込めて……暫く、その笑いは、止まらなかった。
それから、少しばかりの雑談をして。
改まってウグメが、珍しく真面目な態度で頭を下げたのは――
リィフが、今、自分の置かれた状況を概ね知り終えた頃のこと。
「終端の近いこの世界を放置すると、誰にとっても、極めて都合の悪い結果になることが予想される」
「じゃあ、どうするの?」
「……
「それを私に告げて、どうしたいの?」
改まって。瞳を見つめて。ウグメは口を開く。
「――神を代表して、あなたにお願いがあります」
「……いいよ。何?」
「あなたに、私を殺した犯人を、見つけ出して欲しいのです」
「……私以外、誰も生き残ってないって聞いたけど?」
「端的に言えば――百年前のシマへ行き……そこで、私が殺されるのを、防いで欲しい」
そもそも、今、このような破局的状況になっているのは――百年前にウグメが、何者かに殺害されたから、らしい。
ウグメは、それを防ぎさえすればこの事態も回避できると言う。
「……ここを閉じることで、未来は再び紡ぎ直される。新しい未来へと、繋がっていく。……その時、もしまた、ここと同じような世界が出来上がってしまったら、今度こそ世界が終わってしまう」
今のウグメにはもう、『次』などない。
今度は誰もラヴィアを止められない。
世界は終わり、神が生まれる。その後は……どうなるのだろう。
ラヴィアの望む世界が実現されるのだろうか。
それとも、神になったラヴィアに、また誰かが立ち塞がるのか。
……いずれにしても、悲劇は終わらない。むしろそれから先の方が、悲惨なことになるかも知れない。誰も、幸せにならないかも……。
だから。
「だから……助けて下さい、リィフ。私はまだ……死ねないのです。……死ぬわけには、いかない。…………死にたく、ないのです」
ラヴィアを神にはさせない。
この世界を終わらせない。
可能な限り長く存続させる。
そのために、ウグメには協力者が必要だった。
「……………………」
リィフは深く考え込み。
短くない、沈黙があって。
やがて――ウグメが、先に口を挟んだ。
「…………。ありがとう、あなたならそう言ってくれると信じてました。ウグメちゃんすごく嬉しいですやったー万歳」
「まだ何も言ってないよ!?」
「何も言わなくてもいい。私にはちゃんと聞こえた。リィフの覚悟、伝わったよ……」
「伝えてないから! 幻聴やめろ!! あんまり勝手なこと言い出すと、引き受けてあげないよ!?」
「ごめんなさいもうしません許して下さい」
「全くもう……。……何で私なの? 自分でやればいいじゃん」
「理由は色々ある。適正とか、権利とか、資格とか……あと、嫌がらせとか」
「なんか不純物混ざってたなー今? リィフちゃん聞き逃さなかったぞよ! 何だ嫌がらせって!?」
「メロちゃんの両目に傷を負わせたあなたには、いつか絶対に復讐してやるって秘密の日記帳に書いていたんです、ふふふ……私、これでもかなり根深いので……」
「それは私じゃなくて母さんに言ってよ……確かに私の能力ではあったけど」
何年前の話だろう……。
五百年前くらい? もっと前? あまり覚えてない。あの後ラヴィアに何度か殺されかけたから、少なくとも三百年よりは過去だったはずだ。
殺されかけたと言っても、二度目以降は流石に私の能力で回避していたけれど。
「――その能力こそが、一番この仕事に向いているのですよ」
と、ウグメは語る。
「視えなくなる力。認識阻害。干渉されない能力。たとえ出番ではないタイミングで舞台に上がろうとも。与えられていない役を演じようとも。台本に無い台詞を口にしようとも。誰にも咎められることはなく――望むがまま、どこまでも自由に、理想の物語を紡ぐことができる。それがあなたの翼の、真の力。本来であれば、フルコキリムなど歯牙にもかけぬ、ユグドラヘイムラヴィアすらも凌駕し得る……この世界の、誰もが求めて已まない、究極の魔法……
「……そんな大仰な使い方、考えたこともないよ……」
「あなたが神になる道を捨てなければ、いずれは到達したかも知れない、失われた可能性の一つよ。その力を私の後押しで……限定的ながら、あなたに付与する。そして、私が制御するラヴィアの力の一部で、あなたを過去へ送る。……その後は、……そうね。そこにいる私に、会えば分かるわ」
「…………いや、……でも、……そんな重要なこと……私なんかに……」
「言っておくけど。このまま此処に残っても、何もないわよ?」
「…………」
「過去に戻れば。またみんなに会えるわ。キリムにも。ゼンカにも。いつかは、他のみんなにも、きっとまた会える。……今の私から提示できる報酬は、申し訳ないけれど、それが全て。……それでも、足りない?」
「………………いや……。……足りなくなんて……」
ない。あるものか。
事実上、やり直せるというのだ。
この終わってしまった世界を、救うチャンスが目の前にある。
そんなの、掴む以外にないだろう。断る理由なんてあるはずがない。
ただ…………怖いのだ。
単純に、……自信がない。
臆病者の自分が、邪魔をする……。
そう、数千年前の、今の私になる前の私は、きっと全部、知っていた。
自分の持っている力がどういうものなのかを、ちゃんと解っていた。
これは世界をどうとでもしてしまえる程の力だ。
これは、神になることが可能な力だ――と。
でも。
……神になって。
それで……何?
それがいったい、何だと言うの……?
わたしには、それが分からなかった。
みんな……どこ。
どこにいってしまったの……。
ひとりは嫌だよ……。
『――大丈夫』
今でもまだ、怖い夢を見る。
誰もいなくなる。
世界が壊れて、暗闇に、自分だけが取り残される夢を。
『私が、守ってあげる』
その都度、助けてもらった。
――フリムの、暖かい腕。
ああ、その優しい羽で。
もう一度、抱き締めて欲しい。
あなたに会いたい。
わたしを、助けて……。
……。
……違う。
…………そうじゃないんだ。
今度は……
……私が、助けに行かなきゃ……。
だって、それはもう、私にしかできないことで。
そして、それは――私が描いた夢でもあったはず。
いつか自分も、そういう人になりたいと。
幼心に、そう思ったはずだ……。
伏せていた目を、ゆっくり開くと。
不意に、ウグメの足元に、金色に光る髪留めが落ちているのに気が付いた。
屋敷がひっくり返ったから、落ちて来たのだ。偶然にも。
それを拾い上げて、握り締める。
何故だか、暖かい。
まるで誰かが、背中を押してくれるような気がした。
「ねぇウグメ」
……これがあればいい。
何もかも壊れてしまったこの世界から持っていく、これが私の、思い出の欠片。
「百年前に、この髪留めはちゃんと持っていける?」
「……。…………えぇ。お安い御用だわ」
「――よしっ。仕方ないっ……いっちょ、引き受けてやりますかっ……!」
――無理矢理、腹を括る。
どうせ、やるしかないのだ。
あのウグメが言うのだから、私の能力があれば何だって上手くやれるだろう。
またあの百年前の世界に戻されるなんて、怖くて怖くて仕方ないけど――それでも。
またみんなに会えるなら。
そしてみんなと、今度こそ幸せな未来を描けるのなら。
……ああ。私は地獄にだって飛び込んでやる。
この世界を飛び去る私は一人きりだけど……未来を掴むために戦う私はきっと、独りではないはずだから。
私の決意が鈍る前に、ウグメはこくりと頷き、指先を振るう。
すると私の正面に、一枚の薄い光の膜が出現した。
これを潜れば……。
その先に待つのは、地獄だ。
……誰も逃れることができない、世界の最果ての孤島が……百年のサイクルで命の収穫を繰り返している……呪われた闇の世界。
…………それを、私が照らしに行く。
この黄金色の髪留めに誓って――私が、闇を切り拓く光にでも何でも、なってみせる。
全ては失われた未来を取り戻すため。
私の望む幸せな世界を……今度こそ守り切るために。
……そして彼女は、自ら地獄への門を潜る。
ユグドラヘイムラヴィアの能力と、ウグメの補助により、通常、神ですら遡ることの赦されない、過去の世界へと渡っていく。白き翼を広げて……滅ぶ世界から、巣立っていく……。
……それを見送り、ウグメは呟いた。
「さよなら、リィフ。…………後は、任せた」
リィフを無事に過去へと送り終えた門は、すぐに光を失い、また元の、何もない空間に戻っていく。
そうして、ようやく重要な仕事を終えたウグメは、その場にぺたりと、座り込むのだった。
もう、立っているのも、辛い。
疲れた……。
「……命を分かち、子を残し、遺志を繋ぎ、託したか……フルコキリム。まるで人間だな」
感慨深く、彼女は窓の外を見上げる。
眠い……。
「………………、……。…………」
彼方を流れる白雲に、ウグメは手を伸ばす……。
けれど、届かない。どうしたって、届きはしない……。
世界は、ゆっくりと、光を失っていく。
ウグメの力によって、内側から厳重に、閉じられていく。
もう二度と開かれることのないように、念入りに、念入りに……。
「……。……あぁ。……」
時の流れが次第に緩やかになり、視界が徐々に失われていく世界で。
ウグメは不意に、気付く。
「……おまえも、……寂しい、のは、……嫌か……ふふ」
窓の外から、惨禍を生き延びた一羽の鳥が、ウグメの肩に留まっていた。
その頬をそっと撫で
暖かな命を、傍に感じながら
――箱が閉じていくように
ついに光が世界から失われる
光も届かぬ深淵の底
枯れてしまった世界樹は
もう二度と、咲かない
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