第2話 私が愛した宿




伊豆、湯が野の、川端康成が「伊豆の踊り子」を執筆したとされる「福田家」という旅館から、小川を挟んだはす向かい。旅館の前の小さな橋を渡ったところに、「江戸や」という民宿があった。


古くからあるのだろう。老朽化しつつある宿の造りは簡素で、入り口を入ると、映画「伊豆の踊り子」のロケの写真(たとえば、田中絹代さんから三浦友和さんと山口百恵さん)が飾ってあった。

二階建てで、部屋数は5つか6つくらい、窓からせせらぎが見下ろせた。

独身の頃、何度かこの宿に泊まったことがある。伊豆に遊びに行くと必ず泊まったと言っていい。

素朴で、他の誰にも干渉されることなく、ひなびた、観光客の少ないところが何より私の好みに合っていた。近くに国民宿舎があり、そこにも一泊したことがあったが、宿の居心地の良さは段違いだった。


風呂は内風呂がひとつ、2メートル四方ほどの四角い浴槽があるだけだが、紛れもなく温泉で、入浴していると壁を伝って女性たちの話し声が聞こえて来る。壁を挟んだ隣が、町の共同浴場の女風呂なのだった。


風呂で温まったあとは、7品くらいある贅沢な夕食で、ビールや日本酒を楽しむ。そして酔って、いい気分になった頃、もうすでにあたりは静まり返り、せせらぎしか聞こえない。窓を開けると満天の星空だ。


民宿だから布団は自分で敷いて、布団に入りながら、時に旅路を共にする友人と遅くまで語り合ったりする。


しばらくすると、持ち込んだサキイカでウイスキーを飲む。テレビはない。せせらぎだけが部屋を漂う。


夜は更ける。


私はこうした夜を愛した。

たとえ友人がいなくとも、ひとりでも、こうした時間をとても愛していた。

静かだった。


江戸やさんも、今は廃業したと聞く。

寂しい限りである。

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