3.窮地と邂逅

目が覚めると視界が緑に染まっていた。否、染まっていたのではなくその正体は草だったのだがしばらくそれが何なのか分からないほどにあたりは暗くなっていた。確か、さっき丘の上から赤い花を見つけて足を滑らせて落ちてしまったのだ。下から丘を見上げるとけっこう高いところから落ちてしまったんだなと身震いする。そのせいか全身が痛い。骨は折れていないようだが左足首が痛む。きっと捻挫だろう。まさかこんなことになってしまうとは。こんなところまでやって来て怪我をして帰るなんて情けないしなかなかに恥ずかしい。帰ったら笑われるかもなぁなんて思うと憂鬱な気分になった。

とりあえず帰ろうと鈍痛を抱えた体を動かして立ち上がる。そこであることに気が付いた。落ちる前は日が傾いている程度でまだ明るかった空が今ではすっかり日が暮れて暗いのだ。この暗さだと7時過ぎぐらいだろうか。まさか1時間も気を失っていたというのか。頭を強く打ったわけでもないのにそんなことあるのだろうか。時間を確認しようとポケットからスマートフォンを取り出す。しかし全く反応がない。電源ボダンを何回押しても液晶は真っ暗なままだ。充電切れだろうか。いや、さっきまで充電は十分にあった。どういうことなのだ。さっきから色んなことがおかしい。


何だか気味が悪くなって小走りで草むらを去る。左足を引きずりながら階段まで来てできるだけ足早に駆け上がる。そこでまたしても異変に気付いた。景色が違う。この階段の上はあの丘の上で草が生い茂った空き地となっているはずだ。なのに空き地だったはずの場所には木造の小さな家が建っている。階段からさっき自分が倒れてた草むらを見る。あの草むらの上に家が。草むらと丘の上を交互に見るが何度見ても同じままだ。空き地じゃない。どういうことなのだ。夢でも見ているのだろうか。転がり落ちて目が覚めたら違う場所に居たなんて考えられない。余りにもおかしい。後ろに振り向いて家々が並ぶパノラマを見渡す。そこは先程見た景色とは明らかに違っていた。戸数が少なく緑の範囲が広い。しかもよく見ると家々が古めかしい気がする。次第に嫌な予感が確信へと変わっていくのを感じながら思わず冷や汗が流れた。鼓動が速くなって拳に力が入る。

今きっとひきつったような表情をしているだろう。気後れしながらも他の場所も見てみようと踵をめぐらせようとした時、何かがそこにあるのを感じた。それが影を携えて暗闇からゆっくりと現れる。犬だ。しかし薄汚くなかなかに体が大きい。よく見ると首輪を付けていない。またしても嫌な予感がした。

その犬はこちらの姿を認めると顔を強張らせその牙を剥き出しにした。顔つきはみるみるうちに凶暴になり低い唸り声をあげて威嚇している。見たら分かる。明らかに敵意を向けている。

犬はじりじりとこちらに寄ってくる。まずい。どう考えてもまずい状況だ。元来た道へ抜ければ犬を撒くことが出来るがどうやって犬に向かっていくことしかできない上、一本道なので他に逃げ場がない。後はこの階段を下りるしか方法がない。しかしそれだと犬に背中を向けてしまうことになる。背中を見せるのはかなり危険だ。リスクを負ってでも逃げることに専念するか。それともこれ以上傷を増やさないために逃げることは放棄するか。逃げることを放棄なんて出来るだろうか。犬はどう見てもこちらを襲う気満々のようだし襲ってくれれば確実に怪我をするだろう。怪我をするだけで済むならばまだしも見たところ野犬だ。もしかしたら病気を持っている可能性もある。咬まれるのは避けたい。こちらが危害を与えない意思表示をすれば襲ってこないだろうか。否、それは考えにくい。何をしたって犬はこちらに向かってくるだろう。


犬を刺激しないようにゆっくりと動いて塀に背中をつけた。どうにかこの場から立ち去ろうとするが犬はこちらに視線を捉えて離さない。すると痺れをきらしたように唸り声が咆哮に変わった。低く大きな咆哮は辺りに響き、こちらを怯えさせるには十分なものだった。今までにも大型犬に吠えられたことはあったがこんなにも近く、敵意を向けられて吠えられると恐怖心に支配されて全身の肌が粟立つ感覚が襲う。もう抵抗なんて諦めて大人しく咬まれるかなどと一瞬思いかけてすぐに考えを振り切る。いや、何か必ずこの窮地を脱する方法があるはずだと考えを巡らすが焦るばかりで何も浮かんでこない。脂汗が額から流れてきたその瞬間、犬の横っ面に何かが当たった。犬は先程までの低い声と一転してか弱い犬だと言わんばかりの高い声で一鳴きした。地面に木の棒のようなものが落ちているのがわかった。これが当たったのだと確信した。


犬の背後から大きな影が近づいてくるのを感じた。人だ。

「おら、この犬っころがやかましいぞ!吠えるんじゃねえ近所迷惑だろうが」

目の前に現れたその姿に一瞬目を見張る。切れ長の目に薄い顔立ち、遠くから見ても分かるほどに背が高く片手には木製のバットを携えている。一見印象に残りにくい顔だが分かる。若き日の祖父の隣に写っていた青年、志木敏郎だ。

人違いだとか他人の空似とか、その可能性なんていくらでもあるのに不思議と本人だと信じて疑わなかった。そしてこれでよく分かった。やはり自分は"過去に来てしまった"のだと。

「これ以上殴られたくなかったらさっさとどっか行けっ」と志木がバットを振り回すと犬は大きな体躯を縮こませながら去っていった。ようやく恐怖の対象が消えて安堵したのも束の間、志木がこちらを見つめていることに気が付いた。

「お前…どこのモンだ?」

志木は泥棒を見るかのような怪訝そうな顔つきで凝視してくる。無理もないだろう。髪型や服装、身につけているものまでこの時代とは違っていてしかも薄汚れていて怪我もしている。もし自分が志木の立場だったら同じように不審に思うだろう。しかしいくらこんな格好とはいえ初対面の人間にじろじろ見られるのは余り良い気分ではない。

「何か変わった格好してるなぁ。都会から来たんか?都会はよくわからん格好が流行るからなぁ」

「あ、あぁいや、そうではなくて…あ、そのお訊ねしたいことがあるのですが」

意を決して"あること"を確認しようと切り出す。「何だ?」と相変わらず訝しげに聞き返す志木に訊ねた。

「今日は何年の何月何日ですか?」

もうほとんど確信がついているのだが、せめて確認しておく。

「おかしなこと聞くな…昭和14年の8月4日だが」

やはりそうだ!間違いなく過去にやって来たのだ。空き地に家があったのも町の風景が違っていたのも全部過去にやって来たからなのだ。ようやく謎が解けたが不安や憂鬱は拭えなかった。過去に来たことが分かったとしてもこれからどうすればいいと言うのだろうか。行くところなんて無いし戻る方法も分からない。お先真っ暗だ。目の前にいる志木もこちらが写真越しに一方的に知っているだけ。写真で見たよりもまだあどけない顔立ちをしているので、あの写真よりも前のはずだ。

「お前やっぱり怪しいなぁ…警察に連れていくか」

「えっ警察?」

「見るからに怪しい奴を野放しにしておくわけにはいかないだろ。まずは身体検査だ。」

志木が近づいてきて身体を触ってきた。なにか危険なものでも所持してないか確認するためだろうか。するとポケットに入れていたスマートフォンに気づいたようで取り出して見せた。

「何だこれ…」

志木は初めて見るその物体に訝しげに見ながらべたべたと触る。当然ながらこの時代の人間がスマートフォンなんてもの分かるはずもないだろう。

「もしかして…お前スパイか?」

「ち、違うよ」

志木がそんなことを口走るも即座に否定する。スパイと疑われるとは思っていなかった。口にした本人もそれはないと思ったようで「そもそも日本人にしか見えんしこんなところに来るわけないか…」などとぶつぶつと呟いている。

「あのさ」

「…何だよ」

志木がスマートフォンをいじるのをやめたのを見計らって話しかける。珍妙な目つきで見つめてくる志木に静かに告げる。

「お、俺、実は未来から来たんだよね」

「……………」

「わ、信じてもらえるかな?はは…」

勇気を出してそう切り出した。が、志木の怪訝な目つきは先程よりますます険しくなっている。もはや侮蔑さえも感じ取れるようなその視線に居心地が悪くなる。そんな目を向けたくなるのも当然分かるのだが、やはり辛い。別に困らせたいとか揶揄っているわけではないのだ。紛れもない事実だ。

「…お前は警察に連れていく前に俺の家に連れていく」

「え、家?」

志木が腕を掴んで引っ張って行く。連行されるような形に戸惑いながらも志木の顔はこちらから見れないのでどう思われているかは分からない。どことなく不機嫌だ。

「お前を警察に連れていくべきかは俺だけじゃ判断できないから、俺以外の人間に判断を仰ぐ」

思っていたことを見透かされたような呟きに少々面喰いながらも、結局彼の家まで大人しく連行されることになった。


*


「敏郎さん、お帰りなさいませ…ってあら、ご友人ですか?」

「違う、ただの頭がおかしい奴だ」

丘を抜けて坂道を下りると現代では住宅街となっている場所も点々と家が建っている程度の場所だった。緑が多く田んぼが広がっていてのどかな田園風景、といった感じなのだが連れてこられた志木の家はこの辺りで一番大きく格式高い造りとなっている。背の高い門を入って玄関に足を踏み入れれば広い玄関に中年の女性が立っていた。着物に割烹着を着ており、髪の毛を一つに纏めている。これは昭和の典型的な母親のスタイルだ。色んな媒体で見たことがある。訝しげにこちらを見ている女性にも手厳しい言葉を投げかけながら荷物を放るような雑さで上がり框に押し付けられて体の節々が音を上げる。


「い、痛い…怪我しているんだから手加減してくれよ」

「うるさい。さっさと上がれ」

ここに連れてくるまでも腕を引っ張らて来たのだが、その際に「怪我をしているからもっとゆっくり歩いてくれ」と言ったら最初は取り合わなかったものの、捻っている足を引きずって痛がったらきまりが悪そうな顔しながらもペースを落としてくれた。なんだかんだ言って聞き入れてくれるあたり意外と優しいのかもしれないと思ったがここでの扱いを見るとどうなのか分からない。

靴を脱いで上がり框に上がると階段を下りる音がしてもう一人中年の女性がやって来た。

「あら、敏郎。お友達?」

「いや、頭のおかしい奴だ」

「どういうこと?お友達じゃないの?その方はいったい…」

もう一人の中年女性はまとめ髪に紺絣の着物を着ている。先程玄関で迎えられた中年女性と同じように穏やかな雰囲気を纏っているが、こちらの女性の方が上品さがある。きっと良い家柄の育ちなのだろう。着物の女性は怪訝そうな顔でこちらの全身をくまなく観察した後、何かを察したように口を開いた。

「喜代さん、今すぐお湯と薬を用意してくれるかしら」

喜代、と呼ばれた中年女性が「はい、奥様」と言って足早に廊下の奥へと消えて行った。ようやく合点がいった。玄関で迎えられた中年女性が家政婦でこの目の前にいる気品のある中年女性は「奥様」と呼ばれていたことから恐らく志木の母親なのだろう。よく見たら志木とどことなく顔立ちも似ている。そしてこの人はどうやら自分が怪我をしているということにも気づいたようだった。まさか不審者として連れて来られた自分にこのような厚意を見せるなど思いもしなかった。

しかし、母親の突然の言葉に志木は動揺しているようで茫然とその姿を見送った後慌てて異議を申し立てた。


「お、おい、母さん。何する気だよ。」

「何って、この方は怪我しているのよ。手当てしてあげないと駄目でしょう?」

「でもそいつは素性の分からない奴なんだぞ。そんな怪しい奴に手当てなんて…」

「貴方がこの家に連れてきた以上はこの方はれっきとしたお客様です。貴方はこの方を家に連れてきても良いと判断したから連れてきたのでしょう?」

母親からの言葉に言い返すこともできずに志木は黙った。穏やかそうに見えて意外と殊勝なようだ。そして息子を上手く言いくるめるところはうちの母親に似ているかもしれないなとふと思う。志木を横目で見れば目が合ってしまい慌てて視線を逸らした。一瞬見えたその表情は苦虫を噛み潰したようだった。

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