第32話 久し振りの『だーれだ?』

「だーれだ?」


 久しぶりに聞く言葉と共に浩輔は後ろから両目を塞がれた。背中には柔らかな温もりを感じる。


「稲葉さん?」


 真白と付き合っている事を知ってから、茜は浩輔にちょっかいをかけるのをやめていたのに何故今になって……? 不思議に思った浩輔が恐る恐る答えると、両目を塞いでいた手が胸の辺りに滑り、力が入れられて背中の柔らかな感触が強くなった。


「せいかーい」


 耳元で甘い声が聞こえた。振り向くと茜の顔が間近にあり、驚いて飛びのいた浩輔は茜を振り払う形になってしまった。


「ご、ごめんね稲葉さん。ちょっとびっくりしちゃって……」


 驚かされたと言うのに何故か謝る浩輔の目に映った茜はプールの売店で見たトロピカル調のユニフォーム姿だった。


「浩輔……」


 浩輔の名を呼んだ後、茜の唇が動いたのだが、浩輔には茜の声が聞こえなかった。心なしか茜の目が寂しそうに見える。そしてもう一度茜の唇が動いた時、浩輔の耳に届いたのは茜の言葉では無く無機質な電子音、つまり目覚ましの音だった。


「夢か……」


 目覚ましを止めて浩輔は溜息を吐いた。夢の中で背中に感じた柔らかい感触がやけに生々しかったのは、昨日真白の胸が背中に当たっていた感触を覚えていたのだろう。なにしろ浩輔にとって初めての経験、初めての感触だ。忘れられるわけが無い。しかし何故真白では無く茜が夢に出て来たのだろう? 昨日は後ろから抱き付かれ、初めて手を握った記念すべき日だったと言うのに。


 登校し、教室に入った浩輔を見るなり信弘がご機嫌な顔で飛び付き、肩に腕を回してきた。


「昨日はお前のおかげで真由美と手を繋げたぜ。サンキューな」


 浩輔は知る由も無いが、遊園地で観覧車から降りる際に信弘が差し出した手を真由美は取ったと言うのに、あれからまだ手も繋げてなかったとは……信弘の根性無し。


「いや、別にボクのおかげって訳じゃ無いよね」


 浩輔が言うが、興奮した信弘は止まらない。


「いやぁ、謙遜謙遜。お前のおかげだよ。なぁ、郁雄!」


 いきなり振られた郁雄は返答に困るが、確かに浩輔と真白が手を繋ぐきっかけとなったのは事実だ。


「そうだな、浩輔のおかげだな」


 真顔で言う郁雄に何か恥ずかしくなってきた浩輔は顔を赤くして言った。


「ちょっ……郁雄までそんな事言うの!?」


 その騒ぎを聞きつけてか、茜が三人のところにやってきた。


「随分楽しそうだが、昨日何かあったのか?」


「あっ、稲葉さん。昨日はどうもありがとう!」


 浩輔が言うと郁雄と信弘も続いて言った。


「おお、そうだ! 昨日はありがとうな」


「助かったよ。彼女に奢られる訳にはいかないからな」


 郁雄はちゃんと礼の言葉を述べたが、信弘はよく解らない事を言い、そして余計な事まで言い出した。


「稲葉って、お嬢様だったんだな。知らなかったぜ」


 信弘の『お嬢様』という言葉に茜がピクっと反応した。茜の顔が少し険しくなった様な気がするのは気のせいだろうか? いや、その口調から少なくとも『お嬢様』と言われて機嫌が良くなった訳では無さそうだ。


「『お嬢様』……真白に聞いたのか?」


「ああ。まさか茜が稲葉グループのお嬢様だなんてな。いやぁ、びっくりしたぜ」


 調子に乗って言う信弘に茜の顔はまた少し険しくなった。それに気付いた浩輔が詫びる様に言った。


「稲葉さん、ごめん。何か気を悪くしちゃった?」


 浩輔に言われた為だろう、茜の顔から巌しさが消え、温和な表情になった。


「いや、別に隠していた訳では無い。自分から言うものでは無いだけだからな。だが浩輔、少し話したい事があるのだが、今日の放課後、少し時間を貰えないだろうか? 出来れば二人で」


 浩輔は、いや、その場にいた郁雄と信弘も耳を疑った。茜が浩輔と二人で話がしたいと言うのだ。


「またー。稲葉さん、ボクをからかおうって……」


 そこまで言って浩輔の口が止まった。茜の顔はいつも浩輔をからかう時に見せる妖しい笑顔では無く、真摯で張り詰めた様な表情をしていたのだ。


「……わ、解ったよ。でも、稲葉さ……真白ちゃんはどうしよう?」


「大丈夫、真白には私から話を通しておくから。となると今日は具合が悪いな。明日でも構わないかな?」


 そこまで言われたら茜の申し出を断れる訳が無い。浩輔は首を縦に振るしか無かった。


「すまない。じゃあ、明日の放課後。場所は……どこかリクエストはあるかな?」


 そんな事言われても浩輔が気の利いた店など知っている訳が無い。「どこでも良い」と答えると、茜は「じゃあ場所は私に任せてもらって構わないな」と言葉を残してその場を離れた。


「何だ? いったいどうしたってんだ?」


 信弘が言うが、浩輔にも訳が解らない。ただ、茜があんな顔をしていたのだ。何かただならない事態が起こるのは間違いないだろうと思うばかりだった。


          *


「だーれだ?」


 浩輔の目を塞ぐ柔らかい手、そして甘い声が奏でる言葉。その声の主は茜に違い無い。浩輔は確信を持って答えた。


「稲葉さんでしょ」


 耳元でまた甘い声が聞こえた。


「せいか~い」


 声と同時に目を覆っていた手が外され、その手が浩輔の顔を横に捻った。後ろを向かされた浩輔の目に映った顔は予想通り茜……では無く、真白だった。


「ええっ、稲葉さん!?」


 驚いて声を上げた浩輔に真白も驚いた。


「私だって分かってくれてたんじゃ無いんですか? 昨日、茜ちゃんがこうすれば浩輔先輩が喜ぶって言ってたんですけど……あっ、もしかして『稲葉さん』って、茜ちゃんの事だったんですか……?」


 寂しそうな真白に浩輔は何か言おうとするが、焦ってしまって言葉が出て来ない。


「冗談ですよ。でもおかしいな。茜ちゃん、こうすれば浩輔先輩が喜ぶって本当に言ってたんですけど……」


 首を傾げる真白。茜はいったいどんな話を真白にしたんだよ……浩輔が溜息を吐くと真白は微笑みながら言った。


「今日、茜ちゃんが浩輔先輩に何かお話があるんですって? 茜ちゃん、綺麗だからって浮気なんかしないで下さいね」


 ちゃんと大事な事は伝えてある様だ。しかし真白は何と言う可愛い事を言うのだろう。その場で抱き締めたい衝動に駆られた浩輔だったがここは学校、そんな事は出来ない。もっとも学校で無くとも浩輔にそんな度胸などある訳が無いのだが。


「うん。何か解らないんだけど、大事な話があるみたいなんだ」


「大事な話……ですか……」


 浩輔が答えると真白は複雑な表情で呟くと黙り込んでしまった。


「稲葉さん?」


 焦った浩輔が声をかけるが、真白は暗い表情で黙ったまま。冗談めかして『浮気なんかしないで下さいね』と言った真白だったが、本当に茜に浩輔を取られるとでも思っているのだろうか?


「ごめんなさい。今日は私、これで……」


 真白が重い口を開くまでほんの数十秒の事だったが、浩輔にはとてつもなく長い時間に感じられた。真白の背中を見送る浩輔は二つの思いがあった。一つは茜がどういう話をするのか? と言う事。そしてもう一つは真白を失ってしまうのではないかという嫌な予感だった。








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