バブみーベイベー

「それじゃあ、夕食の支度をしてくるね」


「あっ……」


 思わず手を伸ばしてしまう。エレナの洋服の裾に触れるも、するりと抜けていく。


 エレナが台所へ向かうのを、ただただ見つめることしかできなかった。


 テルミットは自分の席につくと、はぁ、とため息を漏らした。


 最近、どうも調子がおかしい。


 どこに居ても、何をしていても心が安らがない。常に身体に不安が付きまとっているような気がする。


 エレナに触れている間はなんとか紛らわせているが、居なくなった瞬間、今まで目を反らしていた不安が恐怖となって押し寄せてくる。


 震えを静めるように自分で自分を抱き締める。心の奥にへばりついた不安は拭えそうにない。


 エレナから抱き締められた時は、いくらか落ち着けるというのに。


 一箇所にじっとしていると、余計に気が滅入りそうになる。気分転換がてらに、外の空気を吸うことにした。






 エレナと出会った庭園に足を踏み入れる。初めて訪れた時は、美しさとどこか浮世離れした印象を受けたが、今は不気味に感じられる。


 人間だった頃はよく訪れていたが、吸血鬼となってからは、日の光が浴びられないこともあり、自然と足が遠ざかってしまっていた。


 昼間とはうって変わって、湿度を含んだ空気がひんやりと身体を冷やす。夜の冷たい空気が、こうも肌に刺さるとは。


 思わず、ぶるりと自分の身体を抱き締めた。


 あの暖かかった太陽が恋しい。柔らかな日差しの中で花を愛でて、ひだまりの中で駆け回り、木漏れ日の中で昼寝をする。そんな当たり前の生活が、こうも恋しくなるなんて。


 はぁ、と思わずため息を漏らす。


 エレナによって吸血鬼となった経緯は理解しているし、異論はない。そうしなければ、命を落としていたかもしれないのだから。


 ただ、それでも太陽の元で生きたいと願ってしまうのは、贅沢なのだろうか。


 夜風がテルミットの体温を奪う。身体だけでなく、心まで温度を奪われていく気がした。


 この世界に、一人しかいないような錯覚を覚えてしまう。


 うずくまりポツリと漏らした。


「エレナさん……」


 心の中で呟いたつもりが、声に出てしまった。


「テルっ……!」


 聞き慣れた、聞き間違うはずのない声。


 テルミットが振り向くと、エプロンをつけたままのエレナの姿があった。


 軽く息を切らせており、頬がほんのり赤みがかっている。テルミットのことを探して屋敷中を駆け回ったのだろう。


「探したよ。こんなところに居たんだね」


「す、すみません。少し外の空気が吸いたくて」


 エレナの顔がふっと緩んだ。


「夕食が出来たよ。食堂へ戻ろう」


「そうですね」


 背を向けて、屋敷の明かりの中に消えようとしているエレナに、思わず手を伸ばしてしまう。


「…………!」


 テルミットがエレナの手を握ると、屋敷に向かおうとしていた足が止まった。


「どうしたんだい? 手を握るなんて、珍しいじゃないか」


 エレナがテルミットの手に指を絡ませる。小さな指が、ほんのりと温かい。


 エレナの温度が、柔らかさが、冷たくなりかけていた心に染み渡る。


 そんなテルミットの様子を見て、エレナが手を引っ張った。


「テル、ちょっとかがんで」


「? はい」


 その場にかがむと、エレナがテルミットの頭を抱き締めた。


「え、エレナさん……?」


 柔らかな膨らみに頭を包まれる。洗剤とエレナの甘い香りが混ざり、テルミットの鼻腔をくすぐる。とろけそうな香りに、思考力が奪われていく。


 エレナの小さな手が、テルミットの頭を撫でた。


「今のテルは、迷子になった子供みたいな顔をしていた。……何かあったのかい?」


「──っ!」


 見抜かれていたのか。自分の不安を。


 弱味を知られてしまったにもかかわらず、困惑や焦りよりも、不思議とホッとしてしまっている自分がいた。


 それだけ自分が弱っていたのか。それとも、相手がエレナだからなのか。


 おずおずと、エレナの背中に腕を回した。


 気がつくと、エレナの胸にテルミットが自分の中に燻る、漠然とした不安感を吐き出していた。


 エレナは熱心に耳を傾けながら、テルミットの頭を撫でた。


「気づいてあげられなくて、ごめんね。一人で辛かったろう」


 エレナの胸に顔を埋めながら首を振る。精一杯の虚勢を見抜かれたのか、エレナの顔が緩んだ。


「吸血鬼に成りたての時に、よくあることなんだ。無性に太陽の光が恋しくなって、不安で、落ち着かなくなってしまうことが。前世のキミもそうだった」


 テルミットの頭を撫でるエレナの手に、クセのある髪が絡みつく。


「待ってておくれ。そんな時の、とっておきの方法があるんだ」


 エレナに連れられてやってきたのは、屋敷の裏庭だった。


 テルミットをベンチに座らせると、エレナがどこからか薪を運んで来た。


「あ、僕が持っていきますよ」


 エレナとしては休んで欲しかったのだが、何もしていないというのも落ち着かないのだろう。


 テルミットの厚意に甘えることにした。


 エレナが魔法で薪に火を付け、火にあたる。


 炎から広がる熱が、じんわりと身体を温める。揺らめく炎を見つめていると、自然と心が落ち着いていくのがわかった。


 毛布に包まりながら、炎に手をかざす。


「どうだい? 暖かいだろう」


「はい」


 テルミットの様子を見て、エレナ満足そうに笑った。


 それからエレナが台所へ戻ると、何やらカップを持ってきた。


 テルミットに差し出すと、仄かに湯気が昇る。


「ホットミルクだ。温まるよ」


 エレナの厚意に甘えて、口をつける。


「……甘くて美味しいです」


 エレナが満足そうに微笑んだ。


「蜂蜜を入れてみたんだ。お気に召したようで良かったよ」


 テルミットが首を振った。


「……たぶん、それだけじゃないです。甘くて、胸が温かくなります……」


「そうだった。隠し味に、ボクの愛情もたっぷり入れたからね」


 微かに頬を染めながら、テルミットの肩に身体を委ねる。


 やがて、もぞもぞとテルミットの被る毛布に潜り込んだ。


 二人で一枚の毛布に包まると、どちらともなく身を寄せ合う。


 焚き火の暖かさと、エレナの重さが心地いい。


 いつの間にか、テルミットの中に漠然と燻っていた不安が吹き飛んでしまった。


 火の力はすごい。そう思ったところで、頭を振る。


 違う。焚き火だけでなく、隣にエレナがいるから、余計に安心できるのだ。


 彼女のニオイが、柔らかさが、温度が、重さが、存在が。すべてがテルミットを安心させる特効薬なのだ。


 そう思うと、隣に座る彼女の身体を力一杯抱き締めたい衝動に駆られた。


 いやしかし、これ以上彼女に甘えていいものか。


 ただでさえ、彼女には世話になりっぱなしだというのに、身体まで求めていいのか。自分が弱っているのをいいことに、好きにしていいわけではない。


 テルミットの葛藤を見抜いたのか、エレナがテルミットが伸ばしかけた手をとる。そして、ダメ押しとばかりに自らの胸に運んだ。


「え、エレナさん!?」


 左手に伝わる、触り慣れた、しかし飽きさせることのない、むしろ一度触るとクセになる感触が指先に触れた。


 先程までの葛藤は一瞬で霧散し、今はこの感触を楽しむことに、意識を奪われていく。


「気持ちがヘコんだときは、おっぱいを揉むといいんだ」


 少し照れくさそうに身体をくねらせる。やがてテルミットに身を寄せると、恥ずかしげに耳元で囁いた。


「……これはテル専用だから、好きな時に使っていいんだからね」


「…………っ!?」


 エレナの言葉に、脳が沸騰しそうになる。


 エレナの不意打ちに、思わず全身が強張る。


 しかし、緊張しているのはテルミットだけではないらしく、左手から伝わるエレナの鼓動が、早くなっていくのがわかった。


 エレナへの想いが溢れて止まらない。


 どちらともなく、吸い込まれるように唇が触れ合う。


 唇が離れると、微かに残る柔らかさが理性を溶かす。もはやテルミットの心には、一片たりとも不安は残されていなかった。


 それ以降、テルミットの不安が再燃したら、場所も選ばずエレナの胸に触れながら唇を合わせることとなった。


 ある時は寝室で。またある時は食堂で。庭園で。裏庭で。お風呂で。トイレで。廊下で。エントランスで。


 時に羞恥に頬を染めながら。蠱惑的に微笑みながら。どこか期待する眼差しを送りながら、エレナはすべてに応じてくれた。


 気が付くと、エレナなしでは生きられない身体になってしまっていた。


 だが、これでいいのだと思う。少し前まで考えられなかった考えだが、今のテルミットには不思議とそれがしっくりきて、誇らしいとさえ思えた。

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