夜風の邂逅
出立の前夜。館の中庭で、セスは偶然シルキィと顔を合わせた。
彼女は噴水の縁に腰を下ろし、星空を見上げていた。月光に照らされた白い横顔はどこか儚げで、言葉を失うほどに美しい。
星を映す瞳は柔らかく、ほのかに微笑んでいるような口元には気品がある。知性に溢れる居住まいは、組合で見たシルキィとはまるで別人だ。
荘厳な一枚絵のごときシルキィの姿は、セスが気付くと同時に露と消えてしまう。彼女は柳眉を逆立たせ口元を歪ませ、歩み寄ったセスを睨みつけた。
「何か用?」
相変わらず険のある声だ。
「夜風にあたっていると、ミス・シエラのお姿が見えたものですから。ここに来てからあまりお会いできていませんでしたし、叶うことなら少しお話でもと」
トゥジクスの計らいによって、セスはラ・シエラの館に滞在を許されていた。シルキィはそれが気に入らないようで、意図的にセスを避けているのだ。
「あなた、何か勘違いしていないかしら? 護衛を依頼したからって、気安く話しかけることを許した覚えはないわ」
「警護の為にも、お互いに理解を深めた方がよろしいかと存じます」
「必要ないわそんなこと。ティアに勝ちを譲られたからって、有頂天になっているんじゃないでしょうね」
「とんでもありません。あの時は運よくアイギスに見初められただけ。一歩間違えれば不覚を取っていたのは私の方でした」
アイギスとは、大陸全土で信仰されている戦いと勝利の女神だ。アイギスに見初められるとは、勝負事の運が向くということを意味している。
「当然よ。私にはティアがいる。お父様の意地悪な条件さえなければ、そもそもあなたなんか不要なんだから」
確かにティアの剣は冴えている。凡百の剣士とは比べ物にならない。だが、旅の護衛としてシルキィを守り切れるかどうかとは、また別の問題だ。
「つかぬことを伺いますが、ミス・シエラ。どのような者ならばご自身の護衛に相応しいとお考えですか?」
問われたシルキィはしばし思案する仕草を見せてから、したり顔で口を開いた。
「かの英雄レイヴンのようなお人ならば、願ってもありません」
「レイヴン?」
「知らないの?」
その声には責めるような響きがあった。
「存じております。とある物語の主人公ですね」
「レイヴンズストーリーはノンフィクションよ。レイヴンは、実在の人物なの」
シルキィの口から出たのは、帝国内で話題沸騰中のシリーズ小説の名である。主人公の奴隷剣闘士レイヴンが、剣闘の世界で活躍し、国や貴族の陰謀に巻き込まれながらも剣闘士としての名声と自由を手に入れる、という大筋の英雄譚である。
実際に帝国では剣闘が盛んであり、剣闘士達が凌ぎを削る興行として広く認知されている。その残虐性から、帝国内でも賛否両論が叫ばれているが、皇帝自らが推進する行事である為その規模は極めて大きい。
レイヴンズストーリーはそんな剣闘士の姿を広く世間に浸透させた作品であり、特に若い女性を対象に書かれている為か、最近では剣闘そのものの人気も高まって帝国の誇る一大事業としてその地位を確立しつつあった。
セスは中身を読んだことはないが、物語の概要は知っている。
「その小説は私も存じていますが……主人公のレイヴンは剣奴ではありませんか。シルキィ様は世に卑しいとされる奴隷の護衛をお望みなのですか?」
「これだから野蛮人は」
シルキィは小馬鹿にするようにせせら笑った。
「確かに奴隷は卑しい身分かもしれないわ。けれど、魂は身分に宿るものじゃない。いいえ、低い身分であるからこそ、その肉体に宿る気高く高貴な魂はどんな聖者よりも尊い」
作中からの引用だろうか。アルゴノートという生業を侮辱しておきながらのこの発言の矛盾に、彼女は気付いていないようだ。
「レイヴンの信条をご存知かしら? 勝利は幸、敗北は不幸。彼は決して自身の非運を嘆かなかった。どのような境遇にあろうとも、いかなる苦難の前であろうと、彼は決して怯むことなく、毅然として胸を張り悠々と勝ち進んだのです」
まるで自分の功績であるかのように、シルキィは得意げに語っていた。
「高尚な心根を持ち、現実的な強さを兼ね備えている。お嬢様は、レイヴンのそんなところに惹かれていると?」
「ひ、惹かれ……? ま、まぁそうね」
シルキィは頬を染めて俯く。少女らしい可憐な仕草は、羞恥を自覚させられた怒りをもって鋭い視線に変わった。
セスは苦笑を漏らす他に選択肢を持たなかった。年頃の娘が創作物の登場人物に熱を上げるのはそう珍しいことではない。
とはいえ、史実のレイヴンが活躍した時代は百年も前に遡る。実際のレイヴンと小説に描かれる彼は大いにかけ離れていることだろう。
創作の登場人物に理想を抱く彼女の言葉は、実に年頃の少女らしいものだ。セスは自身への侮蔑はどこ吹く風、シルキィを微笑ましく思った。
「道中、エルリス領にダプアという街があるわ。レイヴンが剣闘士として初めて立った地よ。あなたも少しは彼の生き様を学んでみてはどう?」
「心得ておきます」
「まあ、所詮は野蛮人。いくら理解できるものかわからないけど」
シルキィのつんとした物言いに、セスはそれ以上何も言わない。
夏の温い風が、二人の肌を撫でていった。
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