【Web版完結】アルゴノートのおんがえし【書籍化希望】
朝食ダンゴ
プロローグ
ラ・シエラの森は深い。
生い茂る草木は月光を遮り、恐怖の象徴たる闇をもたらす。
大樹を背に座り込む少年は、虚ろな瞳で力ない呼吸を繰り返していた。纏わりつく鮮血が、体を伝って土に染み込んでいく。
「そんな小さな身体で、よく戦った」
敬意を込めて呟いたのは、十の騎兵を従えた威容の壮年だ。屈強な肉体に纏う全身鎧はところどころが疵付き欠けている。彼の跨る銀の軍馬は青白い燐光を纏い、まるで芸術品のごとき輝きを湛えていた。
すでに少年の目に男は映っていなかったが、その姿は網膜に焼き付いて離れない。
猛将トゥジクス。憎きラ・シエラの領主。父の仇。
「可哀想だが、これも戦争だ」
その言葉は彼の本心であり、また揺るぎない事実でもある。
トゥジクスはあえて緩慢な所作で、ハルバードの切っ先を少年へ向けた。
見えずともわかる。鋭利な尖端は紛うことなく少年の心臓を狙っている。
「勇敢であったぞ。アシュテネのローウェン」
せめて苦しまず。そんな心情が伝わってくるかのようだ。
少年にとってそれは慈悲ではなく、むしろ屈辱であった。勝者の情けは自己陶酔に過ぎぬがゆえに。
突き出された重厚なハルバードは、この心臓を正確に破壊するだろう。
そして息絶えるのだ。父の仇を取ることもできず、暗い絶望に抱かれたまま。
それでいいのか。少年は自問する。
いいはずがない。答えは決まっていた。
幾多の傷を刻もうと、未だ折れざる手中の剣。父より託されたこの一振りに、必ず生きると誓ったのだ。たとえ瀕死であろうと、光を失っていようと、死に甘んじてなるものか。
体よ、動け。
宵闇の森に響いた鈍い金属音。トゥジクスの放った刺突を、少年の剣が弾いた。鋭利な尖端は、背後の大木をわずかに傷付けたのみ。
「なんと」
極めて緩やかな突きではあった。しかし少年がそれを捌いたという事実は、この場の全員に声をあげさせる。
少年の白い髪が揺れた。目元を覆う長い前髪は、血に染みて赤黒く固まっている。立ち上がった少年に集まるのは、同情と憐憫、あるいは嘲弄、そして敬服の視線。
トゥジクスの瞳は、深い悲哀に満ちていた。
「これ以上はもう、やめなさい。苦痛を長引かせるだけだ」
「ふざけるな」
絞り出したかすかな声に、彼の強き一念が顕れる。
「俺は、生きている」
息は絶え絶えだ。両目は使い物にならない。斬られ、突かれ、射られ、打たれ、多くの血を流し、いくつかの骨を砕かれた。
眼前に死が迫っている。足掻いても、泣き喚いても、その運命が覆ることはない。
だが、それでも。
「生きて、戦っている!」
諦めてなるものか。
この手に剣がある限り、心に炎がある限り、何度でも立ち上がり、勝利の為に戦うのだ。
「ローウェン。もうよせ」
少年は剣を構える。その鍔に埋め込まれた宝玉から、七色の閃きが迸った。
「行くぞ……! ラ・シエラ!」
同時に、少年の全身を眩いばかりの虹の光が包み込む。
大地を蹴って跳躍した少年は、大きく長剣を振りかぶり、雄叫びと共にトゥジクスの頭上から斬りかかった。
鋭い金属音が、暗がりの森に木霊する。
ハルバードの柄で一撃を受け止めたトゥジクスは、全身に青白い光を纏っていた。
清麗なる青と、荘厳たる虹の激突は、深き森を満たした闇を瞬時にして打ち払った。林立する木々の隙間を、色とりどりの光芒が縫い、遥かまで伸び広がっていく。
「ぐぅっ――!」
トゥジクスの歯が軋む。
膨大な魔力同士の衝突。その余波は二人を中心にして大地を抉り取る。固い土、あらゆる草木や岩石、深く根を張った大樹でさえも、その悉くが竜巻に煽られたかのように渦を描いて上空へと舞った。
トゥジクスが従えていた騎士達は、突風じみた凄絶な魔力の奔流を浴びて散り散りとなって吹き飛ばされた。いずれもラ・シエラにおいて名を馳せた勇者と名馬達である。
「アシュテネの虹……これほどか!」
少年の小さな身に秘められた魔力は、猛将と謳われるトゥジクスを相手になお圧倒するほどに濃密にして強大であった。
漆黒の宵闇はすでになく、眩いばかりの輝きが辺り一帯を蹂躙している。
武器を打ち合わせたのは、たった一度きり。
幾許かの後、二人の魔力は収束し、再び闇が訪れる。
深い森の真ん中に大きな円形の窪みが形成され、地形はまるで変わっていた。
「これは」
トゥジクスは息を整え、周囲を見渡す。
すでに少年の姿はどこにもなく、従えていた騎士達も影一つ見えない。
「魔力の暴走に、耐えられなかったか」
未熟な身でありながら、地形を変えるほどの一撃を放ったのだ。少年は自身の力を制御すること叶わず、周囲に甚大な被害をもたらした挙句、暴走した魔力に呑まれ消滅してしまったのだろう。
「勝つには……勝ったが」
それが真実であるかどうかは定かではない。
「手放しでは、喜べんな」
光に呑み込まれた者達の行方は、いつまでもわからないままであった。
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