1-49 問答
無限に広がる血の海があった。
天に届く無量の屍の山があった。
散らばる臓物。堪え切れない異臭。
惨状が、地獄が、そこにはあった。
それは復讐という大義名分の下に積み重ねてきた、ジンが直接手に掛けてきた者達の尸の山。
そしてその中心に、ジンは立っていた。
「ここは……」
《目が覚めましたか?》
背後から掛けられたのは、聞き覚えのある無機質な少女の声。
そこにあるのは、風化した石造りの祭壇。
その中心には、古く崩れ掛けた玉座に腰を掛ける少女の姿があった。
純白の髪、純白の肌、純白の瞳。全てが白で統一された、人形のような少女だった。
ジンは驚くことも、怪しむこともしなかった。
その少女の正体が、自分にとって一番身近なあの存在だと、とっくに知っていたから。
「お前か、トワ」
《その通りです。この姿では初めましてになりますね》
にっこりと、トワは笑顔を作る。形だけを真似た、精巧な微笑の模型を。
「幽体のお前が見えるっていうことは、オレは死んだのか?」
《そんなわけないでしょう馬鹿ですか? まあ、このまま時間が経てばそうなるでしょうが、フィリア嬢があなたを生かすでしょう》
「駄目だそんなこと! 今すぐオレを外に出してくれ! お前なら、あの程度の傷治すなんて朝飯前だろ!?」
その報告を受け、ジンは焦燥感に駆られて現実への覚醒を要求する。
これはライトも知らないことだが、トワは優れた治癒力を持っている。昨日ジンが倒れたときにその肉体を治したのは、他でもない彼女なのだ。
《申し訳ありませんが、その命令には従えません》
しかし、トワが見せたのは、今まで一度としてなかった明確な拒絶の反応だった。
「……何故だ」
《それはあなたがよく知っているでしょう? あなたは今、私にジン・ソルレイドを殺せと言っているのですよ》
「傷が治ればもう負けない! 大丈夫だ。いざとなったらアリサを抱えて逃げればいい。助けが来るまで粘れば、それで――」
《そんな戯言が私に通用するとでも思っているのですか! あなたは!?》
少女のこれまで見たこともない憤激が、ジンの鼓膜を突き破り、胸に重く突き刺さる。
ジンは驚きはしなかった。ただ静かに、「バレてたか」とバツが悪そうに肩を竦めるだけ。
そしてその反応が、より少女の激昂を呼んだ。
《私が気付いていないとでも思いましたか⁉ これまであなたの身体を治してきたのは他ならぬ私ですよ!? 誰よりもよく分かっています。あなたの肉体が、ほぼ限界を迎えていることに! 今ではもう、日常生活に支障を来たす域にまで達していることに!》
トワの言うことは正しい。
ホムンクルスとは、実験動物として造られた人工生命。実験に耐え得るように急速に成長させられ、無理な実験を重ねられたジンの身体は、あの塔を出たときに既に崩壊を始めていた。
これまで十年間持ったこと自体が奇跡なのだ。しかしそれもとうとう限界を迎えた。
昨日の発作から目覚めたときから、ジンの左腕から感覚が失われていた。筋肉を意識的に収縮させることでどうにか誤魔化していたが、その内そんな小細工も出来なくなる。
ジンは昨夜の時点で、己が死期を悟っていたのだ。
《寿命が残り僅かの状態で、肉体を過度に動かすことがどれだけ危険なことか、分からないあなたではないでしょう!? それなのにどうして、アリサ嬢を助けようとするんですか。そんなことしたら、勝っても負けても、あなたは死んでしまうではないですか!》
その慟哭と共に、ジンの足下から何本もの鎖が出現し、厳重に肉体を拘束する。
《無理矢理にでも、止めますよ。私は、あなたに生きて欲しいのです。アリサ嬢がどうなろうと知ったことではありません。あなたの命には変えられない。全てが終わるまで、あなたをここから出す気はありません!》
鎖は足を縛り、胴を巻き、腕に絡まり、ジンという存在を強い力でこの世界に縫い付ける。
《私がどうして、あなたにあの力を使わせなくなったか分かりますか!? あなたに、死んで欲しくなかったから! いつかあなたが報われる、そんな機会を奪いたくなかったから! もういいじゃないですか。報われるときはやって来ました。フィリア嬢は言っていたじゃないですか。寿命を延ばす術を見つけたと。これからは、人として長い生を歩むことが出来るんです!》
トワの悲痛な叫びに呼応して、鎖の縛る力がより強くなる。
《もっと、自分の命を大切にして下さい! あなたは一度も、自分を顧みたことはなかった! 人間なら、私欲に走って当然でしょう? 我欲を優先するのが当たり前でしょう? 辛いことなんて、知らない別の誰かに任せればいいじゃないですか!》
彼女の言うことが何も間違っていないことを、ジンはよく分かっていた。
彼女の言った通り、私欲我欲を優先するのが人間として正しい在り方なのだろう。
それでも、
「それは出来ない。何せオレは、非人間だからな」
ジンを縛っていた鎖が、一瞬で全て砕け散る。膨大なその意志の力に耐え切れなくなったように、脆く儚く砕け散った。
「何もかもお前が正しい。自分を優先。これが人としてあるべき姿なんだ。こうなれないオレは、確かに狂っているんだろうな。心の在り方が捻れてるんだ。そんなことは、ずっと前から分かってた」
ジンは真っ直ぐに、少女の瞳を見つめる。トワの白い瞳は、鋭く細められ、厳しい光を放っていた。
「だけどさ、あの日からオレ、笑えないんだ。――誰かと一緒じゃないと、笑えないんだ」
《っ…………》
だがその言葉で、白き瞳から鋭さが消え、揺れ動き、そして乱れた。
「外の空は広かった。外にはあの壁の中にはない素晴らしいものが沢山あった。けど、一人だと何の感情も湧かなかった。少しも笑えなかった。生きてる実感なんて湧かなかったんだ。そんなの、死人と何が違うんだ?」
ジンは歩く。崩れ掛けた玉座に座る、少女の元へ。
「ただ一人で無為に生きる一年。誰かと笑って過ごす三日。比べるまでもない。オレは、迷うことなく後者を選ぶ。――だからそのために、お前の力を貸して欲しい」
そしてジンは、唯一の相棒に手を伸ばした。
《……本気で言ってるのですか》
「本気だ。オレは、オレの持つ全てを使ってアリサを守る」
《死にますよ……? 私の力は、寿命を削る禁術。あなたのような脆い肉体で、耐えられる筈が――》
「覚悟の上だ!」
力強い宣言が、玉座を震わす。
差し出された手を見て、トワは溢れるナニカを抑え込むように顔をしかめ、そして最後に、諦めるように息を吐き出した。
《……あー、もう! わーかーりーまーしーたー! ジンの何処までも頑固なその考えを矯正することは諦めます。私の負けです降参です。こうなったら最後まで付き合ってやりますよ! この大馬鹿!》
やけになったかのようにトワは大声を張り上げると、玉座から立ち上がり、その手をこれでもかと強く握り返す。
《今こそ、あなたの真意を問いましょう。ジン、あなたは力が欲しいですか?》
「ああ、欲しい。欲しくて欲しくて仕方がない」
それは、あの日の再現。
ただ目の前の憎悪を満たすためだけに施行したあの契約とは違う。
ジンの本当にしたいこと。真なる望みを叶えるための、再契約。
《例えその先に死しか待っていないとしても、あなたはそれでも力を求めますか?》
「当然だ」
《その望む力とは、一体?》
「決まっている。大切な人を守り、助け、支え、導き、救う。その全てを叶えられる力だ」
その答えを聞いて、トワが呆れを隠し切れずに、頬を綻ばせてしまう。
《欲張りな人ですね。ですが、それでこそジンです。あなたこそが、私の主に相応しい》
そして少女は、手の平に白く渦巻く星を創り出し、それを己が主へと差し出した。
《再びあなたに、星の光を授けましょう。私の名はトワ=カラミティ。又の名を――
眩い白き閃光が、仮初めの世界を純白に包み込んでいく。
そして夢想が崩れ、意識はそのまま夢から脱却する。
《ジン。もう二度と後悔したくないと言うのなら、もう二度とただ見送るだけの無力な自分に戻りたくないと言うのなら。
全力であなたの総てを出し切り、思う存分、彼女を救いなさい》
――ああ、任せておけ。
そう答え、ジンはその足を前へと踏み出した。
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