1-18 すげぇええええええええええ!

「アリサ!」


 猫仮面の生死を確認する手間すら惜しみ、ジンは急いでふらついていたアリサの体を支える。


 見るからに重傷だった。

 斬られた首の傷からは今も止めどなく血が溢れ出し、出血多量のせいで顔色は蒼白。

 地面に広がる真っ赤な水溜まりから見ても、アリサは支えているとはいえこうして今立っていられることすら不思議な状態だった。


「ジ……ン……?」


 息も絶え絶えのアリサが、自分を支えているがジンだと気付く。焦点の合わない目の様子から視界が思うように効いていない筈だが、どうやら声で判別したようだ。


「喋るな。今応急処置するから」


 服の裾を破り、アリサの首に当てようとするが、そこで突き出された手に阻まれる。


「……大丈夫。いらない」

「お前、今は強がってる場合じゃ――」

「違う……。もう、治ったから……」

「は?」


 ジンがやっと絞り出せたこの声に込められていたのは、アリサの意味の分からない発言への狼狽か。

 それとも、己の理解力を超えた目の前の光景への、底知れぬ驚愕か。


「おま……何で……」

「…………」


 信じられないものを見る目を向けるジンから逃げるように、アリサは目を伏せる。


 ジンが凝視しているのは、アリサの血濡れの首。

 ついさっきまで血が溢れ出ていた筈の裂傷が、見る影もなく何処にも存在していなかった。


 アリサの首や衣服、そして地面に刻まれた紅い痕が無ければ、そこに傷があった事実さえも信じられないほど、元通りになっていたのだ。


 自分の目がおかしくなっていないことを確認するように、ジンがそっとアリサの首に手を添える。


 首に触れて瞬間、一瞬アリサが身体を硬直させるが、ジンはお構いなしだと言わんばかりに傷口があった筈の場所を撫でる。


 血の粘ついた触感を押しのけた先に触れたのは、あまりにも柔らかいアリサの肌。

 傷は、それでも確認出来なかった。


「……………………す」


 ジンは己の内側に迸る激情を言葉にしようとするが、口の中がカラカラなせいでそれは妨げられる。

 あり得ない。何なんだこれは。あり得るのか。こんなことがあっていいのか。これは、これはあまりにも――――


「……やっぱり、そうなる、よね……」


 中々言葉を発しないジンの反応を何と勘違いしたのか、アリサが悲しそうに、だが納得したように声を震わせる。


「こんなの、気持ちわる――」

「すげぇえええええええええええええええええええええええええええええええええッ!」


 その落胆を掻き消したのは、柄にもなくあらん限りに喉を震わせたジンの叫び声。

 ジンはガシィッと力強くアリサの両肩を掴んだかと思うと、童心に返ったかのように目を輝かせていた。


「凄いな! 何だそれは! どういう原理なんだ!? 回復系統の最上位か!? いやそんなもの比べものにならない! 本物の奇跡じゃないか!」


 誰も見たことのないハイテンションで、ひたすらに「スゲェ」を連呼し続けていた。


「…………へぁ?」


 一方アリサはというと、己が予想した未来とはあまりにも乖離し過ぎた現実を前に、目を白黒させて声にもならないものを口から漏らしていた。


 だがその真っ白になった頭が現実に追いつくには、然程時間は掛からなかった。


「気持ち悪く、思わないの……?」

「気持ち悪くって、何がだ。それより、それ何の術式だ!? 固有系統か何かか!?」

《ジン、落ち着いて下さい。また鉄拳制裁を羽目になりますよ》

「……すまない。ちょっと興奮していた」


 トワに窘められ、ジンはスッとアリサの肩から手を離す。

 ついさっき食らった後頭部の衝撃を思い出したのだろう。


 更によくよく考えてみれば、アリサのジンへの好感度は0を超えてマイナスの域なのだ。

 琴線に触れる現象を前にして、少しハシャぎ過ぎてしまった気もしなくはない。


《アリサ嬢の超常的な回復力について訊きたい気持ちは理解出来ますが、それ以前に、ですよ》

(ああ、分かってる)


 そのことを指摘され、ジンはポケットから一枚のハンカチを取り出しアリサに手渡す。

 アリサは渡されたハンカチを広げてみるが、何の変哲もないただの布だ。


「(とんっとんっ)」

「あ……!」


 しばらくキョトンとしていたのだが、自分の首元を指で叩くジンの仕草を見てようやく理解して、恥ずかしそうに頬を紅く染める。


 アリサの首筋の傷は既に塞がっているが、その痕跡まで消せたわけではない。

 現に今も首筋を中心に、アリサの全身は自分自身の血で真っ赤に塗り潰されている。


 服に染み込んでしまった分はどうしようもないが、肌に付着した分はまだ乾き切っていないのでハンカチである程度は拭える筈だ。


「でも、いいの……?」

「女の子が身嗜みに気を配らないでどうする。てか絵面がただただ怖い。早く拭いてくれ」


 おずおずと尋ねてくるアリサに、ジンはぶっきらぼうにそう返す。

 アリサはそれを聞くと、申し訳なさそうに頭を下げ、後ろを向いて血を拭き始めた。


《ていうか、最初からあのハンカチ渡しておけばよかったじゃないですか。冷静そうに振舞っておきながら、内心とても動揺していたのですね》

「うるさい黙れ」


 トワの的を得た指摘に、ジンは不機嫌に顔を歪める。

 彼をよく知る者がそれを見たら、照れ隠しだとすぐに見破れるだろう。

 そしてそんなジンの肩を、背後から力強く掴む影が一つ。


「いよぅジン。元気だったかぁ…………!?」

「げ。ライト、キサマ何故生きて……!?」


 その人影の正体は、遅れてこの場に登場したライトだった。

 何故か全身ズタボロで、まるで装備もなくスカイダイビングを楽しんだ後のような有様だった。


「『何故生きて……!?』じゃねえ! 勝手に人を上空に飛ばしておきながら、一人で降りるったぁどういう了見だ!」

「ギリギリの事態だったから、お前にまで気を回す余裕が無かったんだ。でもよかったじゃないか。結果アリサも助かって、誰も死なないハッピーエンドだ」

「ここに一人死線を彷徨った不幸な被害者が居るんだが!?」


 ライトがここまでズタボロなのは、ジンの提案したアリサ捜索作戦のせいだ。


 その概要は至ってシンプル。

 スラム全体を見渡せる高度まで『闇渡り』で一瞬で跳んだ後、自由落下に身を任せながらライトの目でアリサを見つけ出し、そこへ再び『闇渡り』で移動する、というものだった。


 しかしアリサの現状が現状だったせいで、慌ててジンが単身で跳んでいき、残されたライトはそのまま地面に墜落。

 つまりライトはジンに利用されるだけ利用された挙句、最後はゴミのように捨てられたというわけだ。あまりに不憫。


「あ、ライト。来てたんだ……」


 そこで一通り汚れを拭き終えたアリサが、ようやくライトの存在に気が付いて「げ……」と後退りする。


「来てたんだ、じゃねえ。何回言わせる気だ。人気のねえ場所に一人で行くなって」

「ご、ごめん……」


 まるで借りてきた猫のようにしょんぼりと項垂れ、アリサは大人しくライトの説教を聞き入れていた。


《何だか、デジャヴを感じますね》

「エミリア先輩にもあんな感じだったからな。もしかしたらアリサは竜撃隊の皆からあんな扱いなのかもしれないな」


 一応受けた説明ではライトよりもベテランな最古参だった筈なのだが、アリサのあの姿を見てそう思うものは少ないだろう。


「――ッツ!」


 ジンはライト達の方に足を踏み出そうとするが、突然鋭く走った激痛がそれを妨げる。


《どうしました?》

「いや、何か右足に痛みが――」


 ジンは今も痛みが走る右足に視線を向け、そして目を見張った。

 ジンの右踵、アキレス腱に当たる部位に真っ赤な横線が入り、そこから血が垂れ流れていたのだ。


 何故今まで気付かなかったのか。いや、そもそも何処で――


「なるほど、上空か。そこは盲点だったよ」


 そこで、その謎の答え合わせをするかのように、機械仕掛けの声が響く。


 その場にいた全員が、声のした方を向いた。


 視線の先に立っていたのは、黒装飾の白猫の仮面。

 無傷の暗殺者が、悠然と佇んでいた。

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