序章II 再起

 ふと、昔の夢を見た。

 苦しいだけだった日々に、僅かでも日常と呼べる安らぎを感じていた、あのときの夢を。


「……この世界をどう思うか、か」


 錠で縛られた両手両足を重そうに動かしながら、白髪の青年はその問いを噛み締める。


 結局、一度として彼女が求める答えを言ってあげることは叶わなかった。

 あれから何度も自分の想いを述べても、彼女はただ「キミらしいね」と薄っすらと笑うだけ。その答えに満足していないことは一目瞭然だった。


 今胸に秘めるこの想いも、彼女の望むものだとは到底思えない。

 だがそれでも、青年のこの想いが決して揺らぐとは思えない。何年も掛けて外の世界を見てきた青年が抱いた、その答えの到達点。


「この世界は、醜い」


 外の世界の空は広く、綺麗だった。

 全身を吹き抜ける風もとても心地良かった。

 あの狭い世界では決して味わえない素晴らしい体験を何度もした。全てが新鮮で、楽しくて、面白くて。


 だがそれを補って余りある程に、外の世界の人間は醜かった。

 際限のない欲に呑まれた、堕落の一途を辿る卑しい生物。


 そんな生物が当然のように闊歩する世界を、醜い以外の言葉でどう表せというのか。

 これだったら、彼女と一緒に過ごしたあの窮屈な世界の方が、まだ何倍もマシだった。


「けど今は、空も見えないな……」


 青年が上を見上げても、灯り一つない真っ暗で錆び付いた天井しか見えない。

 逃走防止用か、その部屋には小窓一つ付いておらず、拳一個分の大きさの換気扇が回っているだけだ。


 出たいとは思わない。出たところで、自分にはもう何かをしようとする気力すら沸かない。

 残る一生をこの中で過ごしても構わない。そうすれば、新しい幸福は見つからなくとも、更なる悲劇に遭うこともない。


 既に為すべきことは為した。もうやり残したことはない。


 ただ心残りが一つだけあるとすれば、


「墓参り、しばらく行ってないな……」


 彼女との思い出が詰まったあの場所を、もう何年も訪れていないことだろうか。


 皆寂しんでいるだろう。あの墓の存在を唯一知っている者がこの有様なのだ。きっとあの何もない丘の上で、心細く縮こまっているに違いない。

 最後に墓参りをしたのは、本当に何年前のことになるだろう。


『行きたいか? もう一度その場所に』


 突如、世界に光が差した。

 壁にもたれて座る青年の視界に映る大扉。頑丈に施錠されていた筈のその扉が乱暴に開かれ、外の光が一気に差し込んできたのだ。


「……人が訪ねてくるなんて初めてだ。お茶でも出せればよかったんだが、見ての通り自由に動けなくてな」

「囚われた罪人の演技ご苦労。鋼鉄の鎖程度、お前には何の妨げにもならないだろう?」


 コツン、コツン、と静かな空間に男の足音が響く。

 逆光に照らされるのは、爽やかな金髪。輝かしい翡翠の瞳は、まるで推し量るかのように照準を青年に合わせ、その深奥を覗き込もうとする。


『アーク将軍、危険です! その男は貴族殺しの大罪人。一ヶ月後には処刑が決まっていた危険人物ですぞ!』

「俺が、この罪人を危険視する必要でもあるのか?」

『……い、いえ、申し訳ありません』


 急いで駆け付けてきた足音と共にまた別の男の声が聞こえたが、アークと呼ばれた男があっさりと言い伏せて黙らせる。


「……アークだと?」

「自己紹介が遅れたな。俺はアーク・レン。イリアス帝国騎士軍のただのイケメン将校だ」

「ヌケヌケと。アークって言ったら、帝国はおろか世界最強と謳われる法術士と同じ名前じゃないか」

「バレちまったか。まあ、世界最強ってのは否定はしない。何せ今まで負けたことないしな!」


 青年が自分を知っていたのが嬉しいのか、アークは歯を見せて豪快に笑う。


 尤も、この大陸でアーク・レンの名前を知らない者の方が珍しいのだが。

 それ程までに、青年の目の前に立つこの男は人間離れしている。


 実力は天地の差。仮に万全の状態で青年がアークに襲い掛かったとしても、どんな手を尽くしたところで十秒も持たないと断言出来る。


「その最強が、オレに何の用だ? もしかして、アンタがオレの処刑執行人?」

「馬鹿野郎。そんなアホな役目、どんなにギャラを積まれたってお断りだ。俺はお前と取引しにきたんだよ」


 アークはそう言うと、青年の頭上ギリギリの空間を蹴り抜き、靴底で青年がもたれる壁をぶち抜いた。


 轟音と共に、青年がさっきまで凭れていた壁が綺麗さっぱりに消え去り、ドアの先からのものとは違う、天然の光が青年の背中を照らす。


 アークの足が少し下にズレただけで頭が粉々になっていたというのに、青年は瞬き一つせずに無愛想な表情を保っていた。


「取引って?」

「お前には、これから俺の隊に所属して馬車馬のように働いてもらう。それと引き換えに、お前を無罪にしてここから出させてやる」

「それは取引とは言わないな。オレはここでの暮らしが意外と気に入っているんだ。アンタのところで働くメリットが感じられない」

「ああ、そうだろうな。全てが終わったと思って・・・・・・・・・・・いる・・奴から見れば、ここの暮らしも案外いいものなのかもな」

「……何だと?」


 アークの言葉に、青年が不愉快そうに眉をひそめる。


「お前に残された選択肢は二つ。何もかもから目を背けて死に逃げるか、ソレを知りたくなかったと打ちのめされるか。後者を選んだのなら、お情けで墓参りくらいはさせてやる」

「……っ」


 甘言が、青年の鼓膜と脳を同時に揺らす。


 あの場所に、行ける。

 彼女との思い出の地。鮮明に、だが同時に酷く朧けになってしまった、あの狭い世界に。


「……いいだろう」


 暗く淀んだ目に、僅かばかりの光が宿る。

 死んだも同然の身に、生きるための目標が出来た。

 か細く小さな目標だが、一度滾ってしまったからには、もう止められない。


 それを叶えるためならば、差し出されたのが悪魔の手であろうと掴んでみせよう。


「入るよ、アンタの隊に。ただし約束は守れよ」


 青年の手首足首を拘束していた手錠足枷が砕け散る。

 錆びて脆くなっていたわけではない。十分な強度を保っていたその鉄の塊を、青年が力任せに容易く破壊したのだ。


「ああ、契約成立だ。歓迎するよ、『貴族殺し』。えーっと、名前、なんだっけ?」


 上辺だけの笑顔と共にアークが手を差し出し、わざわざ既知の事項を確認してくる。

 青年は差し出された手を力強く握り返し、己の名前を語った。


「ジンだ。ジン・ソルレイド。大切な人が付けてくれた名前だ。間違えるなよ」


 この手を握るのが吉と出るのか凶と出るのか、今のジンには分かりようがない。


 ただ、賽は投げられた。止まっていた物語が再び動き始める。


 幕が、上がった。

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