壊れる時は簡単に壊れるものだ
両親の目の色が変わったことを百合は気付いた。
五千万。それは大金で直ぐには出せない金額だ。目の前にそれが置かれていれば誰だって目の色は変わるもので、その金額を出されて平常を貫けるのは彩斗と同じ様に大金を稼げる者だけ。
こんな状況でなければ百合とて喜んでいただろう。それだけの額が実家に収まれば、少なくとも一年二年は仕事が無くても何時も通りの日常を過ごすことが出来る。節制をすれば更に長く何もせずに生きれるだろう。
しかしだ。これは手切れ金で、一度受け取ってしまえば彩斗とこの家族との関係は完全に終わりとなる。
法律上は絶縁をしても戸籍が別けられることはないが、やろうと思えば現住所を隠すことは可能だ。――何より、もう何度連絡を送っても彩斗からは何も送られてこない。
昨今、世界事情は混乱している。
怪獣の出現に、謎の人物達、そして先日の大地震。日本が受けたダメージは多く、外国からも同情の声が寄せられている。
そのような情勢下で絶縁すれば、再度生きて出会えるかも解らない。それは断固として阻止せねばならない問題であり、百合自身は反対の意思であった。
両親はお互いの目だけで会話をしている。そこは熟年夫婦といったところか、以心伝心で伝わる様に仲の悪さはない。
父親はそっと通帳を手に取り、その中に五千万があることを確認した。キャッシュカードも見た目上は本物のようで、少なくとも材質に違和感を持つことはない。
これが偽物であったならば。そう二人が思うのも無理らしからぬことだ。
それを理由に自分達の欲を抑えることが出来るし、彩斗を糾弾することも出来る。本物があるからこそ、二人は見掛けは迷っている素振りを見せているのだ。
彩斗がこの家と関係を絶つことについて、二人は特に異論はなかった。堅実に大金を稼いでいる彩斗は金の卵ではあるが、既に彼等の家には百合という未来の金の卵が居る。
彼女が実家に落とす金の総量は莫大で、五千万であれば後二年もすれば稼げるようになるだろう。
迷っている素振りを見せているのは、傍に大事な百合が居るからだ。
彼女の前では甘い顔をする二人だからこそ、此処で欲望に任せた行動を取ってはならない。特に最近は百合も社会の闇を経験したことで強さも持ち始めている。
親の言葉に自分で判断し、諫めるべきを諫める様は大人の女性への階段を上っていた。
やがて高校を卒業した時、彼女はますますの力強さを獲得する。その前に百合の信頼をより深めなければ、彼女は両親達に孝行をしてくれないだろう。
「これで納得しないか? 一応、二人なら即座に飛びつくと思ったんだけどな」
「彩斗よ、まさか試しているのか? あの頃のことについて――」
「――試す? なんのことだ、俺は本気だけど」
苦し紛れの父親の言葉に、彩斗は見抜いた上で間違いはないと伝えた。
追い込み、追い込まれ、二人は悩む。このままこれを受け取り、後の栄光を無下にするか。受け取らず、絶縁そのものも認めないことにするか。
どうすべきかを考える二人は唸り、その様子を見ていた百合は小さく呟く。
「どうして、直ぐに拒絶しないの?」
幼い子供のような小さい声は、彼女の芯から出たものだ。
絶縁なんて普通の事ではない。よっぽどの事があるから起きて、その理由を百合は知っている。褒めそやされる過去の中で、兄は何時も後回しどころか目にも入れられていなかった。
放置され、放任され、何もかも百合だけを優先されれば子供は容易く歪む。
学生であれば歪まないとどうして言えるのか。まだまだ人格形成の途上である学生だからこそ、家族からの影響は非常に大きい。
通帳を否定してほしかった。彩斗の言葉に即座に首を横に振ってほしかった。
私の知る現実はもう少し優しくて、決して無情ではない。そんな夢見がちな彼女の思考は、呆気無い程簡単に破壊された。
「受け取らないのか? ならこのまま縁切りするつもりだが……」
「……解った」
縁を切られることは彩斗の中では決定だ。
力強い眼差しに両親は過去の彩斗と今の彩斗は違うと認識し、渋々その通帳を受け取った。これで尚迷うなら追加の五千万を払うと言うつもりだったが、受け取った以上は彩斗の勝ちである。
自然、頬が釣り上がる。重苦しい空間ではあるものの、今はその苦しさを彼は一切感じない。
この時点で両親と彩斗の話し合いは終幕を迎えた。両親は五千万を受け取り、彩斗は縁切りというどちらにとっても良い結果を招くことになったのだ。
百合は思わず横に座る彩斗を見る。――その笑みが悪意の無い純粋な笑顔だったことに、胸が爆発した。
机を全力で叩く。湯呑で優しく立てた音ではなく、その湯呑が倒れて中身を零してしまう衝撃が机どころか部屋全体にまで広がった。
誰もが彼女を見る。荒い息を吐きながら今にも泣きそうな顔をしている百合は、爆発する感情そのままに心から湧く言葉を全力で口に出す。
「皆なんでそんなに冷静なの! 縁を切るんだよ、二度と会えなくなるかもしれないんだよ、普通の事じゃないのになんで怒ったり泣いたりしないの!!」
「百合……」
「断ってよお母さん! 怒ってよお父さん! 兄さんは私達の家族でしょ!?」
悲しみと嚇怒が籠った言葉は感情的で、現実を見ていない。
彩斗は彼女の嘆きを聞いても微塵も心は揺るがなかった。まさか彼女が激怒するとはと考えはしても、怖ろしいまでに心は寒々としている。
家族、かぞく、カゾク。目の前の人間を見て、彩斗は彼等をそうとは認識出来ない。あるのは血の繋がった赤の他人といった程度のもの。彼女がそこまで叫ぶ価値がこの両親にあるのだろうか。
脳の中では澪が爆笑をあげていた。愚か者の嘆きが面白くて面白くて堪らないのだ。こうなったのはお前にも原因があるのに、何を被害者面しているのかと。
子供が故に甘やかされることを良しとされ、その過程で彩斗の幸せを吸い上げに吸い上げた。出涸らし状態になった兄を見ても助けようとせず、ただ学生として一般的な生活をしていたのである。
学校では美しき女として、世間では華のアイドルとして。紛れも無く百合の人生は暗闇よりも光の方が多かった。
ならばこの程度良いではないか。百合自身に明確に悪影響がある訳でもなく、ただ何時も通りに会えないだけなのだから。
澪の言葉に彩斗も全面的に同意だ。冷えた心では彼女の嘆きに揺れることもない。静まり返った空間で溜息を吐き、横に居る百合を見やる。
「百合、お前は幸せになれよ。 アイドルの傍に例え身内でも若い男が居るのはよろしくない。 こうするのがお互いにとって一番なんだ」
「納得出来る訳ないよ! ……謝るから、縁切りなんて止めてよ」
「謝るって何をだ? 俺はお前に謝ってもらうことはないよ」
優しい顔だった。百合がこれまで見たことがない程、彩斗は心から百合を慈しむような笑みを浮かべている。
それが最後の餞別であると解っていて、だから逃がさないと彼の袖を両手で必死に掴む。何時の間にか滂沱の涙が眦から零れていたが、そんなことは最早彼女の意識に無い。
なんでもいいから縁切りを回避させなくてはならない。言葉で駄目なら、感情で駄目なら――残るは墜落ただ一つ。
「――私、アイドル辞める」
「百合?」
「アイドル辞めて、お父さんとお母さんと絶縁して、普通に生活する」
「何を言ってるんだ、百合。 折角のアイドルだぞ、こんな理由で辞める必要は無いよ」
「私の夢は皆で仲良く過ごすこと。 それが出来ないなら、頑張る必要は無い。 必要だと思ったものだけ傍に置いて、不要だと思ったものは全部捨てる」
アイドルを辞める。その言葉は彩斗の心に驚愕を宿した。
確かに彼女の夢を彼は知らないが、家族と仲良しであることを望むのは実にらしい。その上で輝ける星を目指したのは、彼女なりに自分に出来ることをしようと考えたからか。
自分が頑張って家族が笑い合えるのなら。その意思の下でこれまでは活動を続けていたが、夢が叶わないのであれば墜落して只人になる。いいや、只人として必要な両親すらも捨てて更に墜落していくのだ。
心が求める最良だけを目指し、百合は両親を憎悪の籠った眼差しで睨んだ。
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