第11話 第三部 頼房 第十章 天下人降臨

          (一)


 球磨くま相良さがら氏は、薩摩さつま島津しまづ氏にとり目障りな存在であり続けてきた。

 島津が内訌ないこうで身動きのとれないのをいいことに、菱刈ひしかりを寝返らせ、大口おおぐちを奪った。その後も薩摩に対して領土拡張の機を窺い、島津がようやく派遣することを得た制圧軍にも、最後まで抵抗し続けた。家中には、「取り潰すべし」との声が多い。

 しかし、相良の形勢不利が定まったころ、名和なわ氏やじょう氏などが連署をもって同家の存続を嘆願してきた。

 名和は長年、相良と同盟を結んできた間柄であった。城は菊池きくち旧臣として、当主であった菊池義武よしたけをずっと大友から庇い立てしてきた相良に、恩義を感じていたようである。いずれも、義陽の前の代の領主義滋よししげいた種が実ったものといえた。

 そして、最初耳にしたときは「何たる物好きか」とあきれた関白近衛このえへの相良の臣従が、いざ潰せるぞという段になると、とたんに目に障りだした。島津は鎌倉以前からの家柄に誇りをもっており、京の公家、しかも関白などという高位者との摩擦は、やはり可能ならば避けたいのだ。

 仕方がないので、かつて薩摩にも下向した近衛前久さきひさに対し、機嫌伺きげんうかがいの手紙を出す格好で近況を述べ、相良に関する近衛の反応を測っているところであった。

 島津の当主、義久よしひさの存念としては、それでも結局、相良は潰すつもりだった。

 ――すぐに手をつけるのがまずければ、時間を掛ければよいだけのこと。

 その方策として、相良義陽よしひを島津軍の尖兵せんぺいとしてどこまでも酷使し、領主も家臣領民もともに疲弊するのを待つつもりであった。ほとぼりのさめたころを見計らい、ふらふらになったところを揉み潰すのであれば造作もない。

 都合のよいことに、相良義陽は「使いで」のある男だった。大口接収などで調略ちょうりゃくに才を見せたばかりでなく、朴河内城ほうごうちじょうの攻防では、島津の誇る猛将新納にいろ忠元ただもとの攻撃をいったんは頓挫とんざさせるほどの武勇も示した。

 好悪こうおの感情を別にすれば、義陽の将としての才能は、義久としても認めるところだったのだ。

 それが、緒戦ともいえぬ阿蘇あその一家臣との小競り合いで、あっけなく死んでしまった。義久にとっては大いなる計算違いである。更に、驚くべきしらせが前後して入ってきた。人質にとっていた相良義陽の長子が事故死し、次子は病篤やまいあつく生死の境をさまよっているという。

 義久は慌てた。

 ――相良の童子二人は勝手に死んだり、死にそうになったりしているのだが、外から見れば、まるで島津が謀殺したように見えるではないか。

 それでも義陽が元気なら何ということもなかろうが、島津の命で出陣した父が命を落とし、島津の手に庇護されている子供二人が時を同じくして急逝きゅうせいしたのでは、名和や城でなくとも島津家を信用しなくなる。「無用になれば始末されてしまう」ものと、思われてしまいかねないのだ。

 今は、島津家にとって大切な時期であった。伊東いとうを蹴散らして日向を取り戻し、大友おおともも破り、もう少しで九州全土をこの手にできそうなところまできているのだ。

 難敵といえるのは、もはや竜造寺りゅうぞうじぐらいしかいない。しかしそれは、これから向かう先の中小の国人こくじん衆が、島津のに伏し、島津に恭順することが大前提である。

「薩摩は信じられぬ」とて、ことごとく歯向かってこられたのでは、対竜造寺戦どころの話ではなくなってしまう。そうでなくとも、すでに手中に収めたはずの八代やつしろ隈本くまもとなどに不穏な動きがあって、目が離せずにいるのだ。

 もう、相良などという小族を潰すかどうかが問題ではなくなっていた。島津の声望を、いかにそこなわぬようにするかが何よりも大事である。

 そのためには、手を触れなくても勝手に落ちそうな球磨の領主一族に、何とかこたえてもらわねばならなくなった。

 ――相良義陽。なんというときに、なんという死に方をしてくれた。

 薩隅日三国の太守義久は、死んだ男の相貌を苦々しげに思い浮べた。


 肥後ひごに近い薩摩国境くにざかいの要衝、出水いずみに設けられた相良の子息のための客殿は、重苦しい喧騒に包まれていた。

 まず、国中から名だたる薬師くすしが呼ばれ、門前に馬や輿こしが列をなすほど詰め掛けた。別室には、これも国中から集められた高僧がきょうし、修験者が護摩ごまいて加持祈祷かじきとうを行っている。島津の依頼で、この場には来ずに己の寺や社で祈祷を行っている者も多数に登るという噂だった。

 さらに庭には、弓兵がずらりと並び破魔弓はまゆみを鳴らし続けた。表も裏も、門口かどぐちには猟に使う犬が並べられ、飼い主の命に応じて代わる代わるえて、魔除けを手伝った。

 その夜半、相良宗家の唯一残った血筋、頼房よりふさの高熱はようやく下がった。呼ばれた者全てが安堵したことに、どうやら生き永らえてくれるようであった。


 球磨の森の中の、もう堂宇とも呼べぬ崩れ落ちた板切れや草のかたまりの中から、女の悲鳴が上がった。

「おのれ島津、なんということを。これで一気に決着がつこうと思うたに、なぜおのれらが邪魔をする。島津といえど、我が大望に立ちはだかるなれば、容赦ようしゃはせぬぞっ。

 ……まあ、よい。島津とて、相良の家を無きものにしたい考えを、捨てたわけではなかろうて。なれば、ときを貸してやろうかい。相良はもう、血筋も絶えた。残っておるというても、別筋の小童こわっぱ一人。どうとでも、してやろうわい」

 突然湧き起こった哄笑は、途絶えるのもまた突然であった。

「じゃが島津、こたびの代償、いずれ必ず払わせてくれようぞ」

 突然の静寂が、辺りを打った。

 呪詛じゅその言葉が静けさの中にこだましているような、闇だけが残った。


 相良の遺児頼房の体力が回復するのを待ち、島津はれ物に触るような丁重な扱いで、相良の本拠地、人吉ひとよしへと送り届けた。

 島津の当主義久は、亡き相良義陽の忠義を激賞し、頼房の跡目相続を許した。敗戦のこととて加増の沙汰はなかったが、球磨一郡から一郷も欠けることなく、父の所領がそのまま頼房に安堵された。

 そうした中、球磨とその南西に位置する薩摩北域では、小さな騒乱が頻発ひんぱつした。島津への降伏、当主戦死、幼君擁立と異変の続いた相良を見離し、薩摩につこうとする国衆くにしゅうが、球磨の中にも現われたのである。

 薩摩側では、これと利害で結ぼうとする者、相良滅ぼすべしとの己の信念から策動する者が、陰日向かげひなたに球磨の逆徒を応援した。

 この領内の不穏な情勢に対し、新任の国老深水ふかみ宗方そうほうやその片腕となった荗季しげすえ休矣きゅういらは懸命に奔走し、領内の取りしずめを図ったが、葦北あしきたへの赴任が長かった宗方と新参者の休矣の組み合わせでは、球磨での無名と威信不足は致し方のないところがあった。

結局、これらの騒乱が完全に鎮まるには、島津義久による伊集院いじゅういん忠棟ただむね軍の派遣を待たねばならなかったのである。

 外部からは、領主としての統治能力を半ば喪失し、島津の助けがなければ長年の本拠地である球磨ですら満足に治められなくなったように見える、相良の衰勢すいせいであった。


          (二)


 先陣をゆだねた相良義陽が戦死したことぐらいで、島津の進撃は止まらない。

 阿蘇は、その後二、三度の小戦こいくさで簡単に降伏した。一番の大敵と目された竜造寺との決戦も、敵の総大将隆信たかのぶの首を挙げるという大戦果で勝利を収める。島原しまばらを戦場に、敵の本拠地に近い遠方まで長征軍を送るという、圧倒的に不利な条件を跳ねかえしての大勝利であった。

 残るは、すでに耳川みみかわの合戦で降し、衰勢はなはだしい大友の始末である。

 島津軍はいまだ大友の勢力圏であった豊後ぶんごに押し入り、筑前ちくぜんを攻めたてた。悲鳴を上げた大友宗麟は、海路大坂へ転がり込み、織田おだ信長のぶなが本能寺ほんのうじたおれた後に天下を引き継いだ豊臣とよとみ秀吉ひでよしに泣きついた。

 このころすでに中国の毛利もうり氏を屈服させ、四国平定も終えていた秀吉は、視線を九州へと向けたところであった。天皇の命の形で出した停戦の斡旋あっせんを事実上無視して拡張を続ける島津に対し、秀吉は麾下きか仙石せんごく久秀ひさひでを指揮官に土佐とさ(現在の高知県)の長宗我部ちょうそかべ信親のぶちかの軍を併せ、先遣部隊として九州へ送った。

 秀吉の先遣軍と島津の攻略軍は、大友の本城鶴ヶ城つるがじょうに近い戸次川へつぎがわで激突した。島津は、この戦いでもあっさりと勝利を挙げる。ついで鶴ヶ城も攻略、念願の九州統一をほぼ達成した。

 このときが、戦国島津氏の絶頂であった。


 領内に不安を抱えながらも、相良が内政に専念することは許されなかった。義陽死後も常に島津の尖兵となることを求められた相良は、阿蘇高森城たかもりじょう攻略、隈府城わいふじょうの防衛、山鹿やまが多久河内たくかわち合戦への参加、豊後や筑前侵攻への参陣など、島津の下で絶え間のない戦闘を繰り返させられた。

 こうした中、相良の軍中で一人の若者が次第に注目を集めるようになる。先君義陽の置き土産みやげとも言うべき、相良新介しんすけであった。

 義陽死後の相良軍は当初荗季しげすえ休矣きゅういによって指揮され、新介はそのうちの一手を任されるという形をとっていたが、島津による九州平定戦の後半は、新介が休矣に代わって相良の将を勤めることが多くなった。

 その戦い方も積極果敢であり、島津の将と先陣を争うような例も見られたが、この若い将を、島津はかなり好意的な目で見ていた。

 ――何より、懸命に戦う。島津への偏見がない。そして、かつて島津の諸将と直接刃を交えたというような経歴も持ってはいない。

 島津の重臣の中からは、「相良の現当主である幼い頼房を廃し、この新介に後を継がせてはどうか」という声が、秘かに出始めるほどであった。

 島津にすれば、「新介が相良宗家の血を受け継いでいるか」といった正統性に興味はない。

 ――一族の端に連なるとのことだが、わずかでも血がつながっていればおんの字というものだ。

 島津のために役立ってくれる者が、一番なだけであった。

 こうした島津の意図について、相良家中でも一部の者は気づき始めていた。

 だが、深水ふかみ宗方そうほうは何も言わない。新介が当主一族である上、先代領主義陽が己に委ねていった者であることに、気兼ねをしている気色けしきが見られた。一方、同じ師の下で学んだ荗季しげすえ休矣きゅういは遠慮がなかった。

「軍功を上げるはよし。しかし、いたずらに兵を損ずるなかれ」

 これが、休矣から新介に突きつけられた要求であった。

 新介は反論する。

「軍功を求めるは、相良が生き延びるため。なれば、ある程度兵を損ずるも、やむを得なきこと。兵を惜しんで勇を避ければ、相良は島津より見捨てられん」

 いずれも正論であり、どちらも己の主張を譲ることはなかった。

 島津の動静に何よりも気を配り、その結果新介の肩をもつ者らの中では、己を超える手柄を挙げ続ける若き将に、休矣きゅういが嫉妬しているのではないかとの陰口もささやかれた。

 相良の家中は、周囲の皆の眼が、激しい論争からいつ反目に移るかと、二人を不安の面持ちで見つめていた。


 先遣軍の敗報を聞いた豊臣秀吉は、指揮官の仙石久秀を召喚、職を罷免ひめんするだけに留まらず、改易かいえき処分を下した。仙石久秀は、日の本一の豊臣株式会社の事業本部長から、たった一度の失敗でただの失職者に成り下がってしまったのである。

 ついで、いよいよ秀吉自身が腰を上げる。毛利に露払いをさせた秀吉は、日向ひゅうが方面に弟の秀長ひでながを総大将とする十五万、自身が率いる肥後方面軍十万の、二軍で南下を開始した。

 この豊臣の大軍勢に対し、日向方面では島津家久いえひさらが緒戦で抵抗するも簡単に一蹴され、肥後方面では当主義久が抵抗を諦めて薩摩へと撤退した。

 それだけの圧倒的な兵力差であったといえるのだろうが、これまで何度も、相手より大きく劣る兵力で難敵を打倒し続けてきた島津が、このたびに限っては「善戦して惜しくも敗れる」形にすらもっていくことができなかった。

 その理由の一つは、戦さの規模の違いであろう。兵数が一桁上がった軍勢に力を発揮させるには、戦闘想定から兵站へいたんまで、もう一段上からの俯瞰ふかんが必要になる。戦場にある一人ひとりの将が、以前とは全く違う景色を見なければならないのだ。

 島津に限らず九州の将兵には、それが必要になる規模の戦闘経験がこれまでなかった。一方、秀吉麾下の将は、織田政権時代から、各方面軍指揮官やその配下として、万の兵を率いながら全体の一部として機能するという感覚を肌で知っている。

 島津にとり今までとは勝手が違う戦の最初の相手が、大戦おおいくさ慣れした豊臣の軍団であった点は、「相手が悪かった」というしかない。

 島津の九州制覇の夢は露と消えた。

 義久は剃髪ていはつし、法体ほったいで秀吉の本軍に出頭して、罪を赦される。豊臣秀吉の九州征伐完了の瞬間であった。

 なお、豊臣秀長の日向方面軍に降伏した義久の末弟家久が、秀長の道案内として南下する途中で急逝きゅうせいした。病死であろうが、お家随一の知恵袋の急死に島津の家中の一部では、「豊臣に暗殺されたのではないか」との不信感が根強く残ったという。


          (三)


 島津は、薩摩大隅二ヵ国の大名として残された。肥後には新たに佐々さっさ成政なりまさが入れられ、相良は球磨の領主のまま、成政の与力としてつけられた。相良氏は、島津義久の薩摩への撤退を相良新介らの殿しんがり働きで助勢する一方、深水ふかみ宗方そうほうが秀吉にいち早く接触、島津が降伏する前にすでに本領安堵の約束を得ていたのである。

 小国が生き延びるための、二枚舌外交であった。己の手を逃れ、佐々の下で延命を果たした相良を、九州全土を手に入れ損ねて元の二国に押し込められた島津は、どのような思いで見ていたであろうか。

 球磨の騒乱も、ようやく鎮まった。秀吉の九州制覇によって、相良の球磨統治が確立したからである。国衆にすれば、今さら背いたところで薩摩は助けてくれず、ただ見殺しにされるだけという形に、世の中の情勢が変わってしまったのだった。

 秀吉から直接の安堵を得たことは、相良頼房の領主の地位も確定させたことになった。

 島津より秘かな期待を寄せられていた相良新介は、その後も何事もないような顔で日々の勤めをこなしていった。


 秀吉はこのころ、後に太閤検地たいこうけんちと呼ばれる生産力再確認に手をつけ始めていた。しかし、肥後では政情が安定するまで手をつけるべからずと、佐々成政に厳命する。

 小領主の群立が長く続いた肥後は、それぞれの領主と土地の民との結束が強かった。つい最近までの征服者島津家は、軍政上の都合だけで領主を強制的に入れ替えるような統治法を肥後でも採用したが、その結果小さな反乱が頻発していたのである。

 島津義久が豊臣軍を相手に戦わずして撤退する際には、いまだ勢力圏に納めているはずの肥後で、まるで落ち武者狩りのような土民の蜂起ほうきが頻発したという。秀吉の命は、こうした肥後の国内情勢をかんがみた上でのものであった。

 一方、佐々成政は、先に秀吉が徳川とくがわ家康いえやすと戦った小牧長久手こまきながくての戦いで家康に加担、秀吉と家康の和睦わぼく後に赦され、このたび領国を越中えっちゅう(現在の富山県)から肥後に移されたとの経緯があった。

 功を焦る成政は命に逆らって検地を断行、秀吉が心配したとおり、肥後国内では一揆が続発し、成政単独では押さえきれぬ情勢となった。佐々成政は、本拠と定めた隈本城くまもとじょうを一揆勢に囲まれるほどの窮地に陥ったのである。


 薩肥国境の要衝水俣で街道に設けられた関所に、相良の老職、深水宗方が自ら出張っていた。宗方は関を背にして、道の真ん中に据えた床几しょうぎに一人座っている。

 従っているのは、日除けの唐傘を持たせた中間一人だけだ。守兵は全員、柵門を閉じた関の向こう側に潜んで配置を終えていた。

 戦を恐れて外出そとでを避けたか、ひと一人見当たらぬ道の彼方に、濛々もうもうとした土煙が巻き上がった。土ぼこりの塊はひらひらと布のようなものをたなびかせており、やがて人と馬の集団であることを明らかにし始めた。

 軍勢は、ことさら急ぐでもなく整然と道を進んでくる。進軍してくる兵どもの顔が見分けられるほど近付いてくると、傘の柄を持った中間が身じろぎした。

「もうよいぞ。畳んで、お前も関の中に入っておれ」

「しかし、殿様……」

「なに、斬りかかってこられたら、お主の一人や二人、いてもいなくても変わらぬよ。お前の主が言うておるのじゃ、行け」

 中間は逡巡しながらも、背に安堵を滲ませて関の中へと逃げ込んだ。

 やってくる軍勢も、関の前でよろいもつけぬ男が一人、ぽつねんと座っている様子に気づいたようだ。先頭から一人が中軍へ報告にいったかと思うと、数騎の騎馬武者が集団の前方へ出てきた。そのまま、兵を後ろに従えて馬を歩ませる。騎馬が十数間(約三十メートル)まで近付いたとき、ようやく宗方が立ち上がった。

「これは、島津の皆様方と存ずる。お出張りご苦労にござる。これなるは、相良の家臣深水宗方にござる」

 騎馬武者の一人から返答が返ってきた。

「深水宗方殿と申さば、相良家の老職。このようなところに関を設けて、何をなされておる。早く我らを通されよ」

「当方が名乗っておるのに名乗り返しもせぬ軍をどなたが指揮されておるかは存ぜぬが、ここより先は肥後にござる。薩摩の兵が断りもなく通ることはまかりならぬことゆえ、お帰りあれ」

「なにを――ええい、これなるは、島津家家臣、梅北うめきた国兼くにかねの軍勢。ご当主義久様の命により、佐々成政殿の隈本城を救援に参る、伊集院忠棟様の先手の部隊じゃ。すぐに道を開けられよ」

「そこもとが梅北殿か」

 宗方の問いに、やや後ろにいた騎馬の大兵が馬を出した。

わしが梅北国兼じゃ。肥後へ入るは、この者が言うたとおりの仕儀。相良家は佐々殿の与力なれば、そこもとも、このようなところに兵を蝟集いしゅうさせてなどおらずに、一揆討伐に向かうがよろしかろう」

 宗方は、のんびりと応じた。

「これは、そなたが梅北殿か。だが、なにか取り違えておられるようじゃ。肥後は、一揆はあったがもう取り鎮めも適おうというころ。島津様のお手をわずらわすほどではないゆえ、お帰りくだされとの佐々様よりのご伝言にござる――お手を煩わすほどではないと申すは、ほれ、手前がこうしてここにおるのが何よりの証左」

「馬鹿なことを。ええい、ときが惜しい。開けねば、蹴散らして通るぞ」

 脅しをかけてきた相手に、宗方はどっかりと床几に腰掛け直した。すると、それが合図だったのか、関の柵門から火縄銃の銃口がずらりと並んで突き出された。遮蔽物しゃへいぶつもなく晒されている島津の将兵に動揺が走る。

「面白い。無理矢理通ろうというなら、やってみられよ。それがしは斬られても、関の兵どもがせいぜいお相手つかまつろうぞ」

「深水、相良の老職がこのようなことをしてよいのか。義久公が我に伝えた命は、元をたどれば関白豊臣秀吉様より出されているものぞ。お主のその行い、相良をつぶすぞ」

 このころ、関白の地位には公家くげではなく、秀吉が就いている。出自のいやしさがあまりにも明らかなため、征夷大将軍になれない武家の棟梁とうりょうに対する彌縫策びほうさくであった。

「ほう、関白殿下のご命令とな。して梅北殿、その豊臣様よりのご命令を伝えた書状はそこもとがお持ちか。ああ、後続の伊集院様がお持ちというなら、お手数じゃがそれがしにご披見ひけんくださるよう、使いを走らせてはくれまいか」

 梅北は相手の言葉に含まれるいらえにまで気が回らず、すぐに返した。

「馬鹿な。書状は義久公がお持ちであらせられるわ」

「梅北殿。なれば聞くが、相手が関白殿下のご命令と申さば、そこもとは確認もせずにご主君義久公の直接の命に背くや」

「なにを――深水、よいのじゃな。このままだと、義久公より関白様に、相良が関白殿下のご下命の邪魔を致しましたと、報告をすることになるぞ」

「梅北殿。佐々様の命を受けてご帰還をお願いしておるのは、この深水宗方じゃ。関白殿下に申し上げるなれば、そのように申し上げられよ」

「そのような屁理屈、通ると思うてか」

「そこもとが我らを蹴散らしてここを押し通らんとせば、関白様には島津が肥後の動乱に乗じて領地をかすらんと蠢動しゅんどうしておるむね、申し上ぐることになる。そのつもりでかかってきなされ」

 馬上の男と床几に座る男が睨みあった。

 関で柵門の隙間から銃を突き出していた兵の一人が、思わず照星しょうせいから目を離した。響ヶ原の生き残りであったその兵の目には、床几に据わったまま背を伸ばす深水宗方の後姿が、一瞬、亡くなる直前の前領主義陽に重なって見えたのだ。兵は己の見たものに茫然としながらも、慌てて照準をつけ直した。


 薩摩の軍と相良の老職との睨み合いはなおしばらく続いた。先陣からの使い番の報せで状況を聞いた伊集院忠棟は、強行突破を断念し、兵を返すことにした。ここで騒ぎを起こしても、島津の得にはならないと自重したのである。

「やむを得なんだとはいえ、きわどいの……」

 憤然として馬を返していく梅北の背中を見送りつつ、相良の老職はぽつりと呟いた。


          (四)


 秀吉は、肥後の一揆鎮圧のために浅野あさの長政ながまさ加藤かとう清正きよまさらにも出動を命じていた。肥後を領する佐々成政は、島津には警戒心を露わにして相良に阻止を命じたものの、古くからの同僚の救援は素直に受け入れた。

 佐々に背き一揆を起こした肥後の国衆は、秀吉の討伐軍によって徹底的に粛清される。秀吉は、この機に乗じて国内の検地も断行させた。この間、肥後の中で静かなときを過ごしていたのは、相良の統治する球磨だけであったといえる。

 一揆全てが鎮圧され、結果的に検地も実施できたとはいえ、秀吉の命に背き一国中を揺るがすような騒乱を引き起こした佐々成政は責任を問われた。肥後を取り上げられ帰坂させられた後に、摂津せっつ(現在の大阪府西部と兵庫県東部)内の法国寺ほうこくじ蟄居ちっきょの身となった。

 成政は秀吉に弁明する機会を与えられることもなく、その寺で詰め腹を切らされ、生涯を終えた。

 肥後騒乱の責任の追及はなおも続いた。島津からは、秀吉の命で派遣した救援軍を、相良が阻止したとの訴えが上がった。「相良の行為は、関白殿下への反逆だ」という主張である。裁くのは、一連の始末のために大阪より奉行として派遣されてきた秀吉の懐刀ふところがたな石田いしだ三成みつなりらとなった。三成より島津、相良それぞれに、申し述べたきことあらば出頭するよう、日時の申し渡しがなされた。


 相良新介は、久しぶりにその家の門をくぐった。勝手知ったる場所である。

 気さくに声をかけると、案内もそうそうに中へ踏み込んだ。が、今日は様子が少し違っていた。

 慌てて顔を出した家宰かさいに控えの間に案内され、そこでしばらく待たされた。かつてない扱いではあった。

 呼ばれたのは荗季しげすえ休矣きゅういの屋敷である。ようやく案内に立った家宰の背に従いながら、新介は、「このところは大人しくしていたもの」を、と己の行いを振り返って考えていた。

 家宰が中に声を掛け、新介一人を入れて襖を閉じた。屋敷の主は、明り取りの障子窓のほうを向いて何か書きものをしていたようであった。

「お呼びだそうにござるな」

 掛けた声にようやく振り返った休矣は、これまで見たこともないほどに厳しい顔をしていた。

 ――これは、通り一遍のお叱りでは済まぬな。

 新介は内心溜息をつきながら、相良の重職の前に座った。

 その日、相良新介と荗季休矣の間でどのような激論が交わされたか、相良家中に知る者はいない。ただ人々は、その日を境に相良新介が球磨を出奔しゅっぽんした事実から、あったであろうことを憶測するのみであった。


 上井うわい覚兼かくけんは島津当主の名代として、肥後騒乱の処理が行われている隈本に滞在していた。そして今日は、隈本城内で処理を差配する石田三成を訪ねたところだ。

 島津が北へ侵攻していく途中、覚兼も何度か入ったことのある城だったが、当時とはどこか様子が違っているように感じられた。新たに手を入れられたところもあるかもしれないが、中で働く人々の動きの無駄のなさが、その印象の主な原因であろう。

 せわしなく動き回る人々の中を通り過ぎながら、これが大坂風かと覚兼は思った。

 三成が執務に使っている座敷は開け放たれ、部屋の外にも下僚らしき男が控えていた。覚兼が続きの間まで来ると、なにやら書き物がなされた紙の束をっていた三成がちらりと顔を上げた。

「おう、これは上井殿」

 己よりはるかに若い才槌頭さいづちあたまが、文机ふづくえの前にふんぞり返ったまま横柄おうへいに声を掛けてきた。覚兼はその場に膝をつき、丁寧に挨拶を返した。

「まあ、こちらへ」

 紙束を手に持ったまま、頷くようにしてあごで指図してくる。覚兼は、小腰をかがめて三成のいる座敷の中へ入ると、もう一度頭を下げた。

「して、上井殿。今日は何用かな」

 目は紙束に戻してしまい、口だけで聞いてきた。

「は、相良に関する訴えのことにござりまする」

 覚兼は、あくまでも丁寧に応える。ようやく、相手の目がこちらに向いた。

「島津の話は先日聞いたはずじゃな」

 無駄を嫌う、怜悧れいりな官僚の声であった。島津の名代は、ひたすら礼を失せぬように気を使った。

「は、実はその後、薩摩より追加であかしが送られて参りました。」

「何、追加の証とな。わざわざ報せにくるほどのものか」

 いつの間にか、形ばかりはつけていた丁寧語が抜けている。言っていることは、わざわざ覚兼が持参するほどのものかということではなく、わざわざ多忙な奉行に面謁を願い出るほどの内容かという意味であった。

「相良は、関白殿下の命に反する検地強行には難色を示しておったし、この島津の軍を通さなんだのも、佐々殿の命に従うただけだと、強弁致しておるそうにござりますな」

「詳しく釈明を聞くのは明日じゃが、事前に出してきた書面にはそう書いてきておる」

 苛立ちを抑えるようにして、そう教えてくれた。これ以上、先ほどの問いに対する答えが遅れれば、即座に癇癪かんしゃくを起こしそうだ。

「検地強行は、相良が佐々殿に吹き込んだこと。関白殿下も驚くほどきれいに仕上げてみせて、佐々殿の復権を助けんとするとともに、己はその老職格となって、肥後全体に号令をかける立場にならんとした。

 一揆の勢力が思っておったよりも強くてはかりごとは果たせなんだが、すぐに島津に肥後へ入られては、その辺りが全てあからさまになる。島津をさえぎったは、相良が陰で企んだことの痕跡を消し去るための時間稼ぎであった」

 天下人お気に入りの文官の眼が、きらりと光った。

「ほう、それは面白き話じゃが、その相良に遮られて、時間稼ぎを許してしまった島津が、み消された証を見つけ出したというか」

 覚兼は、相手の皮肉は無視して必要なことを口にした。

「生き証人を得てござりますれば」

「生き証人――小国とはいえ、大名格の家をひとつ潰すかどうかの話じゃ。なまなかな者では、証にはならぬぞ」

「相良の中のことをはっきり知る者にござりまする」

「誰じゃ、それは」

「相良新介と申し、相良一族の末流にあたるとか。今では、軍を率いるときに相良家中で真っ先に名が挙がるほどの将にござりますれば、こたびの件で申すことに間違いはござりませぬ――とりあえず、当人の証言を聞き取った口書くちがきをこれに」

 覚兼が、持ってきた書面を差し出した。控えていた下僚が受け取り、三成のもとへ届ける。

「その者、今は、島津が押さえておるということか」

「この隈本の島津屋敷に。薩摩より証が届いたとは、この者が着いたという意にござった」

 三成は、手にした口書をぱらぱらとめくりながら黙考した。ときをかけず、答えを出す。

「明日、その者をここへ伴え。相良の弁明に対決させる。それで、よいか」

「ははっ」

島津の名代である覚兼は平伏した。

――これで、相良も完全に終わりだ。

直った覚兼の顔は、満足のために緩んでいた。












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