肥後戦国偽史 相良怪猫伝
ばむら うや
第1話 序章
<一>
森の奥に
立ち枯れ、あるいは倒れて何十年も経った木々と変わらぬほどに朽ち果て、今にも倒壊しそうな古い
仮にその堂宇へ近づく者がいたとしても、鳥や
声は、ときに途切れ、ときに高まりながらも、絶えることなくずっと続いた。春とはいえ冷たい雨が降りそそぐ夜中も、息が凍るほど冷え切る朝方も、変わることはなかった。
訪ねる者とてない深い森の奥で、救済されることのない
閉ざされた薄暗い堂宇の中には、神か仏かも判然としないほど荒く削られただけの古い木像が安置されていた。その前に、
衣が乱れて広がった
堂宇の中に安置された木像に、足先をなすりつけている――いや、「爪先をなすりつけている」のではない。よくよく見れば、血まみれの足の先には、指は一本もなかった。
左足ばかりではない。身じろぎした老婆の右足にも、そして両の手にも、指らしきものは全く残っていなかった。
老婆の指は、持ち主から切り離されて堂宇のあちこちに転がっていた。すでに黒く変色し、
老婆の背後には、赤子ほどの大きさの生き物が一匹、置物でもあるかのように静かに
元は白地に茶のまだらぶち模様であったが、
かほどに貧相な
老猫の周りには、鼠や
しかし、老婆自身ももう半月以上、この堂宇から離れていない。老婆の尻の近くに残された、肉のおおよそが毟られた大兎の後ろ足についた歯形は、猫がつけたにしてはずいぶんと大きなものだった。
堂宇には、耐えがたいほどの悪臭が籠もっている。それは、老婆の汗や垢や膿んだ傷口の臭いであり、手入れをされぬ猫の獣臭、食い散らかされた小動物の腐敗臭、そして堂宇の中でいまだ息をしている一人と一匹が排泄した汚物の臭気であった。
老婆は、この堂宇に籠もった最初の日に、己で自身の右の手の親指を噛み千切った。家からついてきた猫の首根っこを押さえて、無理矢理その口に己の手の傷口をなすりつける。
嫌がる猫を放り出すと、木像に近づき、呪詛の言葉を吐き散らしながら溢れる血を塗り込めた。一晩中木像へ怨念をぶつけ続けていると、逃げ出した猫はいつの間にか堂宇の中に戻っていた。
老婆は、毎日一本ずつ己の手指を食い千切った。三日目からは、猫は進んで老婆の新しい傷口から血を舐めるようになった。十一日目、老婆の両手の十指が失われた次の日、猫は差し出された右足から小指を咬み取った。
堂宇の木像は、全身余すところなく老婆の黒い血で塗り込められ、その姿が何をを
それは、外見ばかりでなく内面も同様だった。木像の周囲には、何か黒い
もともと内在したはずの神聖性が、老婆の強い怨念で塗り固められたことによって完全に内側に封じ込められてしまい、さらに黒い血が
老婆の口から出る声は、もはや獣の唸り声のようにしか聞こえなかった。それでも抑揚があるため、何らかの意思を表現していることは判る。
中身が聞き取れなくとも、あるいは堂宇の中の有り様を
それほどに、忌まわしい声だった。
そして二十一日目の夕刻。老婆は突如立ち上がると、目の前の木像を睨みつけた。その口から発せられた声は、最期のこのときに限り、明瞭にその遺志を伝えた。
「この身を
言い切って木像に最後の
「カッ」
木像は、老婆の口から吐き出された漆黒の鮮血に染め直された。
もはや木像への関心は失せたのか、決然と振り返った老婆は、ようやく戸口に張り付いていただけの扉を蹴破る勢いで開け放ち、
それは骨と皮ばかりで全ての足指を失った老人の動きでもなければ、半月以上も堂宇に籠もりきりだった者の動きでもなかった。人と呼べる生き物の動きですらなかったかもしれない。
堂宇を飛び出した老婆は、定めし
ようやく木々の立ち並ぶ間を抜けた先は、大地が引き裂かれたように切り立ち急流逆巻く
老婆は立ち止まろうとする素振りを全く見せぬまま、まだ下に地面があるかのように大地を蹴った。しかし
浮き沈みしつつ下流へと流される老婆は、そのまま垂直に落下する水とともに滝を滑り落ち、滝壺の中に呑み込まれると、二度と浮かび上がってくることはなかった。
夕暮れの赤々とした陽の光が、開け放たれた堂宇の中に射し込んでいた。
老婆が去った後ただ一匹残された獣が、ずいぶんとときを掛けてからようやく身を持ち上げる。静かに木像へ近づいていくと、像の足下に落ちている肉片のような物を
それは、老婆が最期に己の身から噛み千切った、
老いた猫は、それをゆっくりと
まだたっぷりと陽が残っているのに、
<二>
その相良家にあって
「本来、相良の家は俺が継ぐはずだった。それを、奪われた」
己の境遇に不満を抱く長定は、本来の相良家当主は自分であったはずとの
長定の祖父は当主の長子でありながら、病弱だったために弟に家督を譲っていた。以後相良家当主の座は、この弟の系譜が継いでいるのだ。
こうした長定の言動は、相良の主城である人吉城にまで達していた。このとき相良宗家は、西に大きく
「
お家の混乱を危ぶむ近臣たちは、
決断を求められた長祇は、ここで大いに
「湯前の
訴人が行われたちょうどそのとき、当主の
「湯前宗昌と盛譽の両名を、ただちに成敗せよ」
――長祇様の命により、自分たちは長定へ直接手を出すことはできない。なれば、
それが、近臣らの考えだった。
「両人の
率直で気さく、人の
その九介は、大事な使いの途中で祭りを楽しむ知人と出会ってしまう。
「なに、急ぎとて酒の一杯も口にできぬほど尻に火が
――一杯だけなら何ごともあるまい。
そう思って口にした酒は、酒精(アルコール度数)の低い濁り酒ではなく、このころまだ珍しかった焼酎だった。口に入れたとたん喉を
ひと息に飲み乾した九介は、これまで覚えたことのない急激な酔いに、生来の陽気さを弾けさせた。そうして、結局飲み潰れるまで酒を喰らい、気づいたときには翌朝を迎えていたのだった。
――
慌てて先を急いだ九介は、ようやく普門院に達すると案内も請わずに本堂へ飛び込んだ。
足音も高く本堂へ踏み込んだ九介の動きがハタと止まる。その目に映ったのは、本尊に向かい読経する盛譽の首が、須木の地侍
なお、謀叛のもう一人の首謀者とされた湯前宗昌は、すでに
宗昌と盛譽兄弟の造反が事実であったか
「宗昌らの母親を、いたわってやれ」
突然二人の息子を失った老母を
長祇自身も、隣国との折衝や領内統治といった諸事に追われ、それ以降は特に気に掛ける余裕もなく日々を送った。
ある朝、人吉城の囲いの中で騒ぎが起こった。
「あるいは、自死であろうかの。湯前の使者の一件で
朋輩の一人が、九介の死について仲間に話し掛けた。
「まさかに。
仲間の断言に、最初の男も「なるほどそうか」と思う。しかし、今度はその仲間のほうが自信なさげに
「しかしの、的の大群に単身で飛び込んでいくほど肝の太いあの男が、ひとたび戦場を離れると、もう高いところはからきし駄目になったのを憶えておるか。吊り橋や崖はおろか、屋根の上に登るのも尻込みして人任せにしておったほどであったろう。
そんな男が、いったい何の用あって、夜中に一人で物見櫓なんぞに登ったものか……。かと言うて、あの屈強な九介を、誰かが脅したり気を失わせたりして上にあげたとも考えられんしの」
疑問に思うのは当然だが、自分に答えられる問いではないと、もう一人は口を
同じころ、須木では、地侍の黒木千右衛門が、突如錯乱して同朋に斬られるという騒動が起こった。
この日千右衛門は高熱を発し寝込んでいたはずが、家人も気づかぬうちに起きだし、ものも言わぬまま妻子を刺し殺した上で、血まみれの抜き身を手に表へ飛び出してきたのだ。
人々の呼び掛けにも応えず無茶苦茶に刀を振り回す千右衛門を、近隣に住まう同朋はやむを得ず斬り捨てた。
係累もおらず継嗣も自ら絶った地侍の狂死は、九介の墜死とは違って当主
刀を振り回す千右衛門がうわ言のように「猫が、猫が」と呟いていたことと、九介が
以後、数十年の長きに
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