肥後戦国偽史 相良怪猫伝

ばむら うや

第1話 序章

          <一>


 森の奥にやしろがあることは、土地の古老なら誰でも知っていた。ただそれは、どの辺りにあるはずかを繰り返し説明した上で、何度も問い返さねば容易に思い出してはもらえぬほど、皆から忘れ去られた場所でもあった。

 立ち枯れ、あるいは倒れて何十年も経った木々と変わらぬほどに朽ち果て、今にも倒壊しそうな古い堂宇どううの中から、昼夜を問わず低い呻き声が漏れ出してくるようになってから、もはや二十日が経とうとしていた。

 仮にその堂宇へ近づく者がいたとしても、鳥やけものたちだけが耳にしていた呻きの意味するところを、はっきりと汲み取ることはできなかったであろう。風のうなりにも似たその音は、しかしながら明らかに人の発する声であった。何を言っているかは判然としなくとも、人以外で、声にここまでの呪詛じゅそを籠めうる存在はこの世に在りはしない。

 声は、ときに途切れ、ときに高まりながらも、絶えることなくずっと続いた。春とはいえ冷たい雨が降りそそぐ夜中も、息が凍るほど冷え切る朝方も、変わることはなかった。

 訪ねる者とてない深い森の奥で、救済されることのないくらい情念が、そうやって静かに積み重ねられていった。


 閉ざされた薄暗い堂宇の中には、神か仏かも判然としないほど荒く削られただけの古い木像が安置されていた。その前に、あかじみ、擦り切れた衣をまとう白髪の老人がうずくまっている。

 衣が乱れて広がった襟首えりくびから覗く裸の胸元に、萎びた乳房が垂れ下がっているところからすると、老人はおうなのようだった。両足を投げ出して前屈みになった老婆は、わずかに左の爪先を動かしていた。

 堂宇の中に安置された木像に、足先をなすりつけている――いや、「爪先をなすりつけている」のではない。よくよく見れば、血まみれの足の先には、指は一本もなかった。

 左足ばかりではない。身じろぎした老婆の右足にも、そして両の手にも、指らしきものは全く残っていなかった。

 老婆の指は、持ち主から切り離されて堂宇のあちこちに転がっていた。すでに黒く変色し、干涸ひからびた子鼠こねずみの死骸のように見えるのは、左右いずれかの手の親指か。すぐそばには、血の気を失い白くなってはいるものの、姿かたちをそのままに残した短い足の指もある。

 老婆の背後には、赤子ほどの大きさの生き物が一匹、置物でもあるかのように静かにわだかまっていた。老婆の飼う、やはり年老いた猫だった。

 元は白地に茶のまだらぶち模様であったが、よわいを経て白毛は黄ばみ、茶色の毛は色がせている上にところどころ脱毛して地肌が露出しており、もはやどのような模様であったのか全く判らぬ有り様になっていた。

 かほどに貧相な老猫ろうびょうは、しかしながら眠そうに閉じた目を開けば印象が一変する。炯々けいけいと輝く瞳は、いまだ旺盛な生命力をあふれさせていた。

 老猫の周りには、鼠やうさぎかと思われる小動物の残骸が、いくつも散らばっている。飼い主が構ってくれなくなったため、猫が自ら餌を獲った結果であろうかと思われた。

 しかし、老婆自身ももう半月以上、この堂宇から離れていない。老婆の尻の近くに残された、肉のおおよそが毟られた大兎の後ろ足についた歯形は、猫がつけたにしてはずいぶんと大きなものだった。

 堂宇には、耐えがたいほどの悪臭が籠もっている。それは、老婆の汗や垢や膿んだ傷口の臭いであり、手入れをされぬ猫の獣臭、食い散らかされた小動物の腐敗臭、そして堂宇の中でいまだ息をしている一人と一匹が排泄した汚物の臭気であった。


 老婆は、この堂宇に籠もった最初の日に、己で自身の右の手の親指を噛み千切った。家からついてきた猫の首根っこを押さえて、無理矢理その口に己の手の傷口をなすりつける。

 嫌がる猫を放り出すと、木像に近づき、呪詛の言葉を吐き散らしながら溢れる血を塗り込めた。一晩中木像へ怨念をぶつけ続けていると、逃げ出した猫はいつの間にか堂宇の中に戻っていた。

 老婆は、毎日一本ずつ己の手指を食い千切った。三日目からは、猫は進んで老婆の新しい傷口から血を舐めるようになった。十一日目、老婆の両手の十指が失われた次の日、猫は差し出された右足から小指を咬み取った。

 堂宇の木像は、全身余すところなく老婆の黒い血で塗り込められ、その姿が何ををかたどったものなのか、ますます正体が判らなくなっていた。

 それは、外見ばかりでなく内面も同様だった。木像の周囲には、何か黒いもやのようなものが漂いだしているように見えた。

 もともと内在したはずの神聖性が、老婆の強い怨念で塗り固められたことによって完全に内側に封じ込められてしまい、さらに黒い血が浸潤しんじゅんしていくことで徐々に内部から腐敗していくような変化を生じているようだった。

 老婆の口から出る声は、もはや獣の唸り声のようにしか聞こえなかった。それでも抑揚があるため、何らかの意思を表現していることは判る。

 中身が聞き取れなくとも、あるいは堂宇の中の有り様をの当たりにしなくとも、その音調だけで老婆がどのような妄執もうしゅうに取り憑かれているかは容易に想像がついた。

 それほどに、忌まわしい声だった。


 そして二十一日目の夕刻。老婆は突如立ち上がると、目の前の木像を睨みつけた。その口から発せられた声は、最期のこのときに限り、明瞭にその遺志を伝えた。

「この身を無間地獄むげんじごくに沈め、我が恨み、必ずや果たさん……」

 言い切って木像に最後の一瞥いちべつをくれると、首を振るようにして何かを噛み締める。次の瞬間、目の前の木像へ向け大きく口を開いた。

「カッ」

 木像は、老婆の口から吐き出された漆黒の鮮血に染め直された。

 もはや木像への関心は失せたのか、決然と振り返った老婆は、ようやく戸口に張り付いていただけの扉を蹴破る勢いで開け放ち、脱兎だっとのごとく外へと駆け出した。

 それは骨と皮ばかりで全ての足指を失った老人の動きでもなければ、半月以上も堂宇に籠もりきりだった者の動きでもなかった。人と呼べる生き物の動きですらなかったかもしれない。

 堂宇を飛び出した老婆は、定めし鬼女きじょのようであった。木が何本も倒れ込み、四方から低木の枝が伸びる獣道けものみちを、まるで平地を疾駆する奔馬ほんばのごとく駆け抜ける。

 ようやく木々の立ち並ぶ間を抜けた先は、大地が引き裂かれたように切り立ち急流逆巻く渓谷けいこくとなっていた。そして、轟々ごうごうと地を圧する音が響いてくる。流れのすぐ先に、百尺(約三十メートル)を超える断崖と滝があるのだ。

 老婆は立ち止まろうとする素振りを全く見せぬまま、まだ下に地面があるかのように大地を蹴った。しかしちゅうを飛ぶことあたわず、一瞬の後には奔流の中に身を躍らせる。

 浮き沈みしつつ下流へと流される老婆は、そのまま垂直に落下する水とともに滝を滑り落ち、滝壺の中に呑み込まれると、二度と浮かび上がってくることはなかった。


 夕暮れの赤々とした陽の光が、開け放たれた堂宇の中に射し込んでいた。

 老婆が去った後ただ一匹残された獣が、ずいぶんとときを掛けてからようやく身を持ち上げる。静かに木像へ近づいていくと、像の足下に落ちている肉片のような物をくわえ上げた。

 それは、老婆が最期に己の身から噛み千切った、舌根ぜっこんであった。

 老いた猫は、それをゆっくりと咀嚼そしゃくした。ようやく呑み込み終えた後、入り口へ向けて「ギャア」とひと声だけく。どこか、老婆の呪詛の唸り声を思わせる余韻が残った。

 まだたっぷりと陽が残っているのに、爛々らんらんと輝く老猫の目は、まるで自ら光を発しているかのように周囲を圧していた。


          <二>


 相良さがら家は、九州は肥後国ひごのくに(現在の熊本県)の南部、球磨くま地方を領する戦国の小大名だ。

 その相良家にあって長定ながさだは、出城でじろ一つを任される領主の親族だった。

「本来、相良の家は俺が継ぐはずだった。それを、奪われた」

 己の境遇に不満を抱く長定は、本来の相良家当主は自分であったはずとの驕慢きょうまんを口にし、不遜ふそんな態度を隠そうともしなかった。

 長定の祖父は当主の長子でありながら、病弱だったために弟に家督を譲っていた。以後相良家当主の座は、この弟の系譜が継いでいるのだ。

 こうした長定の言動は、相良の主城である人吉城にまで達していた。このとき相良宗家は、西に大きく版図はんとを拡大した英主長毎ながつねが病没し、弱冠十八才の長祇ながまさが跡を継いだばかりであった。

禍根かこんは早々に断つべきでござる」

 お家の混乱を危ぶむ近臣たちは、長祇ながまさに長定を除くよう強く諌言かんげんした。

 決断を求められた長祇は、ここで大いに躊躇ちゅうちょする。父より継いだばかりの家督を、血腥ちなまぐさい蛮行でけがしたくなかったのだ。結局長祇は、長定を芦北あしきた二見ふたみ八代海やつしろかい沿岸の中央部)へ移して蟄居ちっきょさせ、反省を促すという穏便おんびん策を取るに留めた。

 湯前ゆのまえ須木すき米良めら(いずれも人吉東方の山間部)の地侍じざむらいどもより訴人そにんが行われたのは、このように世情が緊迫している最中さなかのことだった。

「湯前の地頭じとう(国主より土地と領民を託された小領主)湯前宗昌むねまさとその弟、普門院ふもんいん住持(住職)盛譽せいよの兄弟が、長定を奉じて謀叛を起こさんとしております」

 訴人が行われたちょうどそのとき、当主の長祇ながまさは父の位牌を前に一昼夜の供養のため菩提寺に籠もっていた。ために決断は、危急の事態とて主の戻りを待たずに近親らによって行われる。

「湯前宗昌と盛譽の両名を、ただちに成敗せよ」

 ――長祇様の命により、自分たちは長定へ直接手を出すことはできない。なれば、神輿みこしを担ごうとする者を見せしめにすることで、騒動をしずめる。

 それが、近臣らの考えだった。

 長祇ながまさは翌日、城へ戻って初めて謀叛人討伐の騒ぎを知る。長祇が改めて近臣らに問うと、訴人こそ行われたものの、謀叛の企てが間違いなく進められているという確証は、何一つ提示されていないことが明らかになった。

「両人の追討ついとうを中止せよ」

 長祇ながまさは近親らの判断をくつがえすや、それを伝える使者として犬童いぬどう九介きゅうすけを派遣した。九介はご学友を兼ねた小姓として幼少時より当主長祇とともに過ごしてきた親しき者であり、長祇にすれば気心の知れた存在だった。

 率直で気さく、人の内懐うちぶところに入り込むのが上手うまいという九介の人柄を見込んで、修羅場も予想される場所へ送り出した使者であったが、この男には当主も認める図抜けた陽性がある反面、軽率で粗忽そこつという欠点もあった。

 その九介は、大事な使いの途中で祭りを楽しむ知人と出会ってしまう。

「なに、急ぎとて酒の一杯も口にできぬほど尻に火がいておるわけではあるまい。さあ、飲め飲め。飲まぬとここを通さぬぞ」

 ――一杯だけなら何ごともあるまい。

 そう思って口にした酒は、酒精(アルコール度数)の低い濁り酒ではなく、このころまだ珍しかった焼酎だった。口に入れたとたん喉をく強烈な刺激に大きく目を見開くが、途中で吐き出すことはもとより、一気にけぬでは男がすたる。

 ひと息に飲み乾した九介は、これまで覚えたことのない急激な酔いに、生来の陽気さを弾けさせた。そうして、結局飲み潰れるまで酒を喰らい、気づいたときには翌朝を迎えていたのだった。

 ――南無三なむさん! どうにか間に合ってくれ。

 慌てて先を急いだ九介は、ようやく普門院に達すると案内も請わずに本堂へ飛び込んだ。

 足音も高く本堂へ踏み込んだ九介の動きがハタと止まる。その目に映ったのは、本尊に向かい読経する盛譽の首が、須木の地侍黒木くろき千右衛門せんえもんの手によって宙に飛ばされるところだった。

 茫然ぼうぜんたたずむ九介の目には、老母が首を失った我が子盛譽に取りすがって泣き崩れる光景が映された。

 なお、謀叛のもう一人の首謀者とされた湯前宗昌は、すでに逐電ちくでんし行方をくらませた後だった。

 宗昌と盛譽兄弟の造反が事実であったか冤罪えんざいだったのかは、うやむやのままに事態は収束した。人吉城に訴人した地侍たちに対しても、褒美がなかった代わりに罰を与えられることもなかった。

「宗昌らの母親を、いたわってやれ」

 突然二人の息子を失った老母を不憫ふびんに思った長祇ながまさは、陰から扶助させよとの意向を周囲に示した。しかし、自分らの失政をあからさまにしたくない近臣らは、承服したような態度を取りながら、実際には何も手を打たなかった。

 長祇自身も、隣国との折衝や領内統治といった諸事に追われ、それ以降は特に気に掛ける余裕もなく日々を送った。


 ある朝、人吉城の囲いの中で騒ぎが起こった。物見櫓ものみやぐらの下で、犬童九介が死んでいるのが見つかったのだ。むくろを検分した目付は、櫓より墜落死したものと判断した。

「あるいは、自死であろうかの。湯前の使者の一件で失敗しくじってより、ずっと鬱々うつうつとして楽しまぬ様子であったからの」

 朋輩の一人が、九介の死について仲間に話し掛けた。

「まさかに。戦場いくさばにあってあれほど剽悍ひょうかんな男が、もし自ら死を選ぼうとしたとすれば、やいばを用いぬはずがないわ」

 仲間の断言に、最初の男も「なるほどそうか」と思う。しかし、今度はその仲間のほうが自信なさげにつぶやいた。

「しかしの、的の大群に単身で飛び込んでいくほど肝の太いあの男が、ひとたび戦場を離れると、もう高いところはからきし駄目になったのを憶えておるか。吊り橋や崖はおろか、屋根の上に登るのも尻込みして人任せにしておったほどであったろう。

 そんな男が、いったい何の用あって、夜中に一人で物見櫓なんぞに登ったものか……。かと言うて、あの屈強な九介を、誰かが脅したり気を失わせたりして上にあげたとも考えられんしの」

 疑問に思うのは当然だが、自分に答えられる問いではないと、もう一人は口をつぐんだままだった。

 同じころ、須木では、地侍の黒木千右衛門が、突如錯乱して同朋に斬られるという騒動が起こった。

 この日千右衛門は高熱を発し寝込んでいたはずが、家人も気づかぬうちに起きだし、ものも言わぬまま妻子を刺し殺した上で、血まみれの抜き身を手に表へ飛び出してきたのだ。

 人々の呼び掛けにも応えず無茶苦茶に刀を振り回す千右衛門を、近隣に住まう同朋はやむを得ず斬り捨てた。

 係累もおらず継嗣も自ら絶った地侍の狂死は、九介の墜死とは違って当主長祇ながまさの耳に届くことはなかった。

 刀を振り回す千右衛門がうわ言のように「猫が、猫が」と呟いていたことと、九介がひたいを割って横たわる地面に獣の小さな足跡がいくつも残っていたことを、結びつけて考える者もいなければ、そのいずれかを重要視する者もいなかった。


 以後、数十年の長きにわたって相良家を悩ませることになる動乱と怪事は、このようにして始まった。



 

 

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