お狐様に首ったけ。
筆々
役所辞めました。
無難な人生よららばいららばい。
私はレールの上を上手く渡ってきたと自覚している。もちろん、人生の話だ。
何事もなく中学を卒業し、何事もなく高校を卒業し、何事もなく大学を通過し、今は役所勤めの公務員。10年近くここ、静岡県の清水区役所でデスクに向かっているが、これまた何事もなく、世でクレームが酷いと騒がれている中、お茶を飲み一服。
自分で言うのも変だが、そこそこに親しまれていると思う。その理由としてここに10年いるというのもあると思うが、それ以外に私の名前が特徴的で、誰からにでも覚えていてもらえるというのも理由の一つだろう。
「あ、
私よりも10近くも若い、
そんな彼が今呼んだ村長とはまさに私の名前で、
そんな風に呼ばれているが、ここは区役所で村ではないし、そもそもそんな大役を担えるほどの威厳があるわけでもない。
名前負けしていることは周知の事実であり明白だが、ここに訪れた方が笑顔で私の名前を呼んでくれるのなら悪くないと思っている。
と、感慨に耽っている場合ではなかった。若井くんがいつまでも反応しない私に痺れを切らしたのか、ここまでやってきて顔を覗き込んできた。
「失礼、少し考え事をしていたよ」
「いえいえ、突然呼んじゃってすみません」
自分で優秀だとは思っていないが、それでもそこそこ頼りにされているとは思う。その根拠として1日にたくさんの方に声をかけてもらえる。
まあ、使い勝手がいいと言ってしまえばそれまでだが、私自身こうやって頼られて悪い気はしない。例えそれが悪意から来てしまうものだとしても、それで誰かがいい気分になれるのなら別に構わない。
「それで用事は何かな?」
「そうでしたそうでした、これなんですけれど」
どこかバツの悪そうな若井くんから手渡された書類に、私は苦笑いを浮かべる。ああ、これか。と、声に出してしまう。
つい最近、突如現れたそれは区だけでなく、それどころか国規模での悩みの種。この役所に勤めているみんなは、地方公務員の我々にどうしろと言うんだ。と、頭を悩ませるほどの問題を今私たちは抱えている。
ついに若井くんにまでボウリング玉をトラップしろとでも言うような無茶振りが来てしまったか。
どの職員に渡っても結果は変わらず、自分には荷が重すぎると役所内でたらい回されている案件。
「これか、ぶっちゃけるとどうにも出来ない問題だよね」
「村長でも難しいですか?」
「う〜ん…」
彼が若さ特有の縋るような、それでいて羨望と期待の眼差しを浮かべている。
しかしそんな目を向けられてもこればかりは――いや、だがここで後輩、果ては若い職員に応えられないようです何が年上か
私は息を吐き、佇まいを正す。
「うん、そうだね。ちょっと頑張ってみようか」
「わ、さすが村長」
すると周りで聞いていた職員たちから拍手が沸き上がった。まだ勤務中であるはずだが、来てくれた方への対応はどうしたの――彼らもまた職員と一緒に拍手をしている。
ああそうか、彼らも不安だったのだろう。これは責任重大だ。
「それで村長、まずはどうするんですか?」
「当然、問題の方々を知ることかな」
「それって」
若井くんが驚くのも無理はない。その人たちの出現に、一度国の様々な有識者や自衛隊、警察や科学者、メディア関係者、さらにはお偉方がそこに赴いた。
だが結果は散々で、あちら様を怒らせてしまったという結末だった。しかもその方々はその場にいた人々を絵空事でしか見たことがないような術を使い火だるまにしたり、石に変えられたりと相当嫌われたのだと人伝に聞いた。
私の予想では、警察の誰かが尻尾を踏んづけたのだと睨んでいる。
いや、彼女たちについては話に聞いただけで、まだ半信半疑であるのは否めないが、そこに赴いた人がそう話していたんだ、きっと事実なのだろう。
「大勢でいきなり行ったから驚かせてしまったんだよ。だからちゃんと誠心誠意、会話をすればどうにかなるかもしれないだろう?」
何より彼女たちと言葉を交わした。そういう事実があることが重要になってくるのだと思う。
「でも、危なくないですか?」
「そうかもしれない。けれど彼女たちにとって私たちが危なくないとどうして言い切れる?」
「それは――」
突然の出来事だ、戸惑っているのは私たちだけではないのかもしれない。そこを理解しようとせずに、どうして我々が彼女たちをどうにか出来ると思えるのか。
今の世の中、争いを選択しないで済む術は誰にでも備わっているはずだ。出来ることなら、私は彼女たちと会話がしたい。
「…
「いやいや、ただ何事もない人生が私には幸せなだけだよ。しかしそうやって若井くんにむらながと呼ばれるとくすぐったいね」
「そうですか? それじゃあいつも通り村長で」
周囲を見渡してみると年上の各々が涙を浮かべており、よく言った、よく言った。と、強く頷いているのが見えた。
ああ、期待されている。こういうことの積み重ねが、私の願う何事もない人生に繋がる。
私は外に出る準備をし、いってきます。とだけみんなに声をかけた。
そうして車に乗り込むと助手席に誰かが乗り込んだ。
「自分も行きます。というかこれ俺が頼まれた仕事なのに、村長にばっかり任せていたら社会人として駄目な気がして」
「そんなことはないと思うけれど。うん、でもありがとう。それじゃあ若井くん、一緒に行こうか」
彼の元気な返事を聞き、私の頬が自然と緩んだ。彼もこうやって成長していくんだ、その成長の一端に少しでも関わることができたのなら、これほど喜ばしいことはない。
車を走らせ、いざ件の村へ。
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