変態 oder letzte DIE VERWANDLUNG der Heisei
木村直輝
1
Ich danke dem großartigen Kafka.
Kimura Naoki
ある朝のこと毎日の生活に負けずと劣らないうんざりするような夢から目覚めたタユタは、彼を毎朝こいしくてたまらなくさせる布団の中で自分自身が巨大なムシケラに変態していることに気がついた。
…
メグの胸は彼の部屋の前で高鳴っていた。
そこは都心からほど近い郊外にある、いまだにオートロックもエレベーターもない古びたマンションであった。都内にしては家賃が安く若者の一人暮らしには向いている。
その一室を前にして、メグは先ほどから部屋の鍵を握りしめ、バクバクと激しく音を立てる自分の心臓音をもう何度も聞いているのであった。というのも彼女は、彼の部屋にこうして入るのが初めてなのである。この鍵を手にした時からその気にさえなればいつでも入ることができたものの、それをしないで今日まできてしまった彼女にとって、この入室は非常に緊張する一大イベントであった。
「ふー……」
メグは一つ息を吐いてから、ゆっくりと右に左に首を動かし視線を巡らせた。まだここへ来てから住人の誰ともすれ違ってはいなかったが、いつまでも部屋の前にこうしてただ立っていたのでは怪しいことこの上ない。社会一般の通勤通学時間はすでに回っていたが、いつこのマンションの住人がここを通ってもなんらおかしくない時間である。メグは心を決めて鍵を鍵穴に刺して回した。
ガチャンと音を立てすんなり鍵が開くと、メグの頭の中は一瞬静まり返った。メグは、
「……おじゃましまーす……」
メグは部屋の鍵をほとんど音も立てずにゆっくりと施錠してから、まるで眠っている誰かを起こさないよう気遣っているかのような声でそう言って靴を脱いだ。部屋の中を探るように見回しながら、メグは目の前の扉に向かって抜き足差し足で歩いてゆく。まだ心臓は
「きゃっ!」
――白昼だというのにメグは悪夢そのものを部屋の中に見た。部屋の中に巨大なムシケラがあるのを見つけたのである。
ムシケラはムシケラだというのにその体長は人間ほどもあり、何本もの身の毛もよだつ細い脚を胴体の下からぶちまけていて、背中は悪寒をもよおさせる光沢をたたえていた。
ピクリとも動かないそのムシケラを前にしてメグはくるりと背を向けると、来た時のときめきの騒がしさも一挙一動の静けさも嘘のように、彼の部屋を後にした。後には呆然とするムシケラが残されたのみであった。
バダァンと勢いよく閉まった扉の音でメグははっと我に返った。
意識を取り戻したメグは先ほどの光景を思い出す。彼の部屋の中にいたあのおぞましいムシケラの姿が頭に思い浮かぶ。あれはいったい何だったのだろうか?
頭が落ち着いてくると、あのムシケラは見間違いだったんじゃないかとか、趣味の悪い置物だったんじゃないかとか、苦しいにしろ巨大なムシケラの存在よりかは現実的な理由がメグの頭にいくつか浮かんできた。何にせよ、このままこうしてはいられない。これでは再び怪しい女に逆戻りである。メグは気を取り直してもう一度、彼の部屋に足を踏み入れた。
再び靴を脱ぎながら辺りを見回すが、先ほどと特に変わった様子もなく室内は薄暗い。目の前の扉はというと微かに開いたままになっているが、そこから不気味なムシケラが覗いているなどということはなく、静まり返った扉の向こうからは何の気配も感じられなかった。
メグは一歩一歩、踏みしめるように扉へ向かって行くと、一呼吸もおかずにそろりと扉を開けてみた。そこにはやはり巨大なムシケラがいた。
「……生き……てる……の?」
恐る恐るそう問いかけると、ムシケラの短い触角が小ぶりの頭の横で、まるで返事をするかのようにピクリと動いた。
メグは考える。これはいったい何なのだろうかと。ムシケラなど嫌いなことも忘れ、ただじっとそれを見つめて、回らない頭になんとか思考を巡らせようと
気づけばメグはムシケラと見つめ合っていた。その黒く小さな真ん丸の瞳をずっと見つめていると、次第になんだか可愛らしく思えてくる。すると今度は、不意に馬鹿らしい考えがメグの頭にふっと現れた。
「……タユタ……くん?」
メグの問いかけにムシケラの頭が動いた。人間とは勝手の違う頭ではあるが、その動作がメグには頷いたように思えてならなかった。
「タユタくんなの? ……そっか」
メグはもう既にそのムシケラが彼だと信じて疑わなかった。なぜだかはわからないが、メグにはそれが彼であると確信したのである。
「安心して、タユタくん。私が守ってあげるから」
ムシケラはうんともすんとも言いはしなかったが、メグは強く決意を固めた。こんな姿が見つかってしまえば、どうされてしまうかはわからないが、殺されてしまうか好奇の目に晒されてしまうのは想像に難くない。ならば、誰にもばれないように隠し通すしかない。
しかし、彼がいなくなればまず職場の人間が気づくことだろう。彼の職場はどちらかと言えばブラックな方で、仕事が忙しいため、ここしばらくは友人とも家族とも連絡を取っていないということは把握している。それほどまでに忙しい中で唯一彼が連絡を取り合っていたのは恋人のみで、その彼女とすらやり取りは日をまたぐことも多く、会うのも週に一回あるかないかというほどであった。当面は職場の人間の目さえ欺ければ心配はいらないだろう、メグはそう結論づけた。
幸い、彼の職場の電話番号をメグは把握している。彼の恋人であると名乗り、本人が電話を掛けられないほどの風邪であると告げれば、今日の内に家まで訪ねてくることもないだろう。もし仮に訪ねてきたとしても、一報入れておけば、大家に掛け合って鍵まで用意し入ってくる心配はまずないはずだとメグは判断した。
「大丈夫。会社には酷い風邪だって連絡しておくから、安心して」
メグはそう言って力強く微笑むと、スマホを頬に当てがい言った。
「お腹、空いてるよね? 待ってて、ご飯も作ってあげる」
メグは彼に背を向け、嬉しそうに玄関へ向かって歩いていった。
「……あっ、もしもし。」
ムシケラはそんなメグの背中をただ呆然と見つめることしかできなかった。
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