第25話

 上村有希也が津原保志になって2週間経った。これから先ずっとこの身体とこの足で生きていく覚悟はできた。出来の悪い息子とでも言おうか。苦労させられるだろうが逃げはしない。とことん付き合っていく。


 日常生活はトレーニングでもあるから歩行も上達している。技術の習得には反復練習が肝心で、単調に思えても何度も繰り返すうち、身体が動きを覚えてくれる。ラグビーのステップも上達には反復練習が欠かせない。


 右足で一歩踏み出し、二歩目の左足は右足の横に踏む。右足で一歩、左足で半歩を繰り返して歩く。左足の爪先が自然と外側に向くのは、身体の仕組みか長年の習慣か、おそらく前者だろう。


 ずっとこの足で歩いてきた津原保志に少しは近づけただろうか。やじろべえのようにおぼろげに揺れていた影もいまでは道の中に溶け込んでいた。


 人に追い抜かれることもあるけれど、屈辱には思わない。競争をしているわけではないし、追い抜きざまに顔を覗き込むわけでもない。悪気はないのだし、被害者意識を抱く必要はない。


 その気になれば速くも歩ける。ただしその分体力を消耗する。長時間歩けば疲労で身体が重くなる。負荷がかかるのもあるが、無職の津原は自堕落な生活を送り栄養も不足して、体力も落ちている。子どもの頃に障害を負ったのなら、運動の知識も乏しかっただろう。逆に言えば生活次第で改善の余地はある。鍛え甲斐もありそうだ。


 津原が子どもの頃に遭った交通事故で膝を壊したのは傷痕からも明白だった。膝は身体を支え、動かす極めて重要な部位だが、一度痛めてしまうと完治は難しい。ラグビーに限らず、膝の怪我で選手生命を絶たれた、あるいは実力を十分に発揮できなくなったアスリートは数えきれない。

 津原保志は歩行を奪われた。ショックは計り知れず、人生に大きな影を落としただろう。子供の頃の笑顔を失くしてしまうほどに。


 ただ慢性的な痛みはなかった。長く歩いた次の日は筋肉痛の様のものはあったが、疼く痛みはなく、その点だけは幸いと言えた。


 人目も気にならなくなった。というより、他人はさして気にしていないことに気づいた。不自由をしているのは障害者ばかりでなく、老人や怪我人も杖をついたり足を引きずったりしているのだから、珍しくもないはずだ。じろじろ見られるよりは放っておいてくれた方がありがたい。


 あれ以来コンビニであの母娘と会うことはなかったし、大雨に降られたのもあの日だけ。津原保志になった初日に不運が重なったわけだ。物は考えようで、最初に高いハードルを飛び越えたと思えば後は楽になる。


 もはや津原保志は自分を殺した人間ではなくなっていた。今は俺が津原保志で、あいつは俺にバトンを渡した前走者。レースはまだ先が長い。きっと挽回できるはずだ。



 玄関を開けようとした手を止め、有希也は外を振り返った。だるまさんが転んだのように、微動も見逃さぬよう目を凝らしたが、景色は写真のように静止していた。どこかで鳴くカラスの声が、のどかな昼下がりの効果音の様だった。


 刑事が聞き込みに来たと田中さんから聞いた。自分の話が出たと言われて狼狽えたが、話が脱線して家賃の話になり、その流れでということだ。だから早く払いなさいよ、と言い置いて帰って行った。


 死体発見直後は警戒していたが、いつしか解いていた。小まめにチェックしている新聞に事件の続報は打たれていない。(足を引きずった男の目撃情報は警察内部だけに留められていた)あの現場に、津原が犯人と示す痕跡が残っていれば警察が接触してくるだろうが、いまのところそれはない。田中さんのもとに来たのも津原を疑って、というわけでないようだ。


 何か動きがあればまた田中さんが教えてくれるはず。本人には秘密で、と言われたところで黙っていられるタイプではなく、口に出さなくてもリトマス試験紙のように態度に出る。よそよそしくなったら要注意。いずれにせよ、なるようにしかならないのだから怯えてもしょうがない。


 封筒の金は有り難く使わせてもらっている。今のところ食費と日用品―シャンプーや洗剤など―を買うぐらいだけれどいつか底をつくし、大ぴらには使えない。


 家賃も支払えないから、有希也は仕事を探すことにした。


 もっと身体に馴染んでから、とは思わなかった。仕事を探したり面接を受けたり、置かれた状況を知りながら津原保志を自分のものにして行く。


『戦いながら強くなれ』


 ラグビー部の部室に掲げられていた言葉を胸に刻んで生きてきた。


 有希也はまずアルバイトを探した。25歳のフリーターなど珍しくなく、この身体で社会経験を積み、自分に何ができるのかを見極めたい。きっと自分にしかできないことがある。こんな経験をしているのは世界中で自分ぐらいで、まだ誰も知らない金脈を発見できるかもしれない。


 パソコンも携帯電話もないこの部屋にも固定電話があるし、コンビニに行けば無料の求人誌が置いてある。弁当を買ったついでに貰ってきて、さっそくちゃぶ台の上に広げた。大学以来の求人誌は中身に大きな変化はなく、相変わらず長方形の求人情報が列挙されている。


 ページをめくりながら記憶を辿った。足の不自由な人を見かけた場所、そこがすなわち自分でも就業できる職場になる。有希也の勤務先の証券会社にも車いす利用者や足の不自由な人はいた。部署は違ったが社員食堂で見掛けた。障害者雇用促進法によって雇用が義務付けられたため、障害者にも職業選択の幅が広がっていると聞いたが、いま探しているのはアルバイト。会社以外で障害者が働く姿を思い浮かべようとしても思い当らない。特に接客業ではほとんど見かけないから、その時点で選択肢が絞られてしまう。


 そのうえ津原保志は中卒だ。「高卒以上」が条件ならそれだけで応募出来ないし、そうでなくても不利になるのは間違いない。男女雇用機会均等法などで、性別を限っての募集は少なくなっても、「女性が活躍中」の文句が躍る求人は、女性が対象だと暗に示していることを知っていた。


 学歴を詐称するのは容易い。履歴書に「○○高等学校卒業」と書くだけ。実在する高校名を書けば疑う人はまずいないし、この辺の高校にしない限り、卒業生と出会う確率はゼロに近い。


 有希也は大学も出ているのだから学力も問題ないし、訊かれて困ることはなにもないが、学歴詐称はしたくなかった。時折メディアを騒がす経歴詐称の有名人たちと一緒になりたくない。子供の頃から正義感が強く、損をしても筋を通したい性分で、曲がったことを、適当な言い訳をして正当化することは何より嫌いだった。


 津原の抱えたハンデなど俺の力で乗り越えてみせる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る