第52話

36.


 わたしが戻ってきた頃にはやっぱり試合が始まっていて、体育館の二階の方、キャットウォークを通ってから、ベンチの方に回ることにした。


 決勝戦だからかな、すごい人が多くて、キャットウォークの積載重量を超えてそう。わたしは人と窓の間を縫うように進んで、その途中で、担任の先生の元出先生を見つけた。応援に来ているとこを見たことがなかったから、ちょっと意外だった。


「あれ、先生。先生は下で見ないんですか?」


「波山か。私はいい。ちょうど暇だったから観に来ただけだからな」


 先生はぶっきらぼうに答えた。

 試合はハーフタイムに入ってた。先輩といた時間は思ったより長かったっぽい。


「じゃあ、わたしもここで観ますね」


「え、ああ。そうか」


 元出先生は一瞬、嫌そうにした。もしかしたら途中で抜け出そうとでも思ってたのかも。この先生のことだから。たぶんそう。


 でも、じゃあ、なんで元出先生は試合を観に来ようと思ったんだろう。暇でも応援には来そうにない人なのに。


「先生はわたしたちの試合のときもいましたか?」


「途中からだがな。……しかし、さっきの試合は惜しかったな」


 先生は如何にも形式的な言葉を使ったけど、心の中で悩んでいたのがわかった。先生は生徒とかクラスのことに無関心に見えるけど、意外と気にかけてたりする。


「やっぱ男子に仇を討ってもらわないとですね……ところで勝ってますか?」


「いや、1点負けている」


 コート上のスコアボードを見た。


 E組が19点でF組が20点。


「すごい接戦だ……」


 わたしはちょっと祈るように呟いた。


#


 僕は麴森から無言で放たれたパスをノールックで隣に流した。が、ボールは取り損ねられ、サイドラインを割った。アウトオブバウンズ。


「っ……すまん」

「いや、こっちも際どくなった」


 いつもなら取ってくれるパスのはずだったが、繋がらなかった。ミスをする確率が高まってきている。この試合、これからはタイミングがすれすれのパスは出す意味がないかもしれない。


 チームメート全員を視野に収める。

 さすれば僕がサボっているかがよく分かった。周りは執念深い亡霊みたいな動きをしている一方で、僕はいつも通りの呼吸をして、手を当てなければ聞こえない心音で、手に汗すら握っていない。


 これはこれで強者つわものに見えるかもしれないが、スコアボードを見ればただの数合わせみたいなものだ。


 試合時間は残り5分40秒。スコアはE組が25点でF組が32点。試合の流れは前半こそ拮抗すれ、いまは完全に相手のF組にある。おそらくこのままではどんどん差が開くだろう。



 悪童が机を蹴り飛ばす音がした。



 僕は界にひっついたまま、ボールだけ目で追っている。一応、こうしてマークについてることが功を奏しているのか、先から界にボールは渡っていない。いいや、界がそもそもボールをもらいに行く動きを見せていない。


 水門水がレイアップを試みる。しかし、麴森が完全にシュートコースを消した。

 水門水は空中でボールを持ち替え、後ろに回っていた倉敷にパスを出した。その流れのままシュートに移行するかと思えば、冷静なフェイクで、こちらのディフェンスは空中に固定される。

 さすれば視界明瞭な倉敷がシュートを外す道理はなく、あっさりシュートを入れられてしまう。


 E組はすぐに反撃に移ろうとするが、F組のディフェンスを出し抜くには皆へとへとで、カウンター、速攻は狙えない。


「F組、強いな」


「というより、そっちがもう機能不全じゃねぇか」


 界はあくびするような空気で言った。


「楓雪のパスも繋がらないっぽいし、相手のバスケ部のやつも一度に二人相手すんのはキツそうだしな」


 他のメンバーも全員が全員シュートを狙うためにゴールからゴールに振り回されていた結果、無駄に疲労を蓄積して、動きが明白に鈍くなっている。

 それは顕著にプレーに現れていて、先から些細なミスが増えている。


 体力面だけでない。精神的にも疲労が溜まっている。僕は相変わらず流れ流されるまま、軽くしか動いていないので、端からバスケ部の連中についていこうとする無謀に身を投じていないのだが、他のメンバーは必死に食いつこうとしていた。


 だのに、バスケ部たちは後半から更にギアを上げていた。これでは心も折られてしまう。


 E組の負け色はどんどん濃厚なものとなっていった。


 僕はこの試合で「勝とう」と思っていたが、なにか細やかな「意趣返し」になりそうだなと思えてきた。


 僕は軽く手を上下に振った。


 この試合のために「奥の手」を用意しておいた。F組に勝つために。

 ただ、それはもっと点差が小さくなくては意味がない。9点を一気にひっくり返せるようなものじゃない。


 僕は腰に手を当てて、嘆息を吐いた。ゴール下では麴森が無理にシュートに繋げたが、ディフェンスをあからさまに突き飛ばしていて、ファウルとなっていた。


「いよいよ絶望的だな」


 僕は他人事のように呟いた。勝利を狙い掴んだその先に何が襲いくるのか、その答えを知りたいと思った。ただ、それが実現できない以上、非望だったのだろうと思う。


 いま、再考すれば、答えを知ることは必要なことじゃなかったはずだ。僕は冷静でいなくてはならない。冷静さを欠けば、無垠の世界線上に曖昧に揺蕩う自分自身なんて簡単に見失う。

 このお祭りの間、僕は熱にあてられすぎたんだ。


「なぁ、楓雪。今回の勝負はお預けでいいだろ? そもそも戦力が違いすぎるしな。この試合は終わりにしよう」


 界は呆れ気味に溜め込んだ毒素を吐き出して、僕の許から離れていった。


 乱暴に扉が開かれる。

「『「いいや、これからが始まりだ」』」



 界の捨てたセリフは、どういうわけか僕の錆びついた胸の内側を刺激した。そのずっと奥底で、芽吹いた罅が匿穴くけあなになって呻き声を上げたとき――僕は呑まれた。


 口を持たない花瓶が内側から割れていくように、瘴煙が洶湧し、その狂熱に蝕まれる。


――眩んだ。


 視界が歪曲し、不規則に回旋する。全身が器官ごとに、組織ごとに、そして細胞ごとに乱離し、秩序は崩壊した。僕はこの「ゲシュタルト崩壊」の正体の大概を察した。だが、それではダメなのだ。


 僕が――



――成さねばならないことは勝つことじゃない。

――僕自身で勝とうとすることだ。

――それを「選択」することだ!


 

「『「お前は与えられていない選択肢を選ぶことはできない」』」



 胸のあたりに強烈な痛みが奔る。爪牙に引き裂かれ、焼け棒杭で抉られるような痛み。思えば何度も味わった痛み。肉体的な痛みだけじゃない。


『与えられていない選択肢を選べない』


 金属の悲鳴を上げながら狂い走る言葉。僕はそれに言葉で反駁することはできない。



 従って全身は再編成され、統一された。その組み上げられた身体は既に僕のものではなかった。



 あの閉ざされていた扉の向こう。


 そこに何が隠されているか、隠されていたか。



「あの向こうには……僕が知らない人間だれかがいる」



 煙霧に閉ざされ、対して身体中の血液が沸騰した。その沸騰した足で力強く体育館の床を蹴り、この身体は簒奪され、簒奪した。

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