第43話 「七つの大罪」と一つの凶悪

26.


 これは都合が良かった。

 

 自意識過剰なのかもしれないが、今朝のことがあって、何となく教室にいたたまれないような気がした。



 こうしていつもは四階まで上らなければいけないから、学校生活に於いて一、二を争う億劫なのだが、今日は代償……いや、対価を払ったということにしておこう。


 図書室に入れば、一つ、机の上に閉じて置かれていた文庫本が目に入った。多分、誰かが読んだまま置いていったのだろう。

 僕はすぐに図書委員としてのタスク(本を元の場所に戻す)を遂行せず、文庫本を片手に持ったまま、カウンター席に着席した。



 この学校の図書委員を漢字一字で表わせと言うなら、それは閑だ。

 守ノ峰高校の図書室利用者は絶滅危惧種に指定されているのは暗黙の事実で、更にその殆どが常連なのでマナーはよく、貸し出しも正直図書委員がいなくてもできそうなもので――仕事らしい仕事がめったに生まれない。


 放課後とかに稀に書庫整理を頼まれたりするが、それも数ヶ月に一回のペースだ。あとは……学期末に書く督促状くらいか……。


 

 だからこそ、こうして机の上に本が置きっぱなしになっていたという状況は珍しいもので――。


「森鷗外……か」


 

 適当に開いてみれば短編集だった。何となくタイトルに惹かれた『高瀬舟』を読んでみることにした。


 僕は図書委員であるものの、殆ど本を読まない。

 書いてあることから何かを得るには、人生の経験値が少なすぎて、意味がないと思っているからだ。


 ページをめくる。


 読んでみれば意外と一瞬で読み終えてしまって(そもそも十数頁程度しかなかった)他の作品でも読んでみようかと思ったところ、見覚えのある人がカウンター側に回ってやってきた。


「おつかれー結江っち」


「……こんにちは。海崎うみさきさん」


 海崎うみさきみどり。明るめの金髪が肩の上あたりで切りそろえられているが、前に見た時はもう少し長かったような気がする。

 しかし図書室に来る人で、金髪の人はとても珍しい。もしかしたら彼女がパイオニアになるのかもしれないな。


「え? あんたあーしの名前知ってたの?」


 カウンターには一応、席が二つあってまさか一人で二つ使う意味も必要もないので、海崎さんは空いている方に座った。


「……一応、同じ図書委員だし」


 しかも同じE組の。

 でも、こうして話すのはこれで初めてで、もうすぐ一学期も終わるというのに僕は他の図書委員、若干二名の顔面をここで確認したことがない。

 逆に、クラスで図書委員は一人いれば学校の運営に全く支障がないということの証左なのだが。


「アハハハ! いつもごめんね〜昼練とか忙しくてね」


「ダンス部だっけ?」


「!? な、なんで知ってんの……?」


 海崎さんは自身の身体を腕で抱えて露骨に距離を取った。なるほど、全く関わったことのない人が自分の個人情報の一部を即答したら、ある程度の気色悪さは覚えるのかも知れない。


 だが、その情報は確かに開示されていた。


 ダンス部所属だというのは彼女自身が自己紹介のときに言っていたことだ。僕が知っていることは全くおかしいことではないのだ。


「なんとなくそう思っただけだ」


 ただ、差し障りのないようになんとなく「なんとなく」と答えておいた。



「じーーーー………」



 カウンターで取れる最大の距離を保ちながら、効果音付きの視線を送ってくる。

 普段の僕なら、多少、気になっていたかも知れないが、今日に限っては人の視線にある程度耐性がついていた――言うまでもない。


 だから僕はまた意識を手元に落とした。



「んー? 何読んでるのそれ?」



 と聞くのに本を盗ってくるので、先の質問文は「その本寄越しな」とかにした方がいいと思う。


「うっわ! かたっ! 堅いよ。もっと面白そうなの読みなよ。だからそんなパッとしないんだよ?」


 少し顔を顰めた海崎さんは、そう言いながらも、ページをパラパラとめくり続ける。


「それとこれとは別の話だと思うが」


「そんなことないし〜。現にほら! パッとしてない!」


 ピッと指を差してくるが、それは否定しない。


「……でも、パッとしなくても裏ではやることやってるそうだけど?」


 海崎さんは本を僕に返しながら、ニシシと面白可笑しそうにニヤけた。


「そうだな。他の図書委員が全く来ないから、こうして僕一人で回して……」


 なんて嫌味に近い皮肉を挟んでみたら、話を遮られた。


「そうじゃないよ。今日の朝のことだよ!」


「……あれか」


 今日まで全く仕事してこなかった海崎さんが、突然今日になって顔を見せたことの背景として、暇だったからというのは安直というか楽観的で、何か裏があるのだろうとは思っていた。


 もちろん、その裏もだいたい察しはついていた。


「うんうん! 何? 浮気でもしたの?」


 海崎さんは大きな両目をパチリと煌めかせる。香水の匂いがかすかに香るくらいには距離が近くになっていた。


「……言っておくが、期待しているようなことは全く無いぞ。浮気もしてないし、そもそも香流とは恋愛関係でもない」


「ふーん。名前呼びなのに……。あ、たしかに告白されてたってことは浮気じゃないか!」


「より厳密に言えば、僕は誰とも付き合っていない。それにあれは……」


「…………? あ、もしかしてそんなに否定してんのって、あんたあーしが狙い!? さっきもわたしの部活当ててきてたし……!」


 海崎さんは取り戻しつつあった距離を、もう一度、先よりも大きく取った。


「……どう解釈してもらっても構わないが、図書室だから少し声を小さくしてくれないか?」


 思考時間の割に導き出した推論は見当違い甚だしいが、ここで否定してもまた変な方向に話と思考が飛びそうなので、ニュートラルに答えておいた。


 僕にもう少しユーモアと度胸があれば、肯定もできたのかもしれないな。


「あ、ごめん!」


 ……多少大きな声を出しても、迷惑をかけることになる利用者がほぼいないのだが。


「じゃあさ、あの子とはどういう関係なの? そう言えば将棋でも戦ってた子よね?」


「ん……そうだな」


「ていうか、凄かったね! 結江っち。一人だけあのチームに勝ってて。本当に将棋強いんだぁって見直しちゃったよ。あーしてっきり運動が出来ないから将棋に逃げたんだって思ってたもん」


 失礼なことを躊躇なく言葉にして、笑いながら肩をパシパシ叩いてくる。この人の距離感は乱数調整されているのだろうか。


「あれは単なるまぐれだ。あの日は香流の調子がよくなかったんだ。でも、後半は間違いじゃない。僕は習慣的に体育以外では運動しないから、球技から逃げつつ、クラスに貢献できそうな将棋にエントリーしただけだ」


 嘘はついてない。


「ふーん。それで惚れられちゃったわけだね!」


 海崎さんは一瞬、訝しそうに見てきたが、また距離を詰めて今度は上目遣い。


「惚れられていないがな」


「えーでも、あの子ちっちゃくてかわいいじゃん! 付き合っちゃいなよ〜」


 何に対する「でも逆接」なのか。


「僕にも向こう側にもその気はないんだ。寧ろ……」


 思えば、香流が僕を騙せていたとしても、彼女のもともとの目的、標的は界にある。つまり、いずれは一方的に捨てられていたのか。

 

 これはなかなか酷い扱いだとは思う。


 いや、香流は将棋以外のことは思慮が浅そうだからな……。こういうに読みは入れていなさそうだ。


「え〜つまんないー! いいじゃん! 別に嘘だって。あれだよ、あれ……ええと、あの、アドベンチャー? みたいな」


「……アバンチュールか? あと、声のボリュームは下げたままでいてくれないか?」


「ハッ! ……そうそうそれそれ!」


 海崎さんは一度、口元を抑えて、周りを見渡してから、小声で話す。利用者は少ないだけで、皆無なわけではない。それに限りなく近いだけ。


「で、どう? 付き合っちゃいなよ!」


「……どうして海崎さんはそんなに僕と香流を恋愛関係に陥れたいんだ?」


「『陥れる』って、ウケる〜!!」


 海崎さんの壺に入ったのか、お腹と声を抑えて笑っている。


「いやー? 特に理由はないんだけど、付き合ったら面白いじゃん? ガールズトークのネタになるっしょ」


「僕みたいなの人間の色恋噺を話題に出して盛り上がるか?」


 今度は腕を組んで、考える素振りを見せる。


「……うーん。たしかに結江っち、尋常なまでに影薄いもんねぇ〜」

 

 向けてきたのはあわれみの眼だった。


「このあーしでさえ、ここに来る前に名簿で名前確認したもん」


「ああ。そういうわけだから諦めてくれ」


 一応、海崎さんのために図書委員のを一つ、残しておいたのだが、一向に手を付けないところを見ると、やはり端からやる気がなかったか、そもそも仕事内容を知らないのか。


 どちらでもいいが、そろそろ昼休みも終わるので、片付けてしまおう。


「でもさ、これが生涯で最初で最後のチャンスかもよ? 結江っちいままで彼女いたことある?」


「ないし、そもそも恋というものをしたことがない」


 記憶を失う前は知らないが、あったとしてもいまの僕には関係がない。


「ええ! 初恋もまだなの!」


 がた、と海崎さんが座っていた席が音を立てた。

 言葉だけ交わしつつ、図書委員の雑務を完了させた僕は一冊の本を片手に持って、席から立った――が。


「海崎さん。通れないから寄ってくれないか」


「じゃあさ、あの子可愛いなとか、あの子気になるなとか思ったことも?」


 海崎さんは席を立ってはくれたが、道を塞ぐばかりで、通してはくれない。


「全く無い」


「思えよォ〜! 他の女の子見て、あんなこととかこんなことしたいなとか思わないの? 思春期っしょ?」


「思春期ではあると思うが、他人に劣情を抱いたことはない。それよりそこ……」


 海崎さんは一度眼を見開いた。その後に、わずかに口角を上げた。


「恋はいいよォ。人生を瑞々しくしてくれるんだよォ〜」

「そうか。そんなことより道を開けてくれないか? 通れないんだ」


 この際、無理やり押し通ってしまってもいいかもしれないが、下手に接触するとセクハラとか訴えられるかもしれない。

 これが界とかだったら突き飛ばせるのに……。


「……ん!!」


 なのに海崎さんは一歩近づいてきた。


「……?」

「ねぇ? なんとも思わないの?」


 海崎さんのワイシャツは開襟タイプだ。(だから第一ボタンというのは正しいのかは分からないが)海崎さんは器用に片手で一番上のボタンを一つ外した。


 開かれたワイシャツの止まった二つ目のボタンに細い指をかける。目線を上げれば、海崎さんの試すような目に見られた。


 香水の匂いが鼻腔に浸透してくる。


「なんとも」


 急にどうして僕に色仕掛けをしてくるのだろう。健全な思春期を送れば、必ず興味を持つであろう、艶事については知識としてある。

 ただ、それは僕の中で知識にとどまって色欲には及ばなかった。


 七つの大罪というのなら、僕はそれら全てを保ち合わせない代わりに、もっと凶悪な八つ目の大罪を犯し続けている。



「む!」


 海崎さんは今度は上体が触れてしまいそうな位置まで距離を詰めてくる。だから、僕は一歩引くのだが、そうすればまた一歩詰めてきた。

 だから、また一歩引くのだが、もうこれ以上下がれないのだ。


 互いの熱が伝わる距離で、別に雪山で遭難したわけでもなし。

 寧ろ夏が始まろうかとしている時期だ。


 海崎さんは僕の左胸に手をやった。


「……………!?」


 添えられた右手と伝わる熱が、ゆっくりと離れた。

 海崎さんはそうして僅少に俯くので、何となくこの奇行の目的が量り知れたような気がした。


「この本。読むか?」


「……おすすめは」


「『杯』かな。短いし」


「ふーん。読まなーい。あーしあんたみたいに冷めた岩みたいになりたくないもーん!」


 海崎さんはカウンターから、歩いて出たまま、図書室からも静かに帰って行った。

 

 僕は手に持った本を本棚に戻して、図書委員のタスクを完了した。

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