第27話 峰高祭
6.
とうとう峰高祭のトーナメント表が掲示された――いいや、掲示されていたと言うべきか。
僕が出る、「男子バスケ」は幸運なことに二回戦からのシード権を得ていた。もう一つの「将棋」は初戦に1−Aと当たる。
一応、界のクラスである2−Fも見てみたが、バスケも将棋も決勝戦まで当たることはない。
だからおそらく直接対決になることはないだろう……。
少なくとも将棋はあり得ない。聞くところによれば優勝候補の2−Aと準決勝で当たる組み合わせであるのだが、そのA組は将棋部三人のチームらしい。
そして僕たちは急拵えの初心者三人。
将棋部と当たる場合にはハンデは貰えるのだが、駒落ちとかではなく――駒落ちだったとしても、将棋部には敵わない気がするが――持ち時間が厳しくなるだけなのだ。
それも仕方のないことで、守ノ峰高は一応進学校であり、平均的に武より知に偏った学校である。
そのためか、相当の腕前があっても将棋部には所属していないような生徒は割といるというのは不思議ではない。
それに他の競技でもハンデはあるが、ルール上で差別は行っていない。
例えばバスケなら、コートにバスケ部は同時に二人までと言ったように。
シュートを打ってはならないとか、ドリブル禁止みたいなルール上の差別はない。
だから持ち時間に対するハンデは妥当であると思うし、個人的にはそもそも学年間を超えて競う時点――高校生がおなじ高校生と競う時点――でハンデは不要なのではとも思っている――いや、これは悪平等というやつなのだろうか。
「お、おい!
香流は嬉々そして爛々としてコートを見つめている……。その瞳の奥にはいろいろな感情が渦巻いていることだろう……。
「……そうだな。じゃあ帰っていいか?」
階下の体育館では両チームがアップを始めていた。
「は? ここからお前に居て欲しいんだよ! もしオレだけがいたら……まるでオレがわざわざあいつを見に来たと思われるじゃないか!」
「でも
「……そ、そうだけど……」
とても気難しい年頃だ。
僕はどうしてか2−Fのバスケの試合を観に来ていた。2−Fと言えば界がいるクラスで、これも聞いた情報でしかないが峰高祭優勝候補らしい。
しかし僕にとっては本当にどうでもいいことであって、もう今すぐにでも帰ってしまいたい時間帯なのだ。これは帰宅部として自然の習性である。
ただ、こっそり立ち去るにもいつものようにYシャツを掴まれているし、また教室で『なんで帰りやがった!』と騒がれるのも少し面倒だ。
…………ああ、いっそこれは義理だ。そう割り切って僕は観戦することにした。
7.
昨日の放課後に峰高祭の開会式があった……らしく(僕は不参加)、今日から競技が始まった。僕の場合は明日の将棋が最初で、次は来週のバスケ……と試合がある。
しかしどちらも室内競技だから延期はないだろう。
――とは言え、延期が起こること自体が少ないのだが。
いまは六月で梅雨の季節。しかし、守ノ峰市は比較的晴れや曇りが多く、降水は多くない。
そして初日(今日)なのだが、E組、クラスとしての試合といえば、サッカーがいま外で行われているはずだ。
もちろんクラスを応援する気も、義務もない。
もし「応援せずにどこにいた」と問われても、バスケの偵察に行っていたとか適当を言えば、問題ないと考えている。
もちろん"応援によるパフォーマンスに対する心理的効果"は認めないわけではないけれど、クラス
それに前回も出番のない日は帰宅していたが、自前の陰の薄さからか、誰にも気づかれなかったし、もちろん咎められもしなかった。
だから前回は気がついたら全競技終わっていたし、最終順位もよく知らないまま進級した。そのくらい興味のないことで、クラスメート失格の域でどうでもいいことだった。
「おい! 始まるぞ!」
Q. なのにどうして今、体育館のキャットウォークまでやってきて、しかも他クラスの試合に足を運んでいるのか。
A. 香流に(無理やり)連れてこられたから。
先日……月曜日の香流との接触は功を奏し、ストーキングは終わった。
しかし代わりに今度は堂々と教室にやってくるようになってしまった。それも毎日。
それは僕にとって異質過ぎる環境である。
たしかに精神的には付き纏われるよりマシではあるが……。
それに、そうやって毎日来るもんだから一部では『ミニフェルメール』とか呼ばれているのを香流は知っているのだろうか。
その由来は彼の有名な作品、ヨハネス・フェルメールの『牛乳を注ぐ女』だろう。おそらく香流が毎日小さいパック牛乳を携えてやってくるからだ。
牛乳を飲むより外で遊び回っていたほうが背丈は伸びる……いや身長のためとは限らないか。
しかし、あだ名一つとっても一捻り利かせてくるのは実に守ノ峰高生らしいな。
「でも、バスケの試合なんて見ても将棋の勝敗には繋がらないんじゃないか?」
「そりゃそうだろ。バスケと将棋じゃ全然違うだろうが。バカなのかお前は」
香流はコート(というより界)からわざわざ目を離してから、怪訝そうな顔で睥睨してきた。
別におかしな質問ではなかったように思えるが……。
「オレはあいつが無様に負ける姿を拝みに来てやったんだよ」
なんてニヤけながら清々しそうに言い切った。
2−Fの相手は3−Bだった。
こう、見てみると体格差は見られるものだ。それは背丈というより筋肉量。やはり見て比べると3年生の方が引き締まっているように見える。
たしかに中学生で高強度の筋力トレーニングはできないだろうし、大抵の中学校にはトレーニングルームなるものが存在しないように、パワーでは学年差が視られるのかも知れない。
試合が始まってから約2分。界はまだ出場していない――さらに服装的にバスケ部と思われるF組の面々もベンチ(コート脇)で待機している。
対し、試合の方は0−4でF組が負けていた。
F組の動きが悪いわけではなく、お互いシュートは打ち合う形である。
しかし互角とは言えない。
3−Bの連携の取れたゾーンディフェンスが堅実であるのと、フィジカルで劣るF組がやや不利か。
ここでボールがコートを割ってホイッスルが鳴る。
F組ベンチが動いた。
「おいおい! か……じゃない、奈御富が出てきたぞ!」
試合開始から3分。
選手交代。
「やっと出てきやがったぜ! あいつなんで最初から出てねぇんだよ! ハハハハハ!」
香流はキャッキャ跳ねつつ笑うというマルチタスクを熟している。
口では『負け様拝みにやって来た』とか言っていたが、絶対応援に来たんだよな。
肝心なところで素直になれない人だ。
ゼッケンの入れ替えを見ると、F組は一気に三人選手交代をしたようだ。
界とバスケ部二人が投入される。
一応、登録された選手は全員、必ず3分以上出場していないとならないというルールがある(尤もきっちり3分計測されているわけではないが)
だから今退場した選手はもうコートには戻ってこない可能性が高い……。
もしかしたら他の二人と体力次第で切り替えるのかも知れないが。
試合再開。
界にボールがパスされ、ゆっくりドリブルしながらセンターラインを超える。他のチームメイトはバスケ部一人以外は自陣から動かない。
しかし疑問はない。界の実力を鑑みれば当然の作戦とも言えよう。
3年生の方は若干の動揺が見られるが、やはり有効であったゾーンディフェンスを採った。界がセンターラインを割ってもすぐには当たりには行かない。
界はセンターサークルを出ても小走りと歩行の迫間のドリブル。
捉え方次第では怠慢プレーで、狡猾なトラップで。
そのままのスピードでスリーポイントライン手前――ゾーンディフェンスのギリギリ圏外――で立ち止まり、ゴールの方を見るのだ。
界は落ち着いて絵に描いたようなロングシュートを打った。
シュート体勢に入った瞬間に3年生チームの一人がシュートブロックに走るが飛ぶこともかなわない。
空にはボールだけが飛び出して、息を呑むような弧を描き、静かにゴールに吸い込まれていった。
ゴールに一拍遅れて歓声があがった。これにはわけがある。
界のシュートフォームは素人目でも綺麗だった。ボールの軌道も山なりで、まっすぐ縦に回転していた。
しかしそれが、あの距離で入るとは考えられないのだろう。
せいぜいリングに弾かれるのが関の山。
しかしその予想を大きく裏切る形で静かにリングに侵入していった。
それは観戦者にとって不自然で、一拍遅れたのは自然なことだった。
ただ、僕のような界の実力を嫌というほど知っている身からしては「入るんでしょ?」と思うばかりで、弾かれる方が意外だったり。
「相変わらず、すごいな」
僕は誰にも聞こえないような声で呟いた。
ゴール下で減衰運動するボールの音に唖然としている3−Bの選手たちを見ながら呟いた。
「お、おい! 見たか? いまの見たか? あんな遠くから打ったのにシュッて入ったぞ? すごいすごい!!」
香流は目をキラキラ輝かせて嬉々として飛び跳ねて、ハイタッチを求めてきたが、僕にとってはロータッチに……なんて思っちゃいけないな。
3−Bのボールから再開されるが、センターラインを越える前にどこぞの界にボールを奪取され、流れるようなドリブルで二人抜き去り、そのドリブルとは対称的に派手なダンクシュートを決める。
ゴールリングが返す乱暴な悲鳴に体育館はどよめいた。
キャットウォークから見ると高低の感覚が解りにくいのだが、実際自分自身がゴール下に行けば解る。
バスケットゴールのリングは普通の高校生が届くようには作られていない。
そのリングを掴んでいた界は相手チームに向かって「つぎ、つぎ!!」とか叫んでいる。
まだ、5−4であるが、空気感はすでに試合は決まっているような、エキシビションマッチのような……。
その後もF組は界中心の止まらない攻撃に加え、殆ど動かない堅固なディフェンスで前半終了時には28−4と一方的な展開になっていた。
その28点のうち、17点は界が決めたゴールであった。
遠目だが、界は少し息が上がっているようだ。
さらに観戦しているだけのはずの香流も息が上がってしまっていた。
界がシュートを決める度にこぎつねのように跳ねるからだ。
元が小さいし、ピューマのように跳んでいたわけじゃないけど、キャットウォークの柵を飛び越えたら危ないので出来れば跳ねないでほしい。
「す、すごいな! あいつ。バスケ部より活躍してるぞ! 見てたか?」
ほんとこの子、界のこと好きだよな……。
「ああ。あいつは基本的になんでもできるからな」
それに勉強も学年一と来た。文武両道の優等生でもあって、問題児でもあって、何か全部を持っていってるな……。
後半は界のワンマンプレーだけではなく、もうひとりのバスケ部と連携してどっさり点を奪っていった。
試合結果は52−8。よく低学年が高学年のクラスに勝つのを『下剋上』とこのお祭りでは言われるのだが……これは下剋上なのか……?
そもそも高校生にもなると成長期を終えている、それか終盤の生徒が多いだろうし、学年差はあまり関係ないようにも思えるが。
「すごかったな、界のやつ! スリーはほとんど決めるし、一人で全員抜いてダンクッ!! 隙きあらばボールを奪ってシュート!! 後半の全然見ていない方向にシュッてパスしたり……」
香流はもはや忘我の域で、スポーツ実況者目指せるほどの饒舌になっていた。
「……そうだな。でもいいのか? 界が負けるところを見に来たんじゃなかったのか?」
「……あっ…………忘れてた」
「だが、忘れてなかったとしてもあれは負けないだろ……。聞くところによれば優勝候補らしい」
「そ、そうだよな! うんうん!」
ほら、原石は目の前にある。
でも磨くことはおろか拾うことはしない。僕は決してお人好しではない。
8.
「よお! 結江。……ん? 彼女かなんかか?」
キャットウォークから体育館の入り口の方に降りれば、ちょうど
「いい……「「ちげぇわ! バカか!!」」
麴森は挨拶代わりの冗談のつもりであったのだろうが、香流はこの上ない勢いで否定をする。
確かに、香流には『想い人』がいるのだから怒るのも無理はない。いいや、単に僕が厭なだけというのもあるが。
「結江……残念だったな……。そういうこともあるさ」
麴森は「元気だせよ」と肩に手を置いてきた。
全くの誤解であるが、解くつもりもない。
「それより2−Fの試合を観に行っていたのか?」
「ああ。52対8で2−Fが勝った」
「……それは、思ったよりやばいな。なんであいつらそんな本気なんだ?」
「僕に聞かれても解らないが……奈御富界が勝ち越してもずっと止まらなかったな」
52点のうち、32点は界が決めたゴールだ。
あれで元将棋部なんて称しているのだから、いよいよ化け物じみてくるな。
「お? 誰か呼んだか?」
噂をすれば影がさす。一体、誰がそんな事を言いだしたのだろうか。
上半身が水浸しの男がにっこり笑みを浮かべながら向かってくる。
水を被ったのだろう。タオルを首にかけ、まさに「水も滴るいい男」だった。
「おお! ふゆき! 試合観に来てくれてたのか!」
軽快な声。
見かけは運動部の爽やか男子で、これでも一応、僕と同じく帰宅部なのだが……。
なんだ、この『差』は。
「お? それに香流も。珍しいコンビだな!」
香流の顔が薄く赤面した。
「……う、うるせぇ! 誰がお前なんか観に来るか! ボケぇ!!」
香流は強く言うが、何ともしない(解りにくいが本当は呆気にとられている)界を見て「くっそぉぉ!!」と叫びながら走って逃げていった。
「廊下は走るなよぉ」と心のなかで言っておく。
界は不思議そうな眼で香流の背中を追ってから言う。
「どうしたんだ、あいつ。……それより相棒よ。どうだった? 俺の活躍ぶりは!」
えっへん! と張られた胸は逞しく、界は着痩せするタイプだと確認できる。
「ああ。一人だけアメリカ帰りだったな。でも、あんなにコテンパンにしなくてもよかったんじゃないか? お前も汗だく……だったじゃないか」
後半は顔も真っ赤になっていた。
「うーむ……。俺も熱くなりすぎたとは思ってるが、あれは相手が弱すぎだな。意味もなくボールを盥回しててな……」
盥回しって……。
愚痴にも近いような批評を言葉の形で並べていくが、すぐ向こうに3−Bの先輩たちがいることに彼は気がついているのだろうか……。
いや、気がついていてもこの男は問答無用。同じことを堂々といっただろう。
それは嫌味とかではなく、正直な感想なのだろう。子供が思ったことを残酷に言うことと同じで、界もどんなに残酷でも言うことははっきり遠慮せずに言う。
界はそういう人間だ。
「しかもだってバスケなんて玉入れだろ? ゴールにボールを通すだけで勝てんのにな! ハハハハッ!」
僕は首を縦にも横にも振らずに黙って聞いていたが、一人、そうもいかない生徒が目の前に居た。
「……聞き捨てならねぇな。
「ん?」
界はいま気がついたかのように麴森の方を向く。
「それにお前! 相手だって精一杯プレーしたんだ! そんな言い方は無いだろう……」
麴森は声を荒げて言ったが、何か思うことがあったのか、最後にデクレッシェンドがかかる。一瞥してきたような気がしたが、気づかないふりをした。
「……それで? あなたは俺に何が言いたいのですか?」
界は存外つまらなさそうである。こう、言い合いになれば界は楽しそうに論議しそうなものだが。
だからか、界の口調は至って平生のものだった。
麴森も別に大声を振り翳しているわけでもない。
だが、二人は図体も態度も大きい。その二人の間の空気が張り詰めれば、和気藹々としていた生徒たちにも不穏を届けるのも早かった。
ああ、立ち去ってしまいたい。しかし生憎にも後ろは体育館の壁で、前は二巨人の壁で、進退ままならない状況だ。
「……だからそこに3年の先輩たちもいるんだ。もっと周りを見て発言しろ! あと俺とお前はタメだ。敬語はやめろ」
麴森は界の質問に対して要求を返す。が、界はより納得行かない表情に変わっていた。
「……? 君、3−Bの生徒だったから怒ったんじゃなかったの? ……まぁ、判官贔屓は日本人の性だからとても趣があると思うけど……」
「そういうことを言いたいんじゃねぇよ! お前は上手いから下手なやつの気持ちはわからないだろうがな、お前の言い方は精一杯戦った先輩たちを傷つけるんだ! もっと相手をリスペクト……周りを見て物は言えって言っている!」
「……そりゃ解るわけないし、解る気もない。それになぜ俺が周りに合わせてなきゃならない? 補足として、俺は『空気は世界で最も読む価値のないもの』だと考えている。それに俺の言ったことは個人の
界は大抵寛容なのだが、よく解らないところで寛容さを捨て去る時がある。
そうなると決して譲ることはない。
こうなると、麴森は正義感からか、許せない何かがあったからか、界に物を言い始めたのだろうが、結果的に残酷な界の意見感想が引き出されていくだけになる。
3−Bの生徒の顔はどんどん引き攣っていくし、周りの生徒にも伝播していっている。
「だとしてもここにいるのはお前だけじゃない! 相手だって勝つために練習、努力をしてきたんだ! お前のその言い方は相手の心を踏み躙る!」
おそらくいまここで選挙でも行えば麴森の支持率は90パーセントはマークするであろう。
が、界はそういった同調圧力乃至それに類されるものを一切気にしない。
おそらく世界全体を敵に回しても徹頭徹尾、界は自分が正しいと思うことに従うだろう。
「……ならばその『努力』というものは決して報われることはない」
界は淋しげに言った。傍聴していた生徒たちの空気も凍りつく。
それは界のプレーを見たから、界の実力を知っているから……とか理屈だけが働いたのではなくて、界に弾かれた「言葉」が酷く冷厳であったからだ。
「………は?」
先までがっついていた麴森は言葉を失う。
界は断定した。「努力は報われない」と。
僕は麴森のバックグラウンドについて少しだけ知っている。
だから解る。いまのは麴森にとって、最も最悪な言葉であっただろうと。
「……『努力』というものは無価値だ。だから君が言うように踏み躙る気なんて起きようもないし、端から興味なんて湧くはずもない」
「ああッ? んだとッ!」
麴森はいまにも掴みかかりに行きそうな勢いだった。
しかし流石に無視しきれなかったのだろう駆けてきた2−Fのバスケ部の生徒――傍観を予定していたようだが――が麴森を抑える。
だから僕が麴森を抑える気などなかった。
「麴森! 落ち着け。お前と奈御富は性格的に水と油だ。どっちともチームメイトだからよ〜く解る」
彼は界と一緒に攻撃に回っていた方のバスケ部だ。地毛か怪しい茶髪が目立っていた。
もうひとりのバスケ部の方も視界の隅で確認したが、こちらは静観に徹するようだ。
界は勝手に区切りをつけたのか、踵を返し去ろうとしたが……
「あ、君……名前はなんて言うんだい?」
「なッ……。
「ふーん。珍しい苗字だな。頭の片隅にでも置いておこう。さらば」
それは麴森にとっては屈辱であったろう。麴森は界のことを「奈御富」と初めから呼んでいた。しかし界は麴森のことを認識はしておらず、更に名前さえ耳にしたことがないような言い方だっだ。
特に麴森と界は定期考査で毎回トップ争いを繰り広げている間柄だ――が、「麴森光」という名前が「奈御富界」の上に表示された順位表は未だに見たことがない。
挙げ句トップの位置を譲らない界は順位表を見たことすら無いのだ。
張り出されていたことすらしらない男だ。
その直下にいる麴森は明朗闊達に見えるが、プライドの高い男……
――と、計り知れない人の心の分析を何故かしているわけだが、そのようなことは僕にとってどうでもいい。本当にどうでもいいことなのだ。
ここ最近はなぜか熱に浮かされそうになりかけることが多いような。
界と麴森の仲がますます険悪になることは、界の言葉の裏側は、そうして招かれる結果は、僕にとって心底どうでもいいこと――――そのはずなのに、「彼ら二人を線で結べ」と知らぬ何かが囁きかけてくるのだ。
どうやら二人の化学反応を期待しているような悪魔がいるようだ。
香流のことだってそうだ。
香流の問題を解決してしまおうという悪魔が無性に沸き立たせてきた。
多分、僕の中のどこかの何かにヒビが入っているのだ。
そしてそのヒビから変な熱が入り込んできているんだ。
しかしそれさえ僕にとっては大したことではない。
どこかがおかしく、悪魔がいるのは解っていれば、捕まらなければいい。それだけだ。
そう、自分に言い聞かせて麴森の方を一度見遣ってから、彼の前を去る。
「結江。何となくお前たちの共通部分、見えてきた気がするぜ。まだそれが何かは解っちゃいねぇが、いつか、絶対、俺はお前らを見返してやるからな」
ここで僕は「そうか」と一言だけ返せば良いのだ。なぜなら僕には関係のないことなのだから。
見返すも何も、界は知らないが、僕は麴森のことは認めているし、どんな対極の二人を抽出してもどこかしらに共通点はあるものだ。
――なのに僕は麴森の言葉を態度では『無視』を選択するしかなかった。
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