溺れる子、溺れない子

水族館に人魚姫はいない



 待ち合わせは水族館前、11時30分。お昼ご飯は近くのカフェで、なんてぽんぽんと決まってしまって、テストも問題なく終わって、気が付けば当日になっていた。

 昨日の夜、この夏に着ようと決めていた麻の黒地のワンピースと真っ白なサンダルをクローゼットから出した。

 ジャンパースカート風のワンピースの裾には青い鳥が一羽刺繍されている。名前も知らないブランドのタグはスカートの縫い際にひっそりと誰にも見られないように縫い付けられていてシンプルで私好み。一目惚れして少し高かったけれど即決で買った。

 中に着ている白シャツも薄手のものを選んだ。最高気温が30度を上回ったりしていることを踏まえれば当然だと言いたい。

 久しぶりに誰かと遊びに行くのだと思うと気分が上がって昨日は寝つきが悪かった。あくびを噛み殺しながら日陰を探す。

 伸ばしている髪は風に吹かれて自由に踊る。梅雨明けの休日は人気者で、登下校途中の車窓から眺める限り人のいなかった公園にはたくさんの人が集まって明るい騒がしさを保っている。

 真っ黒なスマホの液晶画面を鏡にして自分の顔を確認すれば、アイシャドウは微かにラメが反射して、目元を煌めかせていたし、耳もとでは蜂蜜色のイヤリングが揺れていた。スマホをバッグに突っ込めば駅の方面から見知った人影が向かってくる。

「カレン、ごめんね待たせた」

「いいよ、私もさっき来たところだし」

 ミチが少し息を切らして謝るのは、集合時間に遅れたことにではなくて、私よりも先に集合場所にいなかったことなのだろうと思った。いつも時間ギリギリ行動の多い私のことをわかっていて、この時間にきたんだろうなと思いながら、笑った。

 11時25分を指す、左腕につけた腕時計は学校でつけているベルトと違うものにした。革地のベルトは久しぶりの出番に喜んでいることだろうと思う。

「暑いから早く入ろう」

「あはは、そうだね」

 チケット売り場では学生証の提示をお願いされて、お互いに自分の顔を隠して財布から取り出した。返されるときに無残にも二人の顔を並べて置かれてしまったときはすごく気まずくて私もミチも笑うしかなかった。

 館内は冷房がしっかり効いていて、少しだけ肌寒く感じたけれど、とはいえ気にするほどでもなかった。

 薄暗い館内は水槽だけが浮き上がっているみたいに見えて、幻想的だった。閉じ込められている生き物たちを可哀そうだと思うよりも先に、ただ、綺麗だなと思った。上からスポットライトを当てられた主役たち。みんなこの一興のために演じているんだろうかなんて考えて、すぐに馬鹿らしくなる。

 この生き物たちにあるのは拒否と肯定のみのはずだ。演じる、とかそういうものはきっと存在もしていない。哺乳類なら存在してるかもって言えたのだろうか。

 数の減っていく生き物たちの保存と称された展示物に可愛げはない。ぼんやりと生きている物体を眺めて歩いていく。隣を歩いていたミチは気が付くと隣にはいなくて、少し先の大水槽の前に幼稚園児くらいの子どもたちと一緒に座っていた。

 隣に座って声をかければ、ミチは目に青色を反射させたまま何、と答える。ガラスの向こうには私とは違う呼吸法で私とは違う視界で生きている生物ばかりの世界があって、ミチはその世界にしか興味がないみたいだった。

「どこに行ったのかわからなかった」

「ああ、ごめん。私ここが好きで」

 あのね、そう続けて弁明するようなふりをして、自分の好きな魚の話をし始めたミチは私の方を一度も見なかった。


 昔、人魚姫になりたくて、何度も水族館に連れてきてもらっていた。数えてしまえば、10年前のことになることを考えれば水族館なんて行ったこともないのと同然な気がする。

 大水槽の推定純度100パーセントな青色にサンダルも染まってしまって、反射する光の中に魚の影が映る。下の方に集まる魚はみんな小さなものばかりで、大きな魚がやってくればすぐに散り散りになってしまう。誰よりもかわいそうな魚たちだと言ってしまいたかった。


 散り散りになってはまた集って、まるで何かに怯えるみたいに。私と一緒だね、そう言えたらラッキーで、あいにく私はそこまで優しくも慈しみ深い人間でもない。私はかわいそうなんかじゃないから。

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