捕まる、絡まる
ワダさんのことを知らない、と言ったのは半分だけ嘘だった。
私は1年4組の
私の知っている和田満知は、先生からの覚えもよくて、よく笑う人。それから同級生にも好かれていて、人気者。隣のクラスの笑い声にクラスメイトが「またミチがうるさい」と苦笑いしていたから、なんとなく知ってはいた。
でもそのくらいで、それだけしか知らない。だから私は彼女を知っているけれど、私は和田満知を知らない。
切りそろえられたまっすぐな髪が動くさまも、薄い一重から覗く鳶色の虹彩が揺らめくのも、私が知っている和田満知はあの姿だけなのだ。
たとえあの子が人殺しだったとしても、私は人殺しの和田満知が存在しないのだと思うのと同じように。ああ、でも万が一、それこそ億が一、あの子がとんでもないことをしでかしていたりしたならどうしよう。
明日にでも駅前の銀行に強盗しに入って、奪った大金を神社の森のところに埋めに行っていたりしたら。お母さんのお兄さんにお母さんも、自分も暴力を振るわれていて今朝そのお兄さんを殺したばっかりだったりとか。自分で考えた適当な例えに振り回される。
でもそういうことがあったとしても、それをした子は、私が知っている和田満知ではないんだろう。
そんなことを考えていたのも四限目の現代文の授業中だけで、五限の最初に提出らしい課題の存在を知ったその時には彼女のことなんて一瞬のうちに思考から消え去ってしまっていた。
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電気のついていない、マリア像がある部屋。窓から入ってくる光が埃を浮き彫りにしながらあの子の手元を照らす。文字を追っているのがわかったけれど、うつむいているせいで顔はよく見えなかった。
わたしとあの子の二人だけ、モノトーンの世界。音のひとつも響いてこないのに、あの子は私に気が付いたのか本から顔を上げてこちらを見て笑った。
あの子の目が私の心臓を掴む。わたしはもうどこにも行けないような気がして、立ちすくんだまま、ただ本を読み始めたあの子を眺めた。
空を雲が覆いだしたのか、部屋には影が濃く充満していく。生温い生き物みたいな水がどんどんと足を飲み込みはじめた。慌てて足を引き上げようとした瞬間、水位が上がって頭以外は全部気味の悪い影の中に飲まれてしまう。口元まで覆いはじめた影から逃げるように顔を上へと向けた。耳が影に触れる。昔行った海で溺れたことを思い出して、死んでしまうかもしれないって肺が震えだすのを感じながらわたしは必死にもがいた。
喉も鼻の奥も目の隅々までひたすらに痛くて、息苦しい。頭がガンガンとなり続けたままで、必死に動かす腕の傷口に痛みが広がる。
助けてって叫んでいるのにこっちを見てもくれない、切れ切れに見える海の向こうのどこにもいないパパも、全部全部嫌だ。青い空がこっちを見ている。あの子も見ている。揺らぐ視界のなかで、あの子だけは鮮明に見えた。
もう幼くもないのに、私は私のことをわからないままでいる。溺れていたのは、誰?
目に見えないものを信じられるほど、目に見えないものに救われたことがない。
愛とか、そういうものだって、幸せとかいうものにさえ。
目を開けて身体を起こした。朝の四時半、ワイヤレスイヤホンのバッテリーは残り20パーセントを切っている。
左耳にだけついたままのイヤホンはもう死んでしまったアーティストのラップを吐き出していた。
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