第83話 手掛かり (レクター・ウェイン視点)

「ここも、違うな……」


 ラッドが船室の扉を閉めながら、嘆息を落とす。つられて、胸の奥から押し出されるように、長い息が零れた。



 ロウブリッターが寄港するなら、ジュランビルかメイデイランドではないか、と当たりを付けた。ジュランビルを第一騎士団が、メイデイランドを自分たち第二騎士団が張り込んでいる。他の港町にも、第一騎士団と第二騎士団の人員を割き、張り込ませていた。


「……ごめん、本当、ごめん……」


 捜索を終えた船を後にしながら、もう何百回、聞いたかわからない言葉を、オデイエがまた呟く。言わずにいられないのだろう。


『あいつ、変装してた。中身は若い男。灰色の瞳で、陽炎が立ってた。コソ泥じゃない、只者じゃなかった。……見た目に騙されて、油断した。……ごめん』


 丸一日以上眠り続け、目覚めた時、オデイエは言った。日を追う毎にその顔色は悪くなり、苦悩を刻む眉間の皺は濃くなる。


「……大丈夫、無事でいる。なんたって、あの令嬢は、俺達の裏だってかいた。今頃きっと、ロウブリッターの裏もかいてる」


 キャリエールが努めて明るい声を出し、オデイエの肩を叩く。

 食事も睡眠もろくに摂れていないのだろう。焦りを浮かべるオデイエの顔は、やつれて見えた。


「……大丈夫か? 調子が悪いなら休め。ロウブリッターの声と眼を知っているのは、お前だけだ」


「……大丈夫、倒れたりしない」


 琥珀の瞳だけは、ぎらぎらと光る。


「次の船に行こう」


 ラッドの言葉に、頷く。


 もし、どこかに寄港しているなら、とっくに港に着いているはずだった。


 ロウブリッターに用心されぬよう、騎士の制服を脱ぎ、私服姿で市民を装って潜伏した。港に停泊する船は、全てくまなく捜索している。

 


(なんで、いない?)



 額を押さえると、耳の奥で、何度も何度も聞こえる声がまた響く。


(どっかで、間違えたんじゃないのか?)


(遠い、手の届かない場所に、連れ去られたんじゃないか?)


(もう二度と、会えないんじゃないか?)



 §




 夜、無理に眠ろうとすると、決まって同じ夢を見た。



 夢の中で、俺は、伯爵邸の裏口に停めた馬車の前に立っている。


『時節柄、物騒なこともありますので、どこへ行かれるのにも必ず共をするように、との公爵からの指示です。お送りいたします』


 目の前に立つ、黒いフードを目深に被ったリリアーナの表情は読み取れない。

 フードの下に覗く肌は透き通るように白く、唇は不安げに結ばれる。


 夢でもいい。会えたことで、心は浮き立つ。


 だが、夢の中の彼女はひどく心細そうだった。


『大丈夫だから。俺は、貴女を傷つけたりしない』そう言って安心させたいのに、声は出ない。


 やがて、リリアーナは気が進まない様子で、鷹の紋章がついた馬車に乗り込む。


 馬車の中、はす向かいに座る、彼女を見る。不安げに唇を結び、顔色が悪い。

 細い肩に触れ、その不安を取り除きたいのに、体は動かない。


 何か思い付いたように、こちらを向いて、おそるおそる、バラ色の唇は開かれる。


「あ、あの、ウェイン卿」


 問いかけられ、俺は、あの晴れた夜空みたいな瞳を隠したリリアーナを見る。


「―――――――――――― ?」


 唇は開かれ、何か言葉が紡がれているはずなのに、その声は聞こえない。


 凍った心を甘く溶かしてしまうあの声が、聴きたくて堪らないのに。

 必死に耳を澄ますのに、声は何かに遮られているかのように、かき消えてしまう。


 俺はその質問に答えたくてたまらない。答えなくては、早く、答えなくては、でないと、また、手遅れになる。そう思って、焦るのに、声は出せない。


 リリアーナはしばらくこちらを向いていたが、やがて落胆したように小さく息を吐くと、唇を引き結び、顔を窓の外に向けてしまった。


 それは、ひどく心細そうで、胸が張り裂けそうになる。


 大丈夫だ。この後、この馬車は止められる。グラミス伯爵家の馬車が、道を塞いでいるから。そして、貴女は伯爵婦人とその息子を救うことになる。だから、何も不安に思うことはない。



 夢の場面は、突然、騎士団の食堂に切り変わる。


 ラッドが隅のテーブルで一人、背を向けて朝食を摂っている。その背は、誰も話しかけるな、と語っていた。

 別の離れたテーブルにオデイエがいた。同じテーブルの少し離れた席にキャリエールが座る。二人とも一瞬、目を合わせただけで、面白くもなさそうに黙々と食べ始める。

 すれ違う他の騎士たちも、軽く顎を下げ会釈を交わすくらいで、会話のようなものはない。


 ああ、そういえば、これが普通だったな、と思い出す。二年前、ロイ・カントやヘルツアスがいた班が戻らなかった。それからは、もうずっと、こうだった。

 最近、やけに話し掛けられることが多かったから、忘れていた。


 誰とも離れた席に座り、味のしないサンドイッチにナイフを入れる。

 ノワゼット公爵が、機嫌が良さそうに笑みを浮かべて、食堂に入って来た。俺を見つけると近付いてきて、隣の席にすとんと座る。鳶色の瞳を三日月型に細め、声を潜めて口を開く。


「昨日はご苦労だったな」


 何が?


「これで、ブルソール派の奴らも、思い知るだろう。噂の方は、放っておいても勝手に出回るだろうが、念のため、こっちでも手を回しておく」


 一体、何の話をしているんだ? 意味がわからない。


「カマユーが言うには、アリスタとかいう若いメイドが一人、令嬢が帰って来ないと言って騒いでたらしいが、まあ、問題ないだろう」


 ―――しかし、あんな魔女みたいな娘でも、心配する人間の一人くらいはいるもんなんだな。



 公爵の明るい声が、やけに遠くから響いた。



 どこをどう走って辿り着いたかも分からぬまま、深い森の中、俺は馬から飛び降りる。


 日の光さえ遮る、鬱蒼と太く高く生い茂る木々。湿り気を帯びた冷たい地面には大木の根と苔が蔓延る。


(……昨日、ここに来たか?)


 いや、そんな筈ない。馬車は林道で止められた。先には進めなかっただろう?



 だが、身に覚えのない記憶通りの場所に、彼女は、いた。


 黒いフードを深く被る顔だけを微かに横に向けて俯せたまま、力なく横たわる姿を見つけた瞬間、ひゅっ、と喉が鳴る。

 渇きすぎた喉の奥は張り付いて、声が出せない。


 駆け寄って抱き起こした瞬間、手に触れたぬらりとした感触に、ぎくりと左胸が鳴る。


 触れ慣れた、よく知った感触。


 彼女の左胸から流れ出たそれが、黒い外套をぐっしょりと濡らしていることに気付く。


 嘘だ。


 違う。


 そんな筈はない。


 あのとき、彼女を乗せた馬車は――、どこに向かった?


 何故、思い出せない――?


 フードに手を伸ばし、そっと外すと、風が木々を揺らした。枝葉の隙間から日の光を届け、血の気を失った白い顔を照らし出す。


 光を宿しているはずの瞳はうっすらと虚ろに開かれ、ただガラス玉のように、木々を映していた。


 薔薇の花びらのようだった頬と唇は、まるで ――、いや、違う、そんな筈ない。こんな場所にずっといたから、寒かっただろう?可哀そうに、もう、大丈夫だから。


 温めたくて、頬に触れる。ひやりと氷よりも冷たい感触を覚えた瞬間、俺の手は、ガタガタと震え出した。

 


 ――リリアーナ……?


 ようやく名を呼んで、その体を揺らすと、虚ろな瞳からぽろりと一粒、涙が零れ落ちた。

 その雫を、震える手で、必死に掬う。それを元に戻せば、何もかも全部、元に戻る気がして、必死に掬う。


 けれど、その雫は、雪のように、掌で溶けて、消えた。



 ――嘘だ……嘘だ、嘘だ、嘘だ!


 魂を失ってなお、誰よりも美しいその姿を抱いて、慟哭する声は、深い森に吸い込まれ、消えてゆく。


 なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、


 ――俺に殺させた?


 違うと言ってくれたら良かった!

 毒なんか入れていないと、そう言ってくれたら良かった!


 そうしたら……


 ああ、そうだ……



(なら、こっちから会いに行けばいいじゃないか)



 もう一度、その声で、この名を呼んでもらえるなら、もう一度、その瞳に映れるなら、もう何も、いらないんだった。


 そう思って剣を握り、自分の左胸に突き立てようとして、気付く。





 ――同じ場所になんか、逝けるはずない。



 ――俺は、光の場所へは、辿り着けない。



 あの瞳に映れたのは、ただ、清濁混在するこの世に生きる間にだけ許された、ほんの束の間の、夢だった。



 いつも、そこで目が覚めた。



 気が、狂いそうだった。



 リリアーナが連れ去られて、もう、六日も経っていた。




 §



 何をすれば良いのかもわからず、しかし、じっとしていることもできず、深く被ったフードで顔を隠し、朝のメイデイランドの町を一人で彷徨っていた。港に泊まる船は、もう全て捜索した。


(なんで、いない?)



 朝の港町は活気と喧騒に溢れていた。赤と白のストライプ模様のテントが、ずらりと並ぶ。目に飛び込んでくるのは、多彩な魚介類。ハーブを使った名産品やレース織。名も知らぬ南国の果実。量り売りのオリーブやチーズ。輸入品の毛皮。道往く人々は笑顔で会話を交わす。


 そのすべては、灰色の膜で覆われて見えた。


 人混みの中に、リリアーナの姿を探す。屋台の前で、笑っていないだろうか?家々の開いた窓の中に、その姿があるのでは?そう思ってどれ程目を凝らしても、彼女はいない。


(ロウブリッターなら、いるかもしれない……)


 ……もし居たとしても、見つけられる筈もない。奴は、変装していたんだから。


 それでも、立ち止まれない。止まるのは、諦めるってことだ。それだけはできない。



 その時、一人の男が目についた。



 最初に気付いたのは、女掏りの方だった。

 三十がらみの旅装姿の女が、市場をぶらぶらと練り歩いていた。他に気を取られている獲物を見つけると、すいすいと手慣れた手つきで財布を掏り盗り、自身の手提げ袋に入れてゆく。今の俺には、どうでも良いことだったが。


 うまいもんだな、とぼんやり思った。


 捨ておいて先に進みかけた時、一人の男が、財布を掏られた。

 掏られた男は、女掏りに何か言われ、感じ良く微笑んで頷き返し、花屋の店先に視線を戻す。視線を全く動かさぬまま、掏られた財布を、すばやく掏り返した。

 女掏り自身も、掏り返されたことに気付かずに立ち去って行く。


 男の背格好。


 歳は自分と同じくらいか、少し上といったところか。


 アッシュグレーの髪に灰色の瞳。


 オデイエが言っていた。


 ロウブリッターの正体は、灰色の瞳を持つ、若い男。

 


 男は物憂げな様子で、屋台の店先を眺めている。


 やがて、ため息をつき、踵を返すと、ゆっくりと歩き始めた。


 その後ろ姿を見据えて、自身のフードを外し、声をかける。



「おい、ロウブリッター」




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