殺し屋は忘れた頃にやってくる

神里みかん

第1話 プロローグ

 とある老人がバーのカウンターに座っている。


 ビルのワンフロアを借りきって営業しているこの店は彼のお気に入りで、程よい照明と所々に飾られているおしゃれなインテリアが落ち着いた雰囲気を味わせてくれる。音楽の演奏などはなく、じっくり何か考え事をするにはぴったりの場所だったので、老人はお酒を楽しみながらここで夕方を過ごすのが日課になっていた。


 この店は普段から多くの客で賑わうことはなかったが今日は老人以外に客は誰も居なかった。そのため店内に響く音といえば、お酒を飲むときにグラスに氷が当たる音とバーテンダーの作業をする音だけだった。老人はグラスの酒を少しずつ口に運びながら、何かを思案するように一点をじっと見つめている。あまりにも静かな店内に彼の思考を遮ろうとするものは存在しなかった。


 だが、その静寂の時間は終わりを迎える。急に入口の扉が開き、外の冷気が店内に流れ込む。肌を刺すような風を顔や手に受けて老人は驚き、その方を見た。


 そこにいたのは白髪交じりの中年男性だった。彼は足が悪いのか左足を引きずって歩き、一つ席を空けて老人の右側の席に座る。


 この店では初めて見る客だったので、老人は男が座ると気付かれぬよう注意深く彼を観察した。男は頭毛には白髪が混じっており、長い間床屋に行っていないのかボサボサだった。口の周りには無精髭が生えており、目の周りには小皺のようなものが見える。少し老けて見えるが40代くらいだろうと老人は考えた。服装はよれたコートにジーパンで新聞を左わきに挟んでおり、まるで大衆向け酒場の客みたいだった。たぶん、この店の常連ではないだろう。


 彼は脇に挟んでいた新聞をカウンターに置くと、バーテンダーに「水をくれ」と注文する。バーテンは一瞬、不思議そうな顔をしたが、すぐに水をコップに入れ彼の前に差し出した。


 彼は水で口を少し濡らすと、コップをカウンターに置いた。そして、わきに挟んでいた新聞を取り出し、それを広げて読み始める。新聞の一面の見出しは ”麻薬王にとうとう有罪判決か!?”といったものであった。


 それを見て老人は顔をしかめたが、目線を自分のグラスに戻し、残りの酒をグイッと喉に流し込んだ。そして、もう一杯飲むかどうか考えていると、急に声をかけられた。


「あんたはこの店の常連なのか?」


 声の主は横に座った男であった。


「そうだが……何かね?」


 と答える。すると、男は広げていた新聞紙から顔を出して、こちらに話しかけた。


「あまりにも外が寒いもんでね、この足だから家に帰るまでに凍死しちまうのさ。だから、この店でいったん体を温めようと思ってね。ここで会ったのも何かの縁だ。実は今日は俺にとって祝うべき日なんだ。一杯奢るから、話し相手になってくれないか?」


「別に構わないが……だが君は祝い事だというのに、バーにまで来てお酒を注文しないのはなぜかね?」


 と老人は聞き返した。男は新聞をカウンターに置いて答える。


「あんたなら経験があるんじゃないか。約束してるんだよ。酒を飲まないってね。この年になってから、いろいろと制約が多いのさ!」


 多少、男の言動を訝しみながらも、「確かにな」と老人は答えた。バーテンに「同じものを」と手元のグラスを掲げながら注文していると、またその男は話かけてきた。


「ところで、今日はどうして一人で飲んでるんだい?」


「ここで、この時間一人で過ごすのが、私の最近の日課なんだ」


 そう老人は答えると、今度は男に質問を投げかけた


「よく思えば君は今日は何のお祝いなんだね?」


「引退祝いってやつかな。俺は今日で、今の仕事を辞めるんだ」


 男はすぐに答える。


「君の歳で仕事を引退するのかね? どの仕事でもこれからが一番の稼ぎ時だろうに……」


 すると男は、「俺の仕事は若い時しか務まらないのさ」と言った後に、少し考えるそぶりを見せてから、こう答えた。


「実は、俺は殺し屋をやってたんだ……」



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る