第2部 1-1 それぞれの今

 数か月の時が流れ、季節は10月になっていた。

朱莉は部屋のカレンダーを見た。カレンダーの3週目には赤いラインが引かれている。そのカレンダーを見ながら朱莉は呟いた。


「予定通りなら・・・来週明日香さんの赤ちゃんが生まれて来るのね・・・。」


そして窓の外を見た。まだまだこの季節、沖縄の日中は暑さが残るが、夏の空とは比べ、少し空が高くなっていた。


九条とも航とも音信不通状態が続いてはいたが、今は寂しさを感じる余裕が無くなってきていた。翔からは頻繁に連絡が届くようになり、出産後のスケジュールの取り決めが色々行われた。

一応予定では出産後10日間はロシアで過ごし、その後日本に戻って来る事になる。

朱莉はその際、成田空港まで迎えに行き、六本木のマンションへと明日香の子供と一緒に戻って来る事になるのだ。


「お母さん・・・。」


朱莉は結局母には何も伝えられないまま、ズルズルここまで来てしまった事に心を痛めていた。どうすれば良いのか分からず、誰にも相談せずにここまで来てしまった事を激しく後悔している。

そして、今現在朱莉が出した結論は・・・。『母に黙っている事』だった。

 あれから少し取り決めが変更になり、朱莉と翔の婚姻期間は子供が3歳になった月に離婚するという事が決定している。


(明日香さんの子供が3歳になったら・・・今までお世話してき子供とお別れ・・・。そして翔先輩とも・・無関係に・・。)


3年後を思うだけで、朱莉は切ない気持ちになって来るが、これは始めから決めらていた事。今更覆す事は出来ないのだ。第一、翔は朱莉が自分の事を好きな事も知らないし、決して知られてはならない。

そして朱莉は今現在、通信教育の勉強と新生児の育て方についてネットや本で勉強している真っ最中なのである。


生真面目な朱莉はネット通販で沐浴の練習もできる赤ちゃん人形を購入し、沐浴の練習や抱き方の練習をしているのである。


(本当は・・・助産師さん達にお世話の仕方を習いに行きたいところなんだけど・・・。)


だが、朱莉は自分で産んだ子供ではないので、助産師さんに頼む事は出来ないだろうと思っていた。


(せめて・・・私にもっと友人が居たらな・・・誰かしら結婚して赤ちゃんを産んでる人がいて、教えて貰う事ができたかもしれないのに・・・。)


しかし、そんな事をいまさら言っても始まらない。そして今日も朱莉は本やネット動画などを駆使し、申請時のお世話の仕方を勉強するのであった。



 


東京―六本木のオフィスにて


「翔さん、病院から連絡が入っております。まだ出産の兆候は見られないとのことですので、予定通り来週ロシアに行けば恐らく大丈夫でしょう。」


姫宮が書類を渡しながら翔に言った。


「もう書類の準備はすんでおりますし、帰国後の日本での戸籍届の準備もすぐ行えるようにしてあります。後・・・帰国の時期ですが、やはり新生児は出産後7日間は飛行機に乗せる事は不可能です。私としては出生後10日を目安に日本に戻られてはいかがかと思っております。」


「そうか・・・。やはりすぐには動かせないのか・・・。子供の事も勿論だが、今一番問題なのは明日香の方なんだ。出産が近づいているせいか、最近精神状態があまり良くないらしい・・不安定になってきているんだ。俺としては・・いっそ朱莉さんをロシアに行かせて、明日香に付き添いをしてもらいたいと思っているんだ。不思議な事に明日香はあれ程朱莉さんを毛嫌いしていたのに、妊娠してからは変化があったんだよ。どうも朱莉さんの事を・・信頼しているように感じるんだ。だから・・・。」


言いかけたところを姫宮が言った。


「翔さん、お言葉ですが・・・朱莉さんをロシアに行かせるのはどうかと思います。彼女と連絡を取り合っていますが、今現在日本で明日香さんのお子さんをお迎えするにあたり、準備に追われています。日本に連れて帰れば今後全てのお世話を朱莉さんが1人でするのですから、これ以上負担はかけさせるのはいかがかと思いますが?」


「あ、ああ・・・やはりそうか・・。それなら君の意見に従うよ。」


姫宮のきっぱりとした意見は翔の浅はかな考えをへし折るには十分であった―。


「明日香さんの事も重要ですが、一番問題なのは会長と社長への説明です。会長に子供が出来た報告を一度したきりですし、何故もっと早くに朱莉さんに子供が出来た事を報告しなかったのかとお怒りになってらっしゃいますよ。この分だと日本に帰ってくる可能性もありますが?」


「ああ・・・そうだ。そんな事は分かっている。会長には朱莉さんの体調が悪くて入院したことにしているから・・・朱莉さんもその話を合わせないとならない。」


「生まれてきた子供は当然朱莉さんには全く似ておりません。・・・会長に疑われて、くれぐれも生まれてきた子供がDNA鑑定に掛けられないように・・最新の注意を払わなくてはなりません。決して会長の前では子供から目を離さないように心掛けて下さい。」


姫宮の言葉に翔は溜息をつきながら、頷いた―。



 

 その日の夜の事―


朱莉のスマホに個人用の電話が突如かかって来た。相手は京極からであった。


(え・・・?京極さん・・・?いつもならメールをして来るのに、電話なんて珍しいな・・・。)


正直に言えば、未だに京極の事は姫宮の件や航の件で朱莉はわだかまりを持っている。出来れば電話では無く、メールでやり取りをしたいところだが、かかってきた以上は出ないわけにはいかない。


「はい、もしもし・・・。」


『こんばんは、朱莉さん。今何をしていたのですか?』


「え?い、今ですか・・・。ネットの動画を観ていましたが?」


朱莉が観ていた動画がは新生児のお世話の仕方について分かり易く説明している動画であった。


『そうですか、ではさほど忙しくないって事ですよね?』


「え、ええ・・・まあそう言う事になるかもしれませんが・・・?」


『朱莉さん。これから一緒にドライブにでも行きませんか?』


「え?ド、ドライブですか?」


京極の突然の申し出に朱莉はうろたえてしまった。今まで一度も夜のドライブの誘いを受けたことが無かったからだ。


(京極さん・・何故突然・・?)


しかし、他ならぬ京極の頼みだ。断るわけにはいかない。


「わ、分かりました。ではどうすればよろしいですか?」


『今から30分くらいでそちらに行けると思いますので、マンションのエントランスの前で待っていて頂けますか?』


「はい。分かりました。」


『それではまた後程。』


用件だけ告げると京極は電話を切った。朱莉は溜息をつくと思った。


(京極さん・・・・本当は何か大切な話が合って、私をドライブに誘ったのかな・・・?)



30分後―


朱莉がエントランスの前に行くと、そこにはもう京極の姿があった。


「すみません、お待たせしてしまって。」


「いえ、僕もつい先ほど着いたばかりなんです。だから気にしないで下さい。さ、では朱莉さん、乗って下さい。」


京極は助手席のドアを開けると朱莉に言った。


「は、はい。失礼します。」


朱莉が乗り込むと、京極はすぐにドアを閉め、自分も運転席に座ると言った。


「朱莉さん、夜に出かけたことはありますか?」


「いいえ、滅多にありません。」


「ではアメリカンビレッジに行きましょう。夜はそれはとても美しい景色に変わりますよ?一緒に観覧車に乗りましょう。」


「観覧車・・・。」


その時、朱莉は航の事を思い出した。航は観覧車に乗りたがっていたのに、お酒を飲んでいた為に乗ることが出来ず、残念がっていた事・・・。そしてまた今度2人で来ようと約束したのに、叶う事が無かったこと・・・。


航くん・・。


朱莉は再び航の事を思い出し、切ない気持ちが込み上げてくるのだった―。


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