落ちこぼれ天才竜医と白衣のヒナたち【先行公開】

林星悟/MF文庫J編集部

プロローグ 竜災

 ひときわ大きく、大地が揺れた。

 打ちっぱなしの天井から細かな破片が降り注ぎ、落雷と紛うような轟音ののち、砂礫と粉塵が雨のように窓を叩く。そう遠くない距離で、高層家屋の類が倒壊したのだろう。

「……大丈夫」

 いつ頭上のコンクリートが自身に襲い掛かるとも知れない恐怖の中、逆流する胃液を無理矢理に呑み込み、自らに言い聞かせるようには口にした。

「大丈夫。あなたは、必ず僕が助ける」

 とある市街地の一角。剥き出しのコンクリートが囲う八畳間ほどの空間。

『医者』と『患者』が、そこにいた。

「ウゥ、ゥ……」

 手術台と呼ぶにはあまりに質素な木机、そこに横たえられた患者の底知れない不安がそのまま漏れ出したかのような低い低い唸り声。医者の少年はその不安を鎮めるように、丈の余った白衣と同じ色をした患者のを優しく撫でる。

 すると患者は応えるように、弱々しくも、翼膜の先端で少年の頭を器用に撫で返す。震えが伝わったのだろうかと、少年は医者としての不甲斐なさを恥じた。

 患者は、である。

 三十年ほど前、ここ日本より遠く離れた無人島から海を渡り訪れた、爬虫類などに似た未確認生物。その生態にはまだまだ未解明の部分が多いが、特に野生の個体は共通して性質がある。

 ゆえに、そんな竜を診察、治療する医師……『竜医』は、彼ら竜の警戒を受けないにしか務まらない。当然、ここで患者に相対する医師も、その例に漏れない。

 少年──ひなわかとらは、齢わずか十二の竜医であった。

 世間的には小学生。竜医としては決して珍しくはない年齢だが、それでも小さな子供が竜の巨躯を触診し治療する様は、一般人からすれば異様な光景に映るだろう。

 しかしわかとらはこれまで数々の竜たちの怪我や病気を治してきた凄腕の竜医。それも同世代に二つと並ぶ者無しとまで言われた神童。紛れもない天才であった。

 この場に彼が呼び出され、白く美しい鱗を持った竜の治療を任されたのは、ひとえに彼が天才だったからだ。他の竜医たちがこぞって頭を捻っても病原さえ特定できなかった患者を、天才竜医・ひなわかとらなら治せると誰もが期待したから。

 だが、わかとらは未だ白竜の苦痛の原因を特定できずにいた。

「……時間がない」

 誰にともなくそう呟いた瞬間、爆音と共に窓が割れ、熱風と黒煙が室内に吹き込んだ。

「っ、げほっ、げほっ!」

 喉が焦げるような痛みにむせ返りながら、わかとらは白衣を脱いで患者の頭に被せた。室内を満たした煙を逃がすため、割れた窓とは反対側の扉を半ば蹴破るように開け放つ。

 季節は夏。しかし肌を焼く熱気は、七月の日差しによるものではない。

 街が、燃えていた。

「もう、あんなに大きく……!」

 曇天に翻る巨影を見上げ、わかとらは顔を曇らせた。

 燃え盛る息を吐き、翼は突風を巻き起こし、怪獣映画さながらの惨状を繰り広げるその真っ黒な影は、患者の白竜と同じ形をしていた。

 基本的に、竜は温厚で、聡明で、自ら破壊を振り撒くような暴力性を持たない生物だ。では今まさに大地を灼き崩さんとしている竜の形をした怪物は、竜でなくて何者か。

 これは竜の特筆すべき生態のもうひとつ、『竜影ガスト』と呼ばれる現象もの

 竜が病気や怪我を負った際、強い苦痛が基となって実体化し、苦しみのままに暴れ破壊の限りを尽くす黒い影。度重なる地鳴りや爆風は、全てこの竜影ガストがもたらしたものだ。

 力の奔流に引き寄せられたか、あるいは災禍より逃れ損ねたか。灰色の空いまだ飛び交う竜たちが、一匹、また一匹と火風に打たれ灼熱の大地に墜とされていく。

「早く、しないと……」

 患者の元へと踵を返したわかとらの胸で、ふいに携帯電話スマホが振動した。

 わかとらの所属する病院からの電話だった。大方、ことに対する叱責だろう。今は患者を優先すべく、電源を切ろうとポケットから取り出したその時、再び爆音と共に地面が大きく揺れた。

『あ……っ、やっとつながった! もしもし、トラくん!?』

 はずみで通話ボタンをタップしてしまったらしい。電話の向こうから聞こえてきた悲鳴にも似た少女の呼びかけに、わかとらは小さく呻きつつも律義に応じた。

「もしもし、あか姉ぇ」

 あだ名で呼び合う通話先の少女は、つい数時間前までわかとらと共に白竜の診察にあたっていたひとつ年上の竜医、つるあかわかとらが最も信頼を置くパートナーだ。

「病院から掛けてきてるってことは、無事に避難できたみたいだね。良かった」

『良かった、じゃないよぉ! トラくん、今どこにいるの!?』

「……患者の所だよ」

『うそ……ど、どうしてまだ避難してないの……!』

 答えるまでもなかった。わかとらが、目の前で苦しむ患者を捨て置いて避難できるような竜医ではないことなど、相棒の緋音が一番よく知っている。

ひな医師……何故、撤収指示に従わなかった』

 電話口の声が、言葉を失った緋音から大人の男性へと変わった。わかとらの所属する竜医団の統率役だ。その声音は冷静なようでいて、どこか激情に震える響きを含んでいた。

「すみません。目の前の患者の命を優先しました」

『……キミはもっと賢明な医師だと思っていた。五分……いや十分待て。救助を回す』

「いえ、来ないでください。ヘリは撃墜されます。救急車も瓦礫で進めません」

『だったら、這ってでも、離脱しろォッ!』

 それまで平静を装っていた統率役の声が怒号に変わる。

『そんな極限状況の現場で、キミ一人に何ができる! 大人しく諦めて、一刻も早く戻ってこい! でなければ……!』

 でなければ。

 その先を口にするのが憚られたのは、すぐ傍に緋音がいたからだろう。

 わかとらの認識とも相違は無かった。このまま竜影ガストが肥大を続ければ、周辺一帯はひとたまりもない。ここを爆心地とした大破壊が発生し……生身の人間など、間違いなく死ぬ。

 打開策はただひとつ。

「大丈夫です。患者は僕が治します」

 白竜の治療を完遂することだ。

 竜影ガストが「病を患った竜の苦痛から生まれる」ということは、すなわち発生源となった竜の病気を治せば消失することを意味する。被害を広げながら今もなお肥大化を続ける漆黒の脅威は、わかとらが白竜を治療さえすれば文字通り影のように消えてなくなる。

『……一体どうやってだ』

 ただし、それは治療法がわかっていればの話。

『患部は。病因は。掴めたのか。他の誰にもわからなかったからキミが現場に呼ばれた。そのキミには、患者の治療方法はわかったのか』

「……まだです。これから見つけます」

『数時間かけて見つからなかったものが、あと五分や十分で見つかるのか。見つかったとして、その治療をキミが一人でこなせるのか』

「それは見つけてから考えます。ただ、こなすしかありません」

 だってそうしなければ、目の前の患者は死んでしまう。竜影ガストの攻撃を受けて怪我をしたたくさんの竜たちと、そしてちっぽけな医師ひとりの命を巻き込んで。

『……悪いことは言わん。すぐに治療を打ち切って離脱しろ。今ならまだ……』

「患者を諦めるのは、僕にとってです。……すみません、診察に戻ります」

 何に対しての「すみません」だったのか、発言したわかとら自身にももうわからなかった。室内の患者に向き直り、通話を切ろうと画面に指をかける。

『……いいから、逃げなさい』

 あかとも、統率役とも異なる声。低く、重く、身体の奥底までずっしりと響くような、荘厳な響きを持った声が聞こえた。

『君は最高の医師なのだろう。その君に、病の原因がわからないのであれば、きっと誰にもわからない。だから誰も君を責めたりはしないし、できない』

「責めるとか、そういう問題じゃ……!」

 失敗を認めたくないから意固地になってここに残っているわけではない。非難されたくないから死力を尽くしているわけではない。

 ただ、わかとらは竜医として患者を助けたいだけだ。

『君は若い。今ここで、ひとつの命のために全てを投げうつより、生き延びて、この先もっと沢山の命を救うべきだ。誰もがそれを望んでいる。拒んでいるのは、君一人だけだ』

「……イヤだッ!」

 わかとらは吠えた。冷静で聡明な医師の顔はもはや無く、その叫びはまるで年相応の子供の我儘のようだった。

「他の誰かにとっては、諦めてきたたくさんの命のひとつかもしれない。けど、僕には、今! 目の前にいる患者の命なんだ!」

 ここで患者を救えなかったら、自分が今、何のために竜医としてここに立っているのかわからない。

『強情だな』

「何とでも!」

 煙の残る室内を手探りで進み、患者の頭に煙除けに被せてあった白衣を取り去る。

 その表情からは、すでにほとんど生気が失われていた。


『だが……時間が来てしまったようだ』


 冷たく告げられたタイムリミット。

 建物の天井越しでも、大気が急激に熱を帯びていくのがわかった。

 極限まで肥大化した竜影ガスト

 その漆黒の身体にヒビが入り、裂け目から強い光が漏れる。

 まるで星の終焉。超新星爆発。

 止め処を失くしたエネルギーが、全てを焼き焦がす炎となって、


 ──爆ぜる。


「……ご覧ください! 先程の爆発から既に三時間が経過しましたが、現場は今もなお炎に包まれています! 街はもはや、原形を留めておりません!」

 カメラを片手に瓦礫の山を進む、命知らずのジャーナリスト。

 凄惨な現場を嘘偽りなく映す瞳が、黒煙の中にひときわ輝く白い影を捉えた。

「あれは……何でしょう? ちょっと行ってみます!」

 崩れそうな足場を乗り越えて近づく。影は大きな、大きな白い竜だった。

「……竜だ。白い竜……珍しいですね。ピクリとも動きませんが……」

 既に事切れているのか、とカメラを背けようとした時。

 微かで、弱々しい息遣いが、どこかから聞こえた。

「……? い、今のは?」

 声を止め、耳を澄ます。音は白竜の身体の中……いや、その大きな翼でから聞こえてきていた。

 翼を押し広げ、中を確認する。

「……ぁ」

 そこにいたのは、震えながら白衣を抱きしめる少年だった。

「……!? い、生きてます! 生存者です! っじゃなくて、やばいっ、救急車……いや救急ヘリ……!?」

 生存者、という言葉に反応した少年が、震えながら白竜の翼に手を伸ばす。

 生命の温もりは、失われていた。


「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ッ!!!!」


 喉を灼き、胸を裂くような、声にならない悲痛な叫び。


 一体の竜影ガストによって、都市ひとつが丸ごと壊滅し。凄惨な映像と少年の慟哭を通じて、全国民の記憶に強烈に刻み込まれたこの事件は、のちに。

 竜医・ひなわかとらによる……『竜災ドラグハザード』と呼ばれる竜医界最大の汚点として、人と竜の歴史に、深く大きな傷跡を残すこととなった。

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