第一話 来店




「──いらっしゃいませ」


 突如として響いた声は、高すぎず、低すぎず、ちょうど良い音程の声音だった。

 慌てて振り返れば、カウンターの奥に小柄な姿があることに気づく。 長く艶やかな黒髪に、海のような青さに彩られた瞳。それらを持つ人物は、まだ幼さを残す少女だった。


 どことなく、子供のようなあどけなさを残した雰囲気の、少女。

 腕にモフモフとした小さな毛玉を抱いているが、果たしてあれはなんなのだろうか……。


「本日はどのようなご用件でしょうか?」


 貼り付けられた笑み。

 いわゆる営業スマイルを浮かべ、少女は問うてくる。


「このような寂れた地に、お一人でいらっしゃるお客など珍しい。何か急なご用ですか?」


「え?」


 そこで気づいた。先ほどまで共にいた男がいなくなっていることに。


 慌てて辺りを見回す。

 しかし、視界に写るのは様々な大きさの瓶と棚。あとは不思議な空気を醸し出す店内だけだ。人と呼べる姿をもつ者は、俺と少女以外見当たらない。


「……え、っと」


 おかしい。一体何がどうなっているのだ。

 もしや今まで見ていた男は幻か何かか?いや、それにしてはやけにリアルだったような……。


 俺は後ろ頭を掻きながら、不思議そうな顔の少女に対し曖昧な笑みを浮かべて見せる。


「ご、ごめん。俺、なんか勘違いしてたみたい……」


「勘違い、ですか?」


 少女はこてんと首を傾げた。


「あ、うん。そう。さっきまで誰かと話してた気がするんだけど、幻だったっていうかなんていうか……」


 大の大人が自分より明らかに年下であろう少女に一体何を言っているのだろうか。自分で自分を情けなく思いながら、チラリと背後にある深い緑色の扉を視線だけで振り返る。


「ここに来るまでにもやたらと壊れた建物があったし、空は真っ赤だったし……きっと幻覚でも見てたんだな」


 はぁ、と一つため息を吐き出す。

 確かにここ最近会社勤めをキツく感じていたのは事実なのだが、まさかこのような変な幻覚まで見てしまうとは……。

 いやはや、末期である。


「お客様は、大変混乱しているようですね」


 落ち込む俺を見てか、少女は可憐に笑う。

 かと思えば、徐に腕に抱えていた毛玉をカウンターの上へと置いた。その際、毛玉が小さく震えたような気がするのは気のせいなのかどうなのか……。


「お客様。ハーブティーなどいかがですか?あたたかいものを飲めば、少しは気分も落ちつくかと」


 やんわりとした物言いの少女に、俺は苦笑混じりに頷くことしかできなかった。

 少女がぺこりと一礼して奥の部屋へと消えていく。恐らくハーブティーを用意しに行ってくれたのだろう。


 気を使わせてしまった……。

 しかも確実に年下であろう女の子に……。


 少女の姿がなくなったのを確認してから、もう一度ため息を吐く。


「何をやっているんだ俺は……」


 いや、本当に何をやっているんだ。

 もう三十にもなるってのに仕事の疲れのせいで変な幻を見てそれに惑わされて。情けないったらありゃしない。

 片手を腰に当て、もう片手で額を抑えて天井を仰ぐ。今の俺は、やるせない気持ちでいっぱいだ。


「明日も仕事だってのに……」


 俺は会社勤めのサラリーマン。

 仕事をして、稼いで、寝て、飯食って。そんな生活をしている、ごく一般の成人男性だ。

 もちろん明日も仕事が控えている。しかも明日は確か、朝っぱらから大手企業に赴かなければならなかったはず。


 しっかりしないと。

 大切な商談はもう目の前まで迫っているんだ。


 そんなことを考えていると、ふと足元に何かがぶつかっていることに気がついた。なんだろうかと視線を下へ。

 そうすることにより、視認できた俺の足元。そこにあったものを見て、たまらず甲高い悲鳴を上げる。


「うきゃぁああ!? 毛玉ぁあああ!?」


 女性顔負けとはこのことだ。


 自分でもよくわからない悲鳴と単語を上げ、急いでその場から飛び退いた。同時に、いつの間にか俺の足に体を寄せていた毛玉がサッと後退する。


「わふっ」


 可愛らしい鳴き声があがった。


 ……ん?わふ?


 思わず毛玉を凝視。そのまま冷静に観察する。

 モフモフとした漆黒の毛。そこから覗く小さな耳と愛らしい顔立ち。少し長めの尻尾をブンブンと振り回すその姿はどこかで、というかかなり見覚えのある生物を俺の頭の中で連想させてくれる。


「……犬?」


 恐る恐る、震える指で毛玉を指差しながら問うてみる。


「わふっ!」


 毛玉は同意するように元気に鳴いた。マジか。


 不覚にも、犬を未知なる生物と勘違いして変な声をあげてしまった自分を、今すぐどこか深い穴の中に突っ込んでやりたいと思った。それほど恥ずかしい気持ちで満たされているのだ。悟ってくれ。

 たまらずぎこちない笑みを浮かべる。

 犬は小さな口を開け、ヘッヘッと口呼吸を繰り返しながら、キラキラと輝く赤い眼を俺に向けていた。


 そんな目で見ないでくれ頼むから。

 純粋すぎて俺には耐えられない。


 バカげた言葉を心の内で告げ、両手を差し出して寄ってきた犬を抱え上げる。

 人に慣れているのだろう。抱き上げても随分と大人しい。


「……おや」


 声が聞こえて顔を上げた。そのままカウンター奥にある扉の前に視線をやれば、そこに銀色のトレーを手にした少女を発見する。

 どうやら戻ってきたようだ。少女は柔らかな笑みを浮かべたまま、カウンターの上にトレーを置く。


「クロと仲良くしてくださっているんですね。ありがとうございます」


 クロ、とはこの犬の名前だろうか。

 俺は笑みを浮かべてカウンターの近くへ。少女に犬を手渡した。


「かなり人慣れしてるみたいだね。抱き上げても全然嫌がらない」


 少女は邪気のない笑みを浮かべて、一度だけ頷いてみせる。


「クロが人を嫌うことは滅多にありません」


 少女の細くしなやかな指先が、トレーの上に置かれたティーポットの取っ手部分をゆっくりと掴んだ。


「しかし、その逆はよくあります。ほら。クロの目は赤いので」


 困ったような儚げな笑みを浮かべ、慣れた手つきでティーカップにあたたかなお茶を注いでいく少女。

 件のクロは邪魔にならないように気を使っているのか、瓶の置かれていない棚の上で大きな欠伸をこぼしている。というかどうやってそこまで上った。

 思わず心の中で鋭いツッコミをいれながら、渡されたティーカップを礼と共に受け取る。


「俺はあの子の赤い目、好きだけどな」


 いつの間にか用意されていた簡素で小さな木製の椅子。それに腰掛け、真っ白な陶器のカップの縁に口を付けながら、俺は言った。


「ああいう目って、ほら、なんかかっこいいじゃん? 俺としては憧れの対象、みたいな……いや、決して厨二病などではないんだけどね!?」


「ふふっ」


 口元を片手で隠し、楽しげに笑いをこぼす少女。小さな肩を堪えるように震わせていた彼女は、暫くするとふう、と一息ついてから礼を述べた。それは恐らく、クロを受け入れてくれた者への感謝、だろう。

 それほどまでにあの子は世間に受け入れられない存在ということなのか……。


「……嫌な世の中だ」


「ええ、全く」


 俺の呟きに同意してから、少女はスッと顔を上げた。カウンター越しに、彼女と目が合う。透き通った青色の瞳が、まるで全てを見透かしているようでゾクリとした。


「――ところで、お客様」


 傾げられた首。柔らかに弧を描いた唇が、ゆっくりと形を変えていく。


「夢、というものをご存知でしょうか?」


 一瞬、何を聞かれているのかわからなかった。


 夢、ゆめ……。


 頭の中で、少女の言葉をゆっくり、ゆっくりと咀嚼する。


「……えっと、夢って、寝る時に見る、あれのことかな?」


「はい、そうですね。それも夢のうちの一つです」


 ということはまだ別の夢があるということか?


 考える俺をよそに、少女は手近にある小瓶に片手を伸ばした。白い指先が、撫でるようにコルクを押す。


「眠る時に見る夢。未来のことを想像し、語る夢。辛いことから逃れるべく作り上げられた夢。それから、死を経てたどり着く夢……」


 少女が小瓶を持ち上げた。小瓶の中で、見えない何かがキラリと光る。


「このお店では、そういった多種多様な『夢』を取り扱っております。時に売り、時に買い、ご来店されましたお客様のお心を少しでも楽にしてさしあげるのが私の仕事です」


 少女が片手を差し出す。その手の中には、小さな小瓶。


 吸い取られるように手を伸ばし、小瓶を受け取る。俺の手の中にスッポリと収まる瓶の中には、何もない。しかし、なぜだろう。

 どうしてか、魅入ってしまう。


「さあ、お客様。お答えください」


 少女が笑う。わらう。ワラウ。


「お客様の『夢』は、なんですか?」


 ピシリと、とてつもなく固い何かに、ヒビが入った音がした。

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