第13話

 風邪をひいた。

 久しぶりのバイクの運転で浮かれていたのだ。

 最初は半クラッチの感覚も曖昧で、こわごわと運転していたのに、気づいたら思いのほか楽しくなって、そのまま道路標識に導かれるまま海へと来ていた。

 ……海。

 それも、真冬の海。波はそれほど高くなかったが、海から吹き付ける強風はとても冷たくて、透明な包丁で少しずつ、体を切り刻まれているようにも思えた。

 目を瞬かせると、潮風で涙が出てきた。寒い。めちゃくちゃ寒い。それなのにずいぶんと遠くに来てしまったことで気が抜けて、わたしはその場から動くこともできず、しばし放心したまま、ぼんやりと、涙で霞む海を眺めていた。沖に出ていたサーファー達が、ひとりふたりと姿を消していく。こんな冬のさなかでも彼らは海に入るのかと、感心するよりも先に呆れてしまった。風邪をひいたりしないのだろうか。そのときわたしはそう思った。もっとも、そのあと自分が風邪をひくなんて……思ってもみなかったのだけれど。

 ふと気づくと日が完全に落ちて、海の上に大きな月が出ていた。

 とても大きくて、少しいびつな形の月だった。生成に失敗したクリームパンのような月だ。ざぷん、ざぷん、という波の音だけが、やけに大きく響いていた。

 月を見ていたら急に、こんな場所にひとりでいて、わたしはいったい何をしているんだろう、と思ってしまった。正直、自分に対してため息が出る。

 わたしは手袋のまま、自分の顔を覆った。表面の革の冷たさが頬にしみた。姉の使っていたライダースの手袋、ヘルメット、その全てに姉の匂いが染み付いていた。

 同じ双子なのに、わたしとは違う匂いがした。遠くて切なくてさびしい匂い。それが潮の匂いと混ぜ合わさって、わたしを幾分感傷的な気分にさせるのだった。砂浜に寄せる波の音が、いつまでもいつまでも繰り返されていた。時間がループしているようにも思えるのに、月は少しずつ、ゆっくりと空を昇っていく。

 砂浜を歩くと、足の下でさりさりと小さな音がした。潮の満ち引きのせいなのか、それとも何かの加減なのか、砂はどこまでも黒く湿っていた。

 わたしは誰もいない駐車場に戻り、エンジンが冷えてしまったバイクの、その銀色のボディを撫でた。

 病院で姉の髪を洗ってあげたときのように、優しく、優しく撫でた。

 茶色いレザーシートには、父の手入れでも隠し通すことのできなかった細かなひび割れが、あちこちに見えた。わたしの生きてきた、姉のいなくなった、このバイクの放置された年月が、そこには刻まれていた。

 わたしはスマホを横に構えて、海と月と、バイクの全体が入るように構図を整え、写真を撮った。そしてそれを姉とのLINEに添付した。

 姉は当時このバイクを走らせながら、何を見たのだろう。何を感じ、何を思ったのだろう。姉はバイクの免許を取ったとき、法令ですぐに二人乗りをすることができないと知って、顔には出さなかったけれど、とても悲しんでいた。悔しがっているのを隠しきれない様子だった。

 誰か、後ろに乗せる相手のあてがあったのだろうか。ふとそんなことを思い、今この場所にわたしにも、誰かが……好きな人が……雪がいたら、どんなに素敵だろうかと思った。

 雪の目はほとんど見えない。感じられるのはわずかな光だけ。それでも、潮の匂いを嗅ぎ、波の音を聞き、月の光を一緒に浴びたなら。お互いの体を密着させて、体温を直に感じあったなら。何か……奇跡のような何かが起こるかもしれない。そう思ったのだ。でも。

 わたしにタンデムするほどの技倆はあるだろうか。しかも、目の見えない人を乗せて走らせるだけの技倆が。

 いつか。もっともっと運転が上手になったら。雪をここに連れてきてあげたい。この砂浜で一緒の時間を過ごしたい。

 強くそう思った。確固としたその思いを胸に抱きながら、わたしは家路についた。

 夜風が冷たくて、わたしは途中何度もコンビニエンスストアにバイクを停めて缶コーヒーを買い、手の上で転がして暖をとった。そして雪にこんな思いをさせるのはちょっと酷かな、と考えを少しだけ改めた。見上げると小さくなってしまった月が、静かにわたしを見下ろしていた。

 そんなことをしていたからか、自分の家にたどり着いたときにはすでに、深夜の時間帯になってしまっていた。

 あたりはしんとして、物音一つしない。建物の一角にある駐輪場の片隅にバイクを停めるときでさえ、わたしは大きな音を立てないよう、細心の注意を払わねばならなかった。ただでさえ管理会社に届出をしていない、駐車未許可のバイクなのだから。見咎められたら何を言われるかわかったものじゃない。社会性がなく、小心者のわたしはこんなとき、そんな割とどうでもいいようなことを、あれこれ思い悩んでしまう。もっとも、そこまで他人に関心を寄せるようなもの好きな人物など、もうどこにもいないのかもしれないけれど。

 部屋に入って一息つくと、緊張が解けたのもあって、体が冷え切っていることに今更ながらに気づかされる。

 姉のバイクを連れて帰ってみたら、なんだか姉の魂まで部屋に連れてきてしまったように思った。ちらりと横目で見た姉の写真は、いつもと同じように曖昧な笑みを浮かべているだけだった。わたしは小さくため息をつき、熱いシャワーを浴びてさっさとベッドに潜り込んだ。

 ……夕方からの夜勤には十分間に合うし、途中で目が覚めたら何か冷蔵庫の残り物でもを食べよう、そんなふうに考えながら。

 そして起きてみたら、体が鉛のように重くなっていた。

 嫌な予感がして熱を測ると37度1分だった。時計を見るとあと数時間で仕事に出なければならない時間である。

 大丈夫。咳は出ていない。ちょっと倦怠感はあるけれど、それだって我慢できないほどじゃない。体の重さは一晩中バイクを走らせていて疲れたからだろう。もしかしたら生理が近いから、そのせいかもしれない。わたしは色々と自分に言い訳を並べて、冷蔵庫の中の物を適当に食べ、もう一度シャワーを浴びてメイクを整えた。

 シャワーの水が妙に肌に刺激的に感じられたし、化粧の乗りも悪かった。気のせいで済ますにはちょっと微妙なところだったのだけれど、今更夜勤を代わってくれる同僚などいるはずもないし、大丈夫、なんとかなる、そう自分に発破をかけて、わたしは家を出た。

 仕事から帰ったらバイクの届出を賃貸の管理会社に出さないと、夜には花純との約束もあるし、なんて思う余裕も、そのときにはまだあったのだ。

 ナースウエアに着替える頃には、完璧に風邪をひいたと確信していた。ただでさえ夕方の風が冷たいのに、半袖の制服姿なのが悲しかった。カーディガン一枚程度では、とてもじゃないけれど寒さが凌げない。

 わたしは寒風に吹かれながら更衣室のある2号館を出て、病棟の入り口まで急いだ。渡り廊下から見えた椿の木には、綺麗な赤い花が幾つも重たそうに咲いていた。濡れたみたいに咲いていて、その赤さがとても艶かしい。まるでしどけなく開いた女の唇のようだと思った。

 春は少しずつ近づいているはずなのに、ここのところは曇りか雨ばかりで、一向に暖かくなる様子が見られない。あの暖かかった雪とのデートの日が、まるで嘘のようだった。いったい春はいつ来るのだろう。冬はいつ去るのだろう。寒いと体が動かない。風邪だってひく。

 そして、そんな日に限って、病棟は地獄の蓋が開いたみたいに忙しいのだった。認知症の患者さんが食事中に席を立とうとして足を滑らせて転倒し、別の患者さん同士が喧嘩を始め、薬を配り終えてやっとナースステーションに戻ってきたかと思えば、布団をかけてください、なんてコールがひっきりなしにかかってくる。汗をかいてそれが冷えてを繰り返しているうちに、だんだんと意識が朦朧としてきてしまった。やっぱり休めばよかったと思っても、あとの祭りだった。

 深夜帯になると病棟は静かになったが、朝方になる頃には代わりに頭がズキンズキンと、拍動するように痛み出した。まるで耳のすぐ近くで割れ鐘が鳴り響いているみたいだった。時計を見るともうすぐ五時になるところ。少し落ち着いたら受け持ち患者さんの中間サマリーも書こうと思っていたのだけれど、転倒と喧嘩騒ぎのインシデントを書かなければいけなかったせいもあって、皆が寝静まった頃になってもとてもそんな気にはなれず、わたしは師長の机の近くにあった非常時用のファンヒーター(ナースステーションのエアコンはすぐにストライキを起こす。建物や設備自体が古いのだ)を抱えるようにして、体を丸めたり伸ばしたりしていた。もちろん、ちゃんと患者さんのモニターを確認し、時折鳴るナースコールにも対応する。朝の配薬車の準備だってきちんと行う。ラウンドにだって行く。通常業務としてやらなければならないことはちゃんとやる。けれどそれ以外の時間は、ほとんどヒーターの前から動かなかった。

 しかしどうにも寒くて仕方がなくて、わたしは無意識に自分の肩を抱いた。羽織っている紺色のカーディガンはとても防御力が低くて、疲れた体を包むには、あまりにも心もとない。きっとゲームなら、スライムにだって瞬殺されてしまう。

「……篠井さん?」

 ふと気づくと夜勤のペアだった後輩の美咲が、わたしの顔を覗き込むようにしている。ずっとスマホをいじっていたのだけれど、それにも飽きてしまったらしい。

「さっきから顔、真っ赤ですけど。暑いならヒーターなんていらないんじゃないですか」

「でも、なんだか寒くて」

「ステーションの中、暑いくらいですよ」

 そんな会話を交わしていると、ちょうど見回りに来た当直師長に見咎められてしまった。目と目が合って、しまったな、と思った。

「篠井さん、熱があるんじゃないの? 体温測ってみて」

 言い訳をする間もなかった。

「ええと、大丈夫だと思うんですけど」

「大丈夫かどうかはわたしが決めるの。いいから測りなさい」

 5病棟の師長……石川いしかわ智美さとみさんという、わたしより一回り年上で、普段からめちゃくちゃ怖い……に体温計を差し出され、わたしは渋々それをアルコール綿で拭いてから、自分の脇に挟んだ。仕事に来る前、自宅で測ったときには37度1分だったから、それよりは多少上がっているかもしれないけれど、などと思いつつ。それでもそこまで大した風邪ではないだろうと、わたしはまだ高を括っていたのである。

 電子音が鳴り、わたしと石川師長と美咲が揃って電子体温計を覗き込むと、そこに表示されていたのは39度2分という馬鹿みたいな数字だった。

「ほら、言わんこっちゃないじゃない」

 まさかそんなに熱があるだなって思ってもみなくて、そして自分の症状に改めて気付かされた気がして、わたしはなんだかくらくらしてしまった。

「すぐに帰りなさい」

「でも、病棟が吉野さんだけになっちゃいます」

 わたしが慌てて言うと、

「あとはわたしが引き継ぐから。最低限の申し送りだけしていって。吉野さん、それで大丈夫よね」

 師長はちらりと横目で美咲を見た。美咲は今にも捨てられる子犬みたいな目で一瞬わたしを見てから、大丈夫です、ゆっくり休んでください、と答えた。それしか言えなかったのだろう。わたしは子犬を捨てる少女のように途端に悲しくなって、ごめんね、と口の中で呟くのが精一杯だった。

 まだ暗いうちに病院を出るのは、なんだか不思議な気持ちだった。タクシーを呼びましょうか、と心配してくれた守衛さんにお礼を言って、けれどわたしは始発の電車で家に帰った。師長にはどこかの内科で受診してきなさい、と言われたのだけれど、今日は都合の悪いことに日曜日だった。インフルエンザも流行りだした昨今、救急でやっている外来はきっとどこも混んでいるに違いない。

 自宅にふらふらになりながら、ほうほうの体でたどり着き、ふと駐輪場に姉のバイクが置いてあるのを見たとき。なんだか気が抜けてしまって、自然と涙が頬を伝った。こんなことで泣いてしまうなんて我ながら馬鹿みたいだと思った。それから、少し意識を切り替えるみたいに、花純にキャンセルの連絡をしないといけないな……と思った。

 夜、約束をしていた花純は美容師をしている。日曜日の今日も仕事だが、今頃はまだ寝ているだろう。わたしは風邪をひいたので約束をキャンセルさせて欲しいとLINEを送り、解熱剤を飲んでから、服を脱ぎ、シャワーも浴びずに冷たいベッドに潜り込んだ。頭が痛くて、体の節々もぎしぎしと悲鳴をあげていて、寒気も全然止まらなかったけれど、わたしは一瞬で暗い崖から転がり落ちるように、眠りについていた。

 そこは真っ暗な世界で、わたしは夢さえ見なかった。

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