第6話
誰かがわたしの胸を吸っていた。
一途に、ただひたすらに。まるでそのことだけが生きる意味、全てのように。
あまりに突然のことに驚いて、思わずその誰かを見た。わたしが見たのは、見ず知らずの嬰児だった。わたしは……誰のものともわからない赤子を抱いて、乳を与えているのだった。
やわらかな前髪をそっと指先で払い、その子の瞳を見た。
どこかで見たことのある目。綺麗で透き通っていて。でも、わたしを見ていない。わたしの姿をその瞳に宿していない。この目の持ち主は……はて、誰だろう。
そんなことを思っているうちに目が覚めた。
気づいたら泣いていたようで、頬がひりひりと痛かった。なぜだろう。一体全体なんなのだろう。泣く要素など何一つなかったはずなのに。わたしには見た夢も現実の涙も、全く意味がわからなかった。
その話を友人の花純にすると、彼女はわたしを鼻で笑った。
「あなたも焼きが回ったんじゃない?」
「どういう意味?」
「子どもが欲しい、って思うようになったんじゃないの、って意味」
そうなのだろうか。一瞬考えたが、違うような気がした。
そもそも、子どもを欲しているのは雪の方だ。わたしじゃない。わたしは雪の言葉を、少しだけ……疎ましくさえ、思っていたのだもの。
だいたいわたしは今まで、子どもが欲しいと考えたことなんてなかった。
誰かを好きになっても、それは必ず女性で、その人との子どもを夢想することなんて、なかった。
それともそれは、本当に好きな人に出会っていなかったからだろうか。……ううん、違う。違う気がする。わたしは別れた恋人のことが本当に好きだった。本当に、本当に好きだったのだ。きっと、今でも大なり小なり好きなのだろう。その思いは消えないのだろう。雪を好きになった今でも、心のどこかでは彼女のことを引きずっている。ずっと忘れられずにいる。
そしてそんな自分を女々しく感じて、嫌だな、と思う。
わたしの別れた彼女は、最近花純の元カノと仲良くやっているらしい。ビアンのコミュニティーは狭くて嫌だ。聞きたくない、知りたくない情報ほど耳に入ってくる。
「ゆかりちゃんから聞いたんだけど、あなたまた人妻に手を出したんだって? そのうち刺されると思うから今のうちに遺書でも書いておけば?」
「……ゆかりも口が軽いんだから」
わたしが言うと、自業自得でしょう、と花純が再び唇を歪めて笑ってみせた。
いつものビアンのお店とは違う、普通の、どこにでもあるようなチェーンの居酒屋だった。焼き鳥の煙と仕事帰りのサラリーマンの笑い声。忙しく走り回る愛想笑いを頬に貼り付けたアルバイトの女の子たち。花純と二人きりで飲むときには、こういうありふれた店を利用することが多い。二丁目の……あの店ではお互いに、顔見知りが多すぎるのだ。
花純はわたしの知る限りにおいて、一番美しいバイセだった。そして、一番口の悪いバイセでもある。歩く殺生石という異名(もちろんわたしがつけた)は伊達じゃなかった。
二人で飲んでいるとよく彼女目的で男性からナンパされるのだが、花純が口汚く鼻であしらう様は、こちらの肝が冷えるくらいだった。
「それより花純はどう?」
「どうって?」
わたしは果実酒のソーダ割りで唇を湿らせて、花純に訊ねた。
「子ども。欲しいと思う?」
「なんで?」
「なんで、って」
「今?」
「いつか、よ」
「いつかなんて、そんなの答えようがないじゃない。わかんない」
花純は口をへの字に曲げて、それから日本酒の猪口をきゅっと干した。
「わかんない、けど……わたしが産むのは嫌」
相手が女性でも男性でも、わたしの子どもを産んでくれるっていうなら考えてもいいけど。
そしてそんな風に繋げてみせる。その言葉に、わたしは開いた口が塞がらなくなってしまった。
けれど確かに自分だけが受け身……というか責任を負わされるのは嫌だというのは、わからなくはないな、と思った。
「向こうが子どもを欲しいっていうのなら、自分で産めばいいのよ」
わたしはさらにあっけにとられながら、
「花純って今の恋人、男の人だったよね」
と訊ねた。
「そんなの、とっくに別れた」
「え、別れたの? いつ?」
「んー、二ヶ月くらい前、かな」
指を折っている花純を尻目に、そうだったの、とわたしは小さな声で呟いた。全然知らなかった。
「あ、だからって色目使わないでね。わたし、あなたみたいなメンヘラ、タイプじゃないから」
聞いていて思わず吹き出しそうになってしまった。メンヘラ。メンヘラか。確かにそうかもしれない。花純の明け透けな物言いが、今のわたしにはかえって心地よかった。
「馬鹿ね。ずっと前から知っているわ。わたしの方こそごめんなさい。今、好きな人がいるの。だからあなたとは付き合えないわ」
冗談めかしてわたしが言うと、花純はちょっとだけ口ごもって、声のトーンを落とした。
「……目の見えない人、ね」
驚いて花純を見返す。花純は一瞬わたしをにらみつけるようにして、それからばつが悪そうに、わたしから目を逸らした。
わたしは少なからず驚いていた。花純がわたしから、目を逸らしたことに。
いつも、いつだって、誰と喧嘩をしても自分を曲げず、その眼の力だけで相手を威嚇して、圧倒する彼女なのに。目を逸らしたほうが負けなんだよ、と公言して憚らない彼女なのに。
花純の言葉にも驚いたけれど、その態度にもわたしは驚いていた。花純の心のうちにあるものが、わたしから眼を逸らさせているのだと思うと、胸が痛んだ。酔っていたこともあって、半ば本気でそんなことを思っていた。
「ゆかりが喋ったのね」
わたしは訊ねた。ううん、それはもう、詰問するのと同じ口調だった。
「わたしがどんな子、って訊いたの。ゆかりちゃんは悪くない」
「だからって」
花純はわたしの言葉を遮り、
「ねえ、そうやって怒るってことはあなたにも負い目があるってことじゃないの」
「なにそれ、どういうこと?」
負い目。……負い目? 花純は何を言っているのだろう。
「その人への同情と恋愛感情を、ごっちゃにしてるんじゃないかってことよ」
花純はそう言って、わたしとは顔を合わせず、干したままの手の中の盃を、じっと見ていた。
「その恋愛は本物なの? あなた……あなたのお姉さんが亡くなってからのあなたは、全部が自暴自棄に見えるのよ。自分が傷つくだけなら別にかまわない。わたしだって何も言わない、言えた義理じゃないし。でも、何も知らない相手を傷つけるのは……違うと思う」
わたしは雪を傷つけているのだろうか。
たぶん、傷つけているのだろう。
どうしようもなく、取り返しのつかないくらい。これからももっと、もっといっぱい傷つけるだろう。彼女は人妻だ。夫に抱かれ、子を宿すことを希求している。わたしには逆立ちしたって叶えてあげられない。大きな、とてつもない夢。
それに……というのはとても嫌だけれど、彼女は障害者だ。このあいだのコンビニでの出来事でもわかるように、彼女は彼女を取り巻く現実に傷つけられている。わたしは雪の眼が見えないことを取り立てて気にしたりはしないけれど、絶対的に配慮が足りないことはあるだろう。どうしたってわかりあえない壁はある。……それに。
わたしたちは、棘ある花だ。
最初からそうなのだろうとわかっていた気がする。彼女にはきっと、秘密がある。わたしの過去に薄暗い影があるように。
だからあざみの花のように添うてもお互いを傷つけ合うだけなのだ。でも。それでも。……好きになってしまったのだもの。仕方がないではないか。
ぐちゃぐちゃのまとまらない頭の中で、まるで魔法のようなタイミングで、ふと思い至ってしまった。
夢に見た赤子の、あの眼。
透き通った、遠いところを見つめるあの眼は、雪の眼だ。どうして気づかなかったのだろう。
「……泣いているの?」
花純が驚いたように、わたしの顔を覗き込んだ。
「ごめん、帰る」
わたしは頬を拭って立ち上がった。そしてわたしの分、と伝えて、五千円札をテーブルに置いた。
待って、と彼女が言った。
「言い過ぎた。お姉さんのことを持ち出したりして悪かった。だから、座ってよ」
「そういうことじゃないわ」
「じゃあ、どういうことなの?」
花純がわたしの手を掴んだ。
説明してもきっと、花純にはわからない。そう思いながら、わたしはその手をゆっくりと振り払った。
一呼吸おいてから、また飲もうね、と花純が言った。もちろんよ、とわたしは答えた。
一人になると夜の喧騒と冷たい空気が肌を刺した。
無性に雪に会いたかった。
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