第4話

 仕事が終わって、更衣室でナースウエアから私服に着替えているとき。スマートフォンにLINEの通知があった。雪からだった。

 暖房の効いた部屋。窓の外では桜の枯れ枝が踊っている。土砂降りの雨だった。

 わたしが着替えの手を止めて喰い入るように画面を見つめ、LINEを開こうとしていると、同じ病棟の美咲みさきがなんだか随分と真剣な顔をしていますね、と声をかけてきた。

「彼氏さんですか?」

「ううん、違う。そういうのじゃないわ」

 わたしは苦笑して言葉を濁した。別にビアンであることを殊更隠しているつもりはないのだけれど、吹聴だってしてはいない。余計な詮索はごめんだ。

「またまた。篠井さん、モテるって聞きましたよ? 最近お化粧とか服装の趣味もちょっと変わったみたいですし。彼氏さんの趣味ですか? 篠井さん、いつも男に興味がないようなそぶりをしているけれど、本当はついにいい人ができたんじゃないかって、噂になってますよ」

 初耳だった。

 わたしは本当にそういうのじゃないからと否定して、話を打ち切るようにキャミソールを脱ぎ始めた。先に着替えを終えていた美咲は、今度わたしにもいい男を紹介してくださいね、なんて言いながら、更衣室を出て行った。

 三十の境界線に独り身でいると、与り知らぬところであれやこれやと勘ぐられることが多くて困る。その都度結婚にも男性にも別段興味はない、と伝えているのだけれど……どこまで本気にされているのかわからなかった。真意を伝えられないわたしもわたしだとは思うけれど、自分のセクシャリティを誰に対してもつまびらかにしなくてはいけないなんて、そんなのは嫌だった。

 もっとも、以前のように陰でレズだと噂されるよりかは、誤解されている方がまだましなのかもしれないけれど。

 女は男とくっついて当たり前、結婚して子どもを産んで当たり前、という意識が世間にあるうちは誰も、わたしのことを本当の意味では理解してくれないのだろう。それが悲しいとか虚しいとか思う時期はとうに過ぎて、今は別段何も感じなくなってしまった。

 スマートフォンに再度視線を落とす。雪からの通知がまるで宝石のように、輝いて見えた。


〝ひどい雨なので、少し遅れると思います。ごめんなさい。でも、早く会いたいです〟


 アプリを立ち上げると、雪のアイコンから出た吹き出しには、そんな言葉が書かれていた。馬鹿ね。こんな雨なのだもの。雪が謝る必要なんてどこにもないのに。それにわたしだって、……雪に会えるだけで嬉しい。

 わたしはマフラーを首に巻き付け、更衣室を出た。棟内の廊下はしんと冷えていた。思わず身が竦むが、そのまま歩き続けた。

 雪とLINEを交換したとき、わたしは彼女のスマートフォンを借り受け、表示される名前を変えさせてもらった。わたしの本名ではなくハイネの名で通知されるように。雪はそれを知って、徹底しているんですね、と苦笑したのだった。

 わたしのLINEの登録名も岩井美雪ではなく、雪にした。わたしは、わたしたちにはそれが正しいような気がした。そう伝えると、雪は顔を俯けてわたしの腕に額を押し付けたのだった。

 わたしたちは雪の降る夜の街をしばらくのあいだ、密やかに歩いた。さりさりという雪の音と、白杖がアスファルトを擦る音が、傘の中にこもっていた。

 いつか、と。雪が掠れそうな声で言った。

「……いつか、ハイネさんの名前」

 そしてまた沈黙した。わたしは歩みを止め、雪の顔を覗き込んだ。

「わたしの名前?」

「当ててみせます。そのときには、ご褒美をください」

「不思議な人。逆に訊ねるのだけど、雪はいつもは何をしているの? 専業主婦?」

「それは……」

 雪が一瞬、押し黙った。

「当ててください。わたしの職業が当てられたら、そうしたら……ご褒美をあげますから」

「それは楽しみ」

 あのとき、雪の透明な視線が何を暗示していたのか、わたしにはわからない。光を失った目をまっすぐ前に向け、白杖とわたしの腕を握りしめ、ここではない、どこか遠いところに想いを馳せていた。

 あれから一ヶ月経った。

 雪は自分で当てると言ったからか、わたしに名前を訊ねようとはせず、わたしもなんとなく、話題に出さなかった。彼女の職業についてもあれ以上問い質さなかった。

 待ち合わせの喫茶店で時間を潰していると、夜が少しずつ濃くなっていくのがわかった。窓ガラスに雨の水滴がいくつも浮かび、流れて消えていく。それが断続的に、延々と続いた。

 お店の中はコーヒーの匂いと低いボリュームで流れるクラシック音楽、そして雨の気配。すべてがそれだけで構成されていた。少し固めのソファーがわたしの腰を優しく包んでいた。

 からん、と入り口のカウベルが鳴るたびにわたしは木製のドアに目を向けた。そして何度も落胆した。時刻は十九時を回っていた。

 わたしはいつもの癖で、姉にLINEを送っていた。それは日記のようなもので、もちろん既読はつかない。だって姉はもう死んでいるのだから。でも、それでいい。誰にも打ち明けられないことは、姉にならこっそりと言える。ただそれだけでいい。

 ……雪はどんな言い訳をして家を開けてくるのだろうか。

 画面に向かって指を動かしているとき、不意にそんなことを思った。

 彼女は結婚している。夫がいる身で……そして視覚に障害がある身で、容易く、勝手気ままに外出などできるものなのだろうか。それともそう思ってしまうこと自体が罪なのだろうか。彼女の行動を勝手に規定して、行動範囲を限定させるような考え方は、間違っているのだろうか。視覚に障害があっても、夫がいても、彼女は自由だ。自由にどこにでもいける。その権利はあるはずで、でも、……でも。物理的な制約はやっぱりあるだろう。例えばこの雨。土砂降りの雨の騒音。雨の雫の冷たさ。そういった諸々は、彼女の抱える障害に対して、追い討ちにならないのか。

 そんなことを考えていたら急に、彼女がどこかで事故に遭う可能性だってあるのだと、心配になってしまった。

 そうなのだ。目の見えない雪は周囲の状況を耳に頼らざるを得ないのだ。この雨で。なおかつ傘をさしていたら。どれだけ不便なことだろう。

 胸がざわざわした。いてもたってもいられずに、わたしは喫茶店を飛び出していた。

 降りしきる二月の雨は冷たく、雨の一粒一粒はまるで氷の弾丸のようで、傘をさす間も無く、肌に鋭い痛みを残した。わたしはたまらずに庇の下へと隠れた。

 周囲を見回すが、彼女がどちらの方向から来るのかわからなかった。何度かここで待ち合わせているはずなのに覚えていなかった。わたしは店の前で立ち竦み、焦燥感に駆られながら激しい雨を見ていた。

 雪が来たのはそれからしばらくしてからのことだった。たぶん十分も経っていなかったと思うのだけれど、気ばかりが急いていたのだろう。わたしにはとても長い時間に感じられた。

 赤い傘をさし、通りの向こうからゆっくりと歩いてくる雪の姿が見えたとき、瞬間的に泣きそうになった。実際に目の前が滲んで、雨と夜の中で、手にした白杖だけが眩しく光って見えた。

 わたしは自分の傘をさす時間さえも惜しくて、手で庇を作りつつ、走り寄って雪、と声をかけた。雪は足を止め、うつむかせていた顔をそっと上げた。

「……ハイネさん? どうしてお店の外にいるんですか?」

 声や指先の感触でわたしを認めると、彼女は不思議そうにそう言った。

 土砂降りの雨のせいで、彼女のコートは肩の部分が黒く変色していた。お互いの声も聞き取りにくかった。

「待ちきれなかったの。あなたが濡れているかもしれない、寒い思いをしているかもしれないと思ったら、暖かい場所で待っているのが苦痛だったの。この雨で大変な思いをしているんじゃないか、もしかしたら事故にあっているんじゃないかって……気が気じゃなかったの」

 雪は悲しそうな微笑みを浮かべて、わたしの頬に触れた。わたしと同じ体温の指が、わずかに震えていた。

「ごめんなさい。待たせてしまって」

「謝らないで。雪が悪いんじゃないから」

 こんなのはただの自己満足だ。わたしにだってそれはわかっていた。でも、どうしようもなかったのだ。

 わたしはさしかけてくれた彼女の傘を受け取りながら、その体をしっかりと抱いた。雪の体からは雨の匂いがした。冷たくて切ない、雨の匂い。

「お腹がすいたわ」

 わたしは小さな声で言った。雪もそうですね、と苦笑を漏らした。路上でキスしたくなるくらい、その笑顔はチャーミングだった。

 以前はこんなじゃなかった。こんなみっともない恋愛をするわたしじゃなかった。人妻のあいだを蝶のように舞い、渡り、その蜜を吸うことだけで生きていけた。

 ううん、違う。

 元々わたしはこうだったのだ。こんな恋愛しかできない人間だったのだ。

 元々あまり仲がよくなかったとはいえ、双子の姉の病気がわかっても、最初は見舞いにも行かずに破局しかけた恋人と喧嘩ばかりしていた。頬を叩き合って、罵り合い、それでも捨てないでと彼女に縋って泣いた。惨めだった。惨めだけれどどうしようもなかった。愛していたから。彼女のことが心の底から好きだったから。他のものは何もいらなかった。ただ、彼女がいてくれさえすればよかった。なのにわたしたちの喧嘩はいつまで経っても止まなかった。好きなのに。好きだったのに。最後まで、ボロボロになるまで、傷つけ合うしかなかった。

 彼女と別れ、わたしは今度こそ姉の死と真正面から向き合うことになった。性的なマイノリティーであるわたしのことを、姉はずっと毛嫌いしていて、そのこともわたしを憂鬱にさせた。けれど姉が死んでいくのを見ていると、わたしの気持ちが少しずつ、変わっていくのがわかった。

 少しずつ痩せていき、口数が減り、死の匂いが濃くなっていく。死の、あのどこまでも透明になって薄くなっていって、最後にはモニターの波形にしか誰も興味を示さない。すぐそこに終わりがあるという、虚無感だけが病室に漂っている。

 わたしも他者に対してなら、そうだった。

 わたしが職場で患者を看取るときだって、いつもだいたいそうだった。けれど姉の死は違っていた。全然違うものだった。死は誰かの死ではなかった。自分の手に触れられるところにそれは存在していて、わたしと瓜二つの姉の姿を、刻一刻と絡め取っていく。

 死の人称が近くなっていく感じがした。赤の他人の死ではなく、知っている人の死でもなく、わたし自身の死なのだと、そう思えたあの感じ。たまらなく嫌だった。弱っていく姉の姿が直視できなくて、心が引き裂かれるように痛かった。つらい失恋を終えたばかりのわたしには心底堪えた。でも、わたしと姉はあのとき人生で一番濃い時間を共有し、同じものを見て過ごしていた。わだかまりも和らいで、最後は姉を素直な気持ちで見送ることができた。それはきっと、必要なこと、必要な道程だったのだと今では思う。

 ただ、最後まで姉は、わたしのセクシュアリティを認めてはくれなかった。それがわたし自身の心にずっと、今でも暗い影を落としている。

「ハイネさんは、何が食べたいですか?」

 まっすぐ前を向いたまま、雨に負けないように、雪が少し強めの声で言った。物思いに耽っていたわたしは、はっとして、

「温かいものが食べたいわ」

 と答えた。訊ねられるまでどこに向かうのか、全くのノープランだったことを心の中で恥じた。

「この時期の大概の食べ物は、だいたい温かいですよ?」

 そう言われてみれば、確かにそうかもしれない。お刺身やカルパッチョ、ざるそば、お寿司など……冷たい食べ物なんていくらもあるだろう。思いつきもするだろう。でも、雪が苦笑まじりに言うと、この世には温かな食品だけが溢れているような、そんな気分にさせられた。彼女の苦笑いを横目で見ただけで、胸の内が温かくなった。

 ああ、こんなに好きなのに。気もそぞろになるくらい、好きなのに。

 彼女には夫がいる。そのどうしようもない現実に打ちのめされそうだった。

 わたしは少しだけ唇を噛んで、雪は何が食べたいの、と訊ねた。

「おでんが食べたい、です」

 セブンイレブン、ファミリーマート、コンビニならその辺りにいくらでもあるけれど。おでんを出す店なんて……近くにあっただろうか。そう思って思案していると、その考えを読んだように、ポツリと雪が言った。

「コンビニで買って……どこかで食べませんか。どこか、落ち着けるところで」

 わたしは彼女の横顔を見た。

 寒さのせいだけでなく、雪の頬が赤く染まっていた。いいの、とわたしは訊いた。雪は前を向いたまま、こくんと頷いた。

「今日、夫は仕事の都合で帰ってきません。わたしも、今日は友達と会うから……って」

 わたしの肘を掴んでいた雪の指先に、力がこもった。雨の激しさが増した気がした。寒くて冷たくて、でも、胸は焼き切れそうなくらいに熱い。わたしたちは最初に目に付いたコンビニの前で、傘を閉じた。

「おにぎりも買いましょうか」

 わたしが訊ねると、雪は、売り場まで連れて行ってもらえますか、と言った。店内は必要以上に明るくて、Jポップが流れていて、唐揚げとコロッケの匂いがした。客は誰もが雨の気配をまといながら、憂鬱そうな表情を浮かべている。

 陳列棚に着くまで彼女が何を考えていたのか、わたしにはわからない。眉のあいだに少しだけしわを寄せて、口を閉ざしていた。

 わたしが足を止めると雪はそっと手を伸ばして、恐る恐るおにぎりのパッケージに触れた。そして、

「これは鮭、ですか?」

「ううん、シーチキン」

「こっちは……昆布?」

「当たり」

 これは何の遊びだろう。不思議に思っていると、雪は小さく笑った。

「わたし、目が見えないから。触っただけではおにぎりの具材がわからないんですよ」

「……うん」

「それだけ、です。あ、でも」

 雪は苦笑して、

「触ればお値段の高いおにぎりかどうかは、わかります」

 と言った。確かに直巻きのおにぎりってパッケージがちょっと違うからね、と。わたしも少しだけ笑った。

「本当のことを言いますと、……わたし、光はわかるんです」

 雪はわたしに苦笑を返しながら、そう言った。冗談めかしていても、ものすごく真剣な声だった。

「光? ……わかる?」

「ええ。弱い光。強い光。太陽の光は眩しいくらいです。でも……物の輪郭は朧にしかわかりません。触れてみなければ、そこに何があるのか、わたしにはわからないんです」

「……そう」

 結局わたしたちはシーチキンと昆布のおにぎりを手にしてレジに向かった。それからレジ係のお兄さんにおでんを注文した。焼き豆腐とはんぺんと大根とちくわぶとロールキャベツを二つずつ。店員さんが保温器の蓋を取った瞬間、お出汁のいい匂いがした。

 店にいるあいだ、ずっと誰かの視線を感じていた。そんなに視覚障害者が珍しいのだろうか。雪もなんとなくそれを感じているように思えた。店に入ってから表情が硬かったのも、そのせいかもしれない。

 さっきのおにぎりのことも、光が感じられると告白してくれたことも、あるいは感じていた視線に対する一種の抵抗だったのかもしれない。

 この国で障害を持った人は、生きにくいのかもしれない。現にわたしの職場にいる患者さんたちも……と、そこまで考えが及んで、わたしはかぶりを振って考えを消した。

 雪と一緒にいるときに、仕事のことは考えたくない。でも、どうしても考えざるを得ないような、そんな空気がわたしの胸の中で、静かにわだかまっていた。

 なんだか気勢を削がれてしまった感じだったのだけれど、このまま彼女を帰すわけにもいかなかった。もう、おでんもおにぎりも、買ってしまったのだから。

 外はまだ土砂降りだった。

 アスファルトの上に雨がはじけて、幾つもの飛沫を四方に散らしている。わたしはビニールの袋を左手に持ち、右手で傘を、そして雪の手をそこに添えさせた。

 障害がある方が燃える、なんて俗で卑しいことを言うつもりはない。確かにこの恋は不倫で、わたしたちは……少なくともわたしは性的なマイノリティーで、彼女は視覚に障害を負っている。でも、だからなんだ。だからなんだというのだ。わたしは雨の中を歩きながら、ずっと憤っていた。

 わたしたちの、この誰かを好きだという気持ちが罪であるのなら。

 罪悪だというのなら。かまわない。わたしは喜んで罰を受けよう。この胸を苛む痛みを甘んじて受けようと思う。でも今は二人きりで温かな場所に行きたい。雨から逃れて、濡れた羽を乾かせる場所で憩いたい。肩と肩とが触れる。雪の甘い匂いがする。わたしたちは駅に向かって歩いた。赤い、雪の傘を一つだけさして。

 二人で。コンビニの袋を手に、雨に濡れながら。

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