第2話
初めて出会った日。彼女はビアンズ・バーの中で明らかに浮いていた。出会いを求めるにしては緊張しすぎていた。化粧気もあまりなくて、ウエーブ掛かった髪をアップにして、ただ、うなじだけはとても綺麗で印象的だった。
わたしは炎に惹かれる蝶のように、彼女の首の後ろの肌の、その白さに惹かれた。近づき過ぎた自分が焼かれることなんて、少しも恐れずに。ただ惹かれてしまった。
でも、本人は自分自身の魅力……吸引力に似た魅力に、気づいていないみたいだった。そういう雰囲気もすべて含めて、好きになった。
それから、彼女の目。
宙に浮くような……透き通った、遠いところを見ているような視線が印象的だったのを、よく覚えている。
「……あそこのカウンターの人、見ない顔だけどゆかり知ってる?」
わたしは店子のゆかりにそっと声をかけた。ゆかりはわたしの視線を追って後ろを振り返り、初めてのお客さんだと思う、と答えた。
「少なくともわたしがここに勤めてからは、初めて見るお客さん……のはずなんだけど」
「けど?」
「……何処かで見かけた気もするのよ。んー、でも気のせいかなぁ」
ゆかりはそう言って、小首を傾げている。わたしはちょっと気になって、
「彼女、どこを見ているのかしら。不思議な雰囲気の人ね」
なんとなく思ったままの印象を口にすると、ゆかりはなんだか居心地悪そうにわたしの耳に唇を寄せ、あのお客さん目が見えないみたいなの、と声のトーンを落として、殊更秘密めいた感じで教えてくれた。
彼女の隣には誰も座っていなかった。客の子たちも今は遠巻きに見つめているだけだった。ということは、もともと連れがあったわけではないのだろう。よく見ると左手の薬指に銀色の指輪が光っていた。それを見てわたしは、人妻、と思う。この場所に何を求めてやってきたのかは知らないが、わたしは俄然興味を惹かれ、腰を浮かしかけた。
「障害者なんてやめときなさいよ。それにほら、結婚指輪してるじゃない」
それを止めたのはゆかりだった。
「……わたしは別に構わないけど」
「またそんなことを言って。向こうは気にするかもしれないでしょうが」
「まだノン気って決まったわけでもないし。それに、ノン気だってわたしは構わないし。だいたい、ここはそういうお店でしょう? 彼女だって一夜のアバンチュールを求めに来たのかもしれないわ」
ゆかりは、あなたのそれはもう病気ね、どうなっても知らないから、と首を横に振りながら、カウンターの奥に消えていった。
このお店の名は「seals」という。少しばかり名の通った、女性同士が出会いを求める場所だ。最近ではネットやアプリ……あんなものはオタクとメンヘラとV系と成り済ましの男しかいない、というのは友人の
本当に、ここは、そのためだけにある場所なのだから。結婚していようがいまいがそんなことはどうでもいい。要は二人の同意があるかどうか、ただそれだけなのだ。
それに。
障害の有無にしたところで、わたしには関係がない。眼が見えなくてもいい。車椅子だって構わない。話していて楽しいか。抱いたり抱かれたりして気持ちいいか。最初からそれだけの関係しか望んでいないのだから。
わたしの求めているのは、一夜のライク・ア・セックスフレンド。ただそれだけだった。
障害のあるなしは別にして、元々、遊ぶだけなら人妻の方がいいとわたしは常々思っている。後腐れがないから。向こうだって家庭があるのだもの。本気の恋愛を求めているわけじゃないのだから。今まで付き合った女性はみんなそうだった。相手がわたしに本気になったことは一度もなかった。家庭を壊してもいいなんて言う女は、一人もいなかった。
甘いお酒をひとくち分、喉に流し込む。わたしは言い訳じみたことをあれこれと考えながら、彼女の憂いを帯びた横顔を、どこか胸の痛みを覚えつつ、タイミングを見計らうようにじっと見ていた。緊張しているのか、彼女はお酒を一口飲むたびに、おしぼりで両手の指の先を軽く拭くのだった。少し神経質なのかもしれないな、と思った。そして、どうやって口説こうかと、そればかりを思っていた。
三十を間近にしたあたりから、わたしはこんな刹那的な恋愛しかできなくなっていた。純粋な恋愛に対する熱量が徐々に減っていって、わたしの中の何かが確実に摩滅してしまった。遊び。
ただの遊びの恋愛ごっこ。
そうなってしまったのはたぶん、当時付き合っていた女性との……体の内側を全部引き抜かれるような……壮絶な破局と、双子の姉の死が原因だったのだと思う。失恋をして、心と体と魂が頭陀襤褸になっていたときに、自分と同じ顔の人間が衰弱していくのを間近で見ていた。
少しずつ死の世界に引きずり込まれていく姉の姿を毎日見ていた。日々壊れていく鏡を見続けるように。それがいけなかったと言うつもりはないが、気付いたときにはわたしはもう、普通の……ドロドロした関係も普通と言えるのであれば……恋愛が出来ない質になっていた。
姉はわたしの暗い活力のような、黒ずんだ黴のような部分を、向こう側に根こそぎ持って行ってしまったのだと思う。その弱い汚い何かがわたし自身の核だったのだとしても、もう取り返しはつかなかった。だから深みにはまりそうになる前に、それとなく自分たちの関係を示唆し、距離を取るのがわたしの習いになっていた。今までそれで、こじれたことはなかった。相手が望むこともその程度のものなのだと思っていた。一晩だけのお手軽な恋愛。そんなものがわたしの後ろに、いくつも転がっていた。わたしはずっと、変わらない、変えられないことに、安心しきっていたのだと思う。
席を立ったわたしは先ほどのゆかりの忠告を無視してスツールに移動し、彼女の隣に座った。気配を感じて彼女の肩が、一瞬、硬く強張ったのがわかった。
「こんばんは、おひとりですか?」
わたしの声が聞こえると、彼女は見えないはずの目を大きく見開いた。膝の上で固く握り締められた鞄の上の手の中に、折り畳まれた白杖が握り締められていた。
「ごめんなさい。驚かせてしまったみたいで」
わたしはそう言って彼女に笑いかけた。彼女は硬い表情のまま、静かに青ざめていた。まるでわたしを無視するように、その端正な顔は正面を向いたままだった。
「このお店、映画のロケにも使われた場所だから、ノン気の女性も時々いらっしゃるの。あなたもその口かな、と思って」
入り口で女性客以外はお断りをしているから。男性が入ってくることはないけれど。でも客はレズビアンばかりではない。ノン気、つまりはセクシャル的にはヘテロの人だって、この店を訪れる権利がある。
もっとも、わたしの言葉はただの出任せだった。彼女が何かを求めてここにやってきたのだと、わたしは確かに感じていた。正確に言うと一夜のロマンスみたいなもの。秘密の扉を覗き見たいという小さな欲望の匂い。そういうタブーめいたものを求める人は、なんとなく匂いでわかってしまう。
「……こちらこそ驚いてしまってごめんなさい。あなたの声……知っている人の声に似ていて。それでびっくりしてしまって」
わたしの言葉にちょっとは気を許してくれたのかもしれない。しかし、そう答えた彼女の声はまだ、少しだけ震えていた。
「あの、……その映画って『雪と灰』ですよね。わたしも観ました。もっともわたしの場合は、補助音声で、ですけど」
自虐の言葉。口の端に浮かべた彼女の微かな笑みを、わたしは可愛いと思う。
「そっか、そういう楽しみ方もあるのね。でも、御堂彰彦の映画って素敵よね。彼の作品は全部見ているわ。その中でも特に『雪と灰』は同性愛映画としても傑作だと思う。もうずいぶん前の作品なのに。わたしあの映画が一番好きなの。彼の特徴でもあるフィルム全体を覆う、独特でノスタルジックな青の色彩は……あ、ごめんなさい。目のお悪い方にぺらぺらと……無神経でした」
「いえ、いいんです。気になさらないで」
それは、わたしが彼女に見せた隙だった。小賢しくも、喋りすぎてついうっかり、というのを演出したつもりだった。わたしは殊更申し訳なさそうな声で謝罪した。乗ってきてくれればいいのだけれど、と思いながら、彼女の儚げな横顔を見ていた。
「目が見えないのは誰のせいでもないし。それに……ここには『雪と灰』のロケ地が見てみたいって口実で、来たんです」
彼女は少し迷いながら、そう口にした。まるで諦念の薄いベールを、そっと身に纏うようにして。
「口実、ということは……本当の目的は違うのかしら」
誘うように耳に直接注ぎ込むように息をかけると、彼女の頬が一瞬で赤くなった。まるで熟れた柘榴のように。爆ぜた心のその先に、甘い欲望の果実が少しだけ見えた気がした。
「違わないのですけど……。昔、一度だけここに、……このお店に来たいねって話した人がいて、……それで」
わたしは優しく、未だ折りたたんだ白杖を握り締めている彼女の手の上に、自分の手のひらを重ねた。彼女は驚いたように複雑な表情を浮かべて、わたしの方へと顔を向けた。
「何か事情があるみたいだけど。……わたしでよければ一緒に飲みませんか。詮索は、けしてしませんから」
彼女の指の付け根を、そっと撫でる。左手の薬指の上を。結婚指輪の上を。わたしの爪が整えられていることは、彼女も気づいてくれただろう。
「でも、わたし、……それにわたしは目が不自由で……」
「大丈夫。今日はずっと、わたしがあなたの目になるから」
すると、その瞬間だった。彼女の頬を一筋の涙が伝って落ちていった。それ以上はこらえきれなかった、とでも言うように。わたしは慌ててハンドバッグの中からハンカチを取り出して、彼女の頬を拭った。
びっくりした。まさか泣くなんて。思ってもみなかった。
「ごめんなさい。急に泣いたりして、みっともないですね」
「ううん、そんなことない。でも、ちょっと驚いたわ」
わたしは彼女の頬に手を触れた。彼女はわたしの手を拒まなかった。色素の薄い肌は、まだしっとりと濡れていた。
「名前、聞いてもいい?」
彼女は僅かに逡巡したあと、小さな声で、美しい雪と書いて美雪です、と答えた。
「……岩井美雪。それが今のわたしの名前」
その言葉に、わたしの目は自然と彼女の左手に吸い寄せられた。正しくは薬指に嵌まった、銀色に光る指輪に。
……そのとき、不思議な、既視感のような違和を感じた。まるで朝方に見る悲しい夢がリフレインしているみたいに。けれどわたしは彼女を口説き落とそうとしていて、それに夢中で、そんなことに構う余裕なんて、なかった。
「今の? 結婚して名字が変わったということかしら」
わたしの問いかけに彼女は何も答えず、ただ、顔をテーブルの上に向けている。
その様子に、少しだけ胸が痛くなる。言ってはいけないことだったのだろうか。なにか、話題を逸らしたほうがいいのだろうか。
「美しい雪。……あなたが雪なら」
わたしは声のトーンを上げ、それから少しばかり間を取り、
「わたしは灰ね。そう呼んでくれたら嬉しいわ」
「……ハイネ」
一瞬、え、と思い、間違いに気づいて慌てて訂正しようとしたとき、彼女の鞄の中から小さな電子音声が聞こえた。
「電話、失礼しますね。……もしもし」
スマートフォンを耳にあてがい、彼女は口元を手で覆った。ええ、そうなの、ごめんなさい、今は……ちらりとわたしの方を気にしながら、今はボランティアの人と一緒で、うん、遅くならないうちに……うん、ありがとう。トーンを落とした会話の向こうから、小さく漏れ聞こえてくるのは男の声だった。
それは、もしかしなくても夫の声だろう。
わたしはその声に少しだけ、ううん、ものすごく嫉妬した。自分から遊ぶつもりで人妻に……それも目も見えない相手に近寄ったくせに。彼女が誰かの庇護の元にいることは初めからわかっていたくせに。それでも、わたしは傷ついた。
まるで薄い紙で指先を切ってしまったときのように、疼くような鈍い痛みでもって、嫉妬の暗い火がわたしの心を焼いた。そして、電話している彼女の表情をいつまでも覚えておこう、と思った。この人は、嘘をつくときに、言い訳をするときにはこんな表情を浮かべるのね、と思いながら、わたしはじっと、彼女の横顔を見ていた。
「……ごめんなさい」
電話を終えると彼女は申し訳なさそうにそう言って、頭を下げた。
「気にしないで。電話がかかってくるのは、あなたのせいじゃないんだから」
「ありがとう、ハイネさん」
彼女の笑みは、薄い氷で出来た青い花に似ていた。綺麗なのに儚げで、すぐに溶けてしまいそうで。胸が締め付けられてしまう。
どうしてこんなことを思うのだろう、とわたしは考えた。
いつもの……人妻との軽い恋愛を楽しむときと、何が違っていたのだろう。
違和感。
それは彼女が見せた、涙のせいだろうか。
間近に見えた男の、夫の影のせいだろうか。
あるいは……彼女の目が見えないからか。
そのどれかのような気もするし、どれでものような気もする。ただわかるのは、魂や遺伝子のレベルで彼女に惹かれているということ。彼女の立ち居振る舞い、小さく震えるまつげやグラスに寄せられる唇、華奢な指、白いうなじにかかる、やわらかそうにほつれた髪の毛。そういったすべてが、わたしの心の深い部分を刺激しているということ。
「ハイネさん……というのはきっと、本名じゃないのでしょうね」
彼女は小さく笑い、わたしは黙っていた。
「でしたら、さっきのようにわたしのことは雪と呼んでくれませんか。愛称で呼んでもらえるの、好きなんです。世界でただひとり、わたしをそう呼んでくれるのがあなたなら、嬉しいです」
彼女の言葉は愛の告白以外のなにものでもなかった。この瞬間から彼女は、わたしの、わたしだけの〝雪〟になった。
雪。舌の上にその言葉を乗せると、あっという間に甘く溶けて、喉の奥に流れていった。その蜜は、胃の腑を焼くほど熱かった。
彼女の……雪の目が潤んでいた。頬が、暗いバーの照明の下で、赤く染まるのが見えた。
本当は、『雪と灰』をもじっただけだった。
冗談を言っただけのつもりだった。
しかし彼女は雪になり、
わたしはハイネになった。
……けれどわたしは知らなかったのだ。
彼女を同じ愛称で呼んだ人間が、かつて、この世にもうひとり、いたことを。
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