第64話 最強打者・最弱打者

「私、マネージャー辞めるから」


 珠姫は背を向けながらそう言い放つ。


「えっ、ちょっ」


 唐突なことに巧は慌てる。しかし、その返事も聞かずに珠姫は打席へと向かった。


 慌てる巧を美雪先生が制止する。


「多分、覚悟を決めたんだよ。見守ろう」


 そう言う美雪先生は真剣な表情だ。何か察するところがあったのだろう。


 マネージャーを辞める。それは選手に専念するということだ。


 不安と緊張に襲われながら、珠姫は打席を迎えた。




 怖い。


 打席に立つとデッドボールの恐怖心が頭によぎる。


 しかし、マネージャーを辞めるという宣言をし、後戻りができなくなった。私はもう選手として生きていくしかない。


 何故この判断をしたのか、それはやはり自分に対する甘えを排除するためのものだった。


 打てなくてもマネージャーだから仕方がない。それは多分心の底で思っていたことで、気付いていても気付かないフリをしていた。


 美波に『失望した』と言われてすぐ理解したくらいなのだ、これで気付いていなかったなんて嘘でしかない。


 イップスとなった原因、世界大会で受けたデッドボールを思い出す。


 速いボールに対応しようとし、踏み込んだところでボールが左肘に直撃する。そのまま倒れ込んだ先で、落下した左肘を落としたバットで痛打した。


 鈍く骨の折れる音が未だに頭から離れない。


 そしてその瞬間が何度もフラッシュバックする。


 ああ怖い。


 怖いけど、打たなければファーストを守るだけのただの置物だ。


 打つしか私の生きる道はない。


 私はバットを構える。


 初球を迎え、それを見送った。判定はストライクだろう、そう思った上で見送った。


「ストライクッ!」


 選球眼は衰えていない。際どい球だと判断は人によって変わるが、確実なものはしっかりと見れている。


 二球目の変化球、これも見送る。


「ボール」


 僅かに下に外れていた。大丈夫、しっかり見れている。


 三球目、内角低めのストレートにスイングしていく。結果は空振りだが、手応えはある。


 マネージャーの経験も全て今の私の糧になっている。重い野球道具を持ったり、たまにはそのまま走ったり、あとはノックを打てる人がいないからノックしたり、それが自分の力となっていることを感じる。


 パワーがついた。足も速くなった。ボールをどうやって捉えればどれくらい飛ぶのかも理解した。


 自分がマネージャーをしていたことは間違いではなかった。あとはその経験をどう活かすかだ。


 四球目、ストレートだ。これはタイミングを合わせてバットを振り抜く。バットはボールの下を捉え、打球はバックネットに当たるだけのファウルだ。


 感覚は悪くない。ただ、まだ足りない。


 しかし、私は一つだけ気がついた。私がボールを怖がっていたのは、『速い球に踏み込んだ結果、デッドボールになったから』だということ。


 世界大会でのボールは百キロ後半から百十キロ中盤くらい。対してこのピッチャーの球は七十から八十キロくらいだ。


 そのことに気がついた私は、スッと力が抜けた。


 痛いだろうけど、当たっても以前のような大怪我にはならないだろう。


 そして打てないことも仕方のないことだ。十割打てる打者なんていないのだから。


 ただ、打てないことを、マネージャーをしていたから中途半端になってもいいという甘え、そして怪我をしたから打つのが怖いなんていう言い訳を理由にしてはいけない。だってそれなら選手を辞めればいいのだから。


 力みはない。この体は自分のものだ。強張っていた体が自分の思い通りに動く感覚があった。


 五球目、投げ上げるような投球動作、指からボールが離れる瞬間までハッキリと見える。


 指先からボールを抜くような投球から、変化球ということを直感し、そこからどのように変化し、どの辺りに着地するのかということを予測する。


 そしてその着地地点に向かってバットを思いっきり振り抜く。


 まだ足りない。もっとだ。


 最高の角度、最高のタイミング、最高速度で最高のスイングを!


 その瞬間、破裂音にも似たような音が響く。


 内角低めへのスライダー。これを私は掬い上げた。


 ベンチが騒がしい。私が打った瞬間、それを見て全員が立ち上がっている。


 打球は上がる。上がる。上がって落ちてこない。


 私は打った瞬間に確信した。一塁へは走らない。バットを投げ、打った瞬間に打球を確認しながら歩き出した。


 伸びて、伸びて、上がった打球が力尽きた頃、センター方向にそびえ立つスコアボードすら越えていた。


 ああ、この感覚だ。ボールを芯でとらえた感覚、合宿ではまだ一歩足りなかった最高の瞬間。白球を捉え、私の全てを白球に乗せてスタンドへ届ける感覚、これこそが私の恋焦がれていた感覚だ。


 一塁、二塁、三塁と順番にゆっくりと回る。……そして、名残惜しくホームを踏んだ。


「ナイスバッティング」


 先にホームに還っていた由真ちゃん、そして光ちゃんが私を待っている。


「珠姫さん……」


 光ちゃんは泣きそうな顔で笑っていた。そんな光ちゃんの頭を撫でながら、私はベンチへと戻った。


「……ナイスバッティング」


 巧くんはさも当然といったような表情を浮かべている。


 でも、動揺しているような喜んでいるような表情も隠し切れていなかった。


「ありがとね」


 私は左手を出し、それに合わせて巧くんも左手を出す。


 ハイタッチの乾いた音が響き、私は待っている他のチームメイトの元へと向かう。


 夜空ちゃん、そして一、二年生に祝福され、その中で私は言い放った。


「お待たせ、みんな」


 私はどこまでも高みを目指す。


 昨日の私を超えろ!


 今の私よ進化しろ!


 明日の私に追いつけ!


 私は自分自身、越えるべき壁を乗り越えた。


 私はもう、立ち止まらない!




 六回の裏、三点を返した。表に満塁ホームランを打たれたが、スリーランホームランで返した。


 一点差、まだまだ試合はわからない。


 珠姫が打ったことを心の底から嬉しく思っている自分がいる。それはもう試合がどうでもいいと思えるくらいに。


 しかし、そんなわけにもいかない。


 一点ビハインドとはいえ、強豪校相手に接戦だ。


「みんな、勝ちに行くぞ」


 夏大会前、相手に苦手意識を植えつけておきたい。そして、強豪相手にこれほど接戦となるのは何試合かやって一試合くらいかもしれない。それならその一試合をもぎ取るだけだ。


 巧は終盤を見据えて起用を考えながら、ただただ見守っていた。

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