4月12日(金):解剖と保健室

【京一】


 僕と晃、凛、宮本、ついでに山本。

 僕らが所属する2―Aの担任を務める真田先生は、授業では生物の科目を担当している。



 先日の進路面談にて、何やら唐突に夢に関するうんちくを語ってきたことでも分かるように、直球に言って彼はいささか変わり者である。



 ただまあ、彼のどこが変わっているのかというと、これが明確に説明するのは難しい。

 とかくその風貌、口ぶり、思想――あらゆる面から、なんとなく『マッドサイエンティスト的』な雰囲気が滲み出ているのだ。


 体育担当兼生徒指導部の鬼教師がジャージ姿で廊下を闊歩かっぽするより、真田先生が白衣姿でじっと座っている方が怖い、――とにかく彼はそういう人間なのだ。




 クラス分けがされて初日、クラスを受け持つ担任として挨拶代わりに言っていたが、もともとは研究者になりたかったらしい。

 それがどうしてか高校教師になってしまったのだと。

 そして解剖が好きなのだと、力強く言っていた。



 本来うちの学校では生物の授業のカリキュラムに解剖なんて組みこまれていない。

 しかし彼は、「教科書なんか見るより実際に解剖したほうがよっぽど理解できますヨ」と力説し、授業でカエルの解剖をすることを強引に決定させた。



 ……今日がまさに、その授業なのである。



 よりにもよって朝一番の授業。


 僕ら生徒の間にはどんよりと陰鬱な空気が流れるが、生物教室の教卓に手をつき手順を語る真田先生は実に楽しげだ。



 いくつかのグループに別れ、用意された大きなカエルを真田先生の指示に従って切りさばいて分解していく。



 今どきの高校生がカエルの解剖などさせられて、どのような反応をするのかは想像に難くないだろう。


 男子は次第に慣れてきて楽しげにやっているような者もいたが、女子はというと、それはもう阿鼻叫喚の嵐であった。

 ただし、叫びながらでもなんとかこなせたのだから彼女らにもまだ余裕があったのだろう。




 凛はその日、朝から表情が硬かった。


 いつもと違って余裕を持って教室に入った僕を見て、宮本などは大袈裟に驚いていたが、凛はその異様ささえ気付く素振りもなく、ただ弱々しい挨拶をしてきただけだった。


 いつも抜き身の刃のような鋭い雰囲気があるのに、今日はずいぶん元気がない――とそのときすでに不思議には思った。



 解剖の授業が始まっても、彼女は他の女子のように叫び声をあげることはなかった。


 しかしそれは落ち着いていたわけでも気丈に振る舞っていたわけでもなく、単に声をあげる余裕すらなかったのだ。



 机の上に横たわるカエルを見てすっかり硬直してしまい、そして赤々とぬめり光るその中身を目にしてしまったとき――ついに彼女は卒倒してしまったのだった。






「小智くん。凛ちゃんの様子を見に行くから、一緒に付いてきてよ」


 昼休みの時間になるや否や、宮本が僕の席にやってきてそう言った。


 朝一の生物の授業で倒れてしまった凛はそのまま保健室へと運ばれ、午前中の授業を休んでいた。

 友達想いの宮本が凛の見舞いに行きたがるのは分かるのだが、付き添いをつけるなら他に仲の良い女生徒でも誘えばいいのになぜ僕なのか。

 疑問には思ったが、しかし何であれ宮本に誘われたのだから断る道理はない。



 宮本と一緒に保健室へ向かう。


 そういえばこの高校に入学してからほとんど入ったことすらない。

 他の教室にはない爽やかな清潔感となぜか落ち着く独特な匂い。きっと宮本が隣にいることでいくらか助長されているかもしれない。



 ベッドが三つ並んでいる。

 それぞれ仕切るためにカーテンのレールが上部に通っている。三つの内、窓際のベッドだけカーテンが閉じられていた。



「凛ちゃん、大丈夫ー?」


 宮本は控えめに声をかけた。その声を受けて、凛がカーテンをめくって顔を出した。



「……なんで京一がいるの」


 開口一番、凛は僕の方を見てそう言った。

 その強気な眼差しから、それなりに調子は回復したのだと分かる。



 今まで横になっていたため、凛はトレードマークのようにいつも束ねていたポニーテールを解き、その黒髪をまっすぐ背中に流していた。

 彼女の髪型は幼い頃からずっと固定だ。髪をおろしている姿はあまり見ない。




「心配かけてごめん。もう大丈夫だから。食欲はちょっと、湧かないけど」


 保健室内に、僕と宮本と凛。

 養護教諭の先生は昼食を食べに行っているらしい。



「うん、大丈夫そうならよかったよ。それにしてもカエルの解剖って、ちょっとね……。私もけっこう堪えたよ。凛ちゃんもああいうの、苦手だったんだね」


「子供の頃からカエルにトラウマがあって……。今日はなんとか頑張ろうと思って来たんだけど、やっぱりダメだったな」


 凛は伏し目がちに答えた。



「子供の頃にトラウマ? ……なにかあったの、小智くん?」


 凛の言葉を聞いて、僕の方をちらと見やる宮本。本人に聞くのは不躾ぶしつけかと思い、幼馴染みである僕に尋ねたのだろうが、しかし……。



「え、えーっと? ……なんかあったっけ?」


 凛がカエルにトラウマを?


 きっかけとなるような何か出来事などあっただろうか。思い当たる節がない。



「なによ、覚えてないの? あんなにショッキングな出来事を?」


 信じられない、といった目で凛が僕を睨む。



「あーもう、カエルってなんであんなに気持ち悪い姿してるのよ。おたまじゃくしならまだ可愛げがあるのにさ。もうずっとおたまじゃくしのままでいればいいのに」


 凛がため息交じりにそう言った。



 …………。


 その言葉に、僕は引っかかるものがあった。


 強烈な違和感、いや既視感。





「凛、いま、なんて言った?」


「…………カエルが気持ち悪いって言っただけだけど。なに、そんな食い付くことでもないでしょ」


 怪訝な目で僕を見る凛。


 当然だろう、何気ない呟きに対していきなり真に迫る勢いで食い付かれたのだから。

 だがいぶかしまれるのも構わず、僕は黙り、必死に考えを巡らせた。彼女の今の発言が、何か、とても不可解に思えたのだ。



 ――思い出した。



 彼女の言葉は、昨日の夢の中で彼女が言っていたこととまさしく同じだったのだ。

 あの、幼い凛が魔法少女に変身して怪物と戦う奇妙奇天烈な夢――あんなものは僕の無意識が産んだ妄想の産物に違いないのだが。


 その夢の中での発言と、今の彼女の発言が重なる。


 そうだ、昨日はカエルの怪物と戦うという内容だった。戦いの最中、幼い彼女はずっとカエルに怯えている様子だったように思うが……。





「……なあ、凛。昨日の夜ってさ、どんな夢、見てた?」


 僕は、一応訊ねてみた。



「は? 何よいきなり」

「いや、ちょっと、気になってさ」


「……別に。なにも夢なんか見なかったけど。私、普段あんまり夢なんか見ないし」

「……。そ、そうか。ごめん、なんでもない」


 夢で幼い凛が言っていた言葉と、今目の前で凛が言った言葉が一致したため、一瞬、もしやと思ってしまった。


 いやでも、そんなことあり得ない。


 結局、あの小人も含めて、すべてはただ僕が見た夢に過ぎないのだ。うん、そうだ。




 凛と宮本が二人揃ってきょとんとしている。僕は我に返った。


「京一、さっきから何言ってんの? 頭おかしくなったの?」


「う、うん……小智くん、大丈夫? 凛ちゃんと一緒に保健室で休んでいけば? 隣のベッド、空いてるじゃない」


「ちょっと有紗、何言ってんのよ。……せめて一つ空けてほしい」


「えー、でもいつも隣同士の家で夜を過ごしてるわけでしょ? 部屋もちょうど隣り合う位置だって言うし、じゃあ隣のベッドで寝るのと同じようなものじゃない?」


「全然違うし!」




「……いやあの、大丈夫だから。気にしないでくれ、ホント」


 何か別方向に話が飛躍している気がしたので、僕は慌てて取り繕う。



 僕のせいで妙な空気になってしまったが、とにかく凛の様子を確認できたので、僕と宮本は教室に戻ることにした。





「凛ちゃん、卒倒しちゃうほどカエルが苦手だったんだね。今日になるまで、解剖の授業が億劫だなんて話、してこなかったけどな」


 廊下を歩きつつ、宮本が言う。


「まあ、凛はあまり他人に弱音をもらしたりしないからな」

「そうみたいだね。小さな頃からそうなの?」

「うん、まあ。子供の頃から結構強気な女の子だったし。でも、特に中学に入ってから顕著になったかな」


 性格ががらりと変わったというよりは、もともと彼女が持っていた真面目さとか気の強さとか、そういう部分がより強化され、――それに反比例して、その他の明るさとか無邪気さといった子供らしい部分が身を潜めたという感じだ。




 その変化に対して、単に、以前に比べて暗くなったとか冷たくなった、といった悪い印象を抱かれてしまったとしても、……それは無理もないことなのだろう。

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