第57話 「高校」という言葉が醸し出す情緒論
これはプロ野球本を読んでいて、逆説的にいつも痛感することなのですが、甲子園という名の一大イベント、と言っても、年に2回なのではありますが(苦笑)、予選も含めて、日本全国、大騒ぎになるわけですな。ありゃあ、ホンマ、マジで、いやあ、何というか、高校の部活のレベルなんかはるかに超えた場所にあるな、というのが実感。
甲子園に出たい
甲子園で燃え尽きたい、完全燃焼したい
肩が折れても投げ抜きたい
仲間とともに一日でも長く野球をしたい
・・・・・
冷静に考えたら、プロに行くほどの選手なら、こんな部活なんかより先のことを考えたほうがよっぽどいいのではないかと思えなくもないのですが、こんなことを言っている私のほうが、冷たい人でなしのように見られてしまいかねない。
それほどにも、「甲子園」というよりも、「高校野球」、いや、「高等学校」というものが持っているもろさとはかなさ、そして、その裏返しとしての宝物のような価値に、人々がいかに魅せられているか、ってことですな。
前回私は、少女漫画をも引合いに出しましたが、これだって、結構な割合で「高校」が登場していましたね。今も、そうなのかな?
私が大学に入った頃は、今以上に高校というものが熱く語られていたように思います。高校入試に失敗してその後大検を通して大学に行くというルートをたどった私は、当時の周囲の馬鹿ども、もとい、大人の皆さんから、クソの役にも立たない、もとい、ありがたいアドバイスをしっかりいただきましたわなぁ。
「何も大検なんかしなくても、定時制高校でも4年間行ってみんなと一緒に「卒業」すればいいじゃないか」
それどころか、
「どうせなら定時制高校に1年在籍して、来年公立普通科を受けなおせばいいじゃないか」
なんてのもおったな。
そんな手が効かなくなったと思ったようで、その相手は何を言ったか。
「いやあ、大検を取って大学というのは効率的なやり方であることは認めるけど、同世代の仲間と何かをするとか、そういうことがないのも、寂しい話だ」
とか何とか、今度は泣き落としの出来損ないの、もとい、心の叫びともいうべきお言葉をくださった方もおられたな。
そういうときほど私は、プロ野球本で読んで得た意識をもとに、そんな寝言を、もとい、世にも貴重なご意見を叩きのめして、もとい、丁重に辞退させていただいておったわけですよ。
ところで、私の父は女にもてまくる人生を送りましたが(ついでにそれで家庭も崩壊している~苦笑)、私の方は、こんなことばかり言っていたからか、女性があまりよりついてくれない人生を歩んでおります(それにしてもすさまじい反動、ではあると思っております)。
まあ、野球からだんだん話がずれて、しまいには私の愚痴になってしまいましたけど、ここまで述べたことの前提として、やはり、はかないもの、必要なようで実はなくてもいい嗜好品のようなものであるはずの「高等学校」という制度が呼び覚ます情緒論が、この日本社会には大きく根付いていることがあぶりだされてきます。
高校野球、少女漫画、学習塾・予備校(今は少子化でかつての勢いはないが)、制服(これも、被服業者、デザイナー、かれこれ仕事があるでしょ)・・・
これ以外にもいろいろあるでしょうけど、本当に、「高校」という名のつくものやそれが舞台になるモノ、そして、そこに群がるさまざまなモノが、「青春」の象徴となっている「高校」という名の下から派生した「利権」、と言えば言い過ぎかもしれんけど、そうくくることのできる「仕事」は、ホンマ、たくさんあるなぁ・・・。
これは蛇足、へびのあしとして、読んでくださいね。
で、私のこの文章というか、私の思うところというのは、そういうものに対する強烈なアンチテーゼ、ってことになると思われる。ある意味、落合博満氏や金田正一氏(ある意味正反対だが、方向性は実はほとんど一緒だったりすると思うけど)のような価値観と近いところからの発信、ってことになるでしょうな。
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