第28話 人を見て法を説け

 高校時代からプロ野球本を読みだして、つくづく思ったこと。

 まさに、この言葉を実践せねば、人は育ちもしないということ。

 

 私が高校卒業の年まで養護施設(現在の児童養護施設)にいたことはすでに述べておりますが、その施設の職員で主力だったのは、短期大学を出て間もない、20代前半の若い女性。それも、短大で何を学んできたかと言えば、幼児教育とかなんとか。そんな調子でさて、年もそれほど違わない、しかも力も頭も上を行きかねない少年たちを「指導」なんて、できるのか、って話にもなるでしょう。

 はあ、まず、無理でしょうな。普通の話なら。

 もちろん、そういう条件下でもうまくやっておられた方もいないではない。だが、たいていの場合はそうじゃない。

 しかも、当時は今以上に、何が悪いと言って、職責の「ネーミング」が、いくら法令に従ったものとはいえ、悪すぎた。

 現在で言うところの「保育士」ですが、当時は「保母」と言っておりました。まれに男性でその資格を持っている人は、「保父」と呼ばれていた。

 でもなあ、20歳そこらの言葉悪いけど「ねえちゃん」に、何ができるか?

 ってことにも、なりましょうが。

 しかも悪いことに、中には自分が指導者でございます、自分の指導効果はほれこの通りと言わんばかりの言動をする職員もいた。今思っても、不愉快ですな。こんなもの、改善もくそもない。とっととやめちまえ、それしか言葉が出ないね、今でも。


 そこに来て、プロ野球の本を読み始めたのです。


 例えば、三原脩という人は、Aという選手は厳しく鍛えるが、同じ苗字のBという選手は言うなら天才肌、これはもう、気持ちよくプレイさせればよし、そんな対応がすんなりできるときている。それは個人レベルだけでないことは言うまでもなく、そのチームでやっていたことのある意味真逆のやり方を、前のチームではしていた。なんでも、高卒のやんちゃ者の多いチームだから、そうしていたってわけ。彼らだけでは心もとない、そこは、大学出の球界のスターをトレードで獲得して、チームの精神的支柱にするとか、そういう手法も使っていた。


 こういう事例を書籍を通して当たっていくにつれ、なるほど、世の中というのは一元的な見方ですべてがわかるはずもないことが、わかってきました。相手を見て物を言わないと、大変なことになるという思いを強くしましたね。


 さて、その当時養護施設などで接触のあった人たちとの縁ですけど、基本的には、すべて切れてしまっていますね。いい悪いじゃない。それが、現実ですな。

 その代わり、それに代わっていいご縁が、時が経つにつれ増えてきました。

 これはもちろん、ありがたい。

 もちろん、それがきれいに変わっていったわけではないが、今思えば、徐々にそういう付合いが増えていくにつれ、当時の悪い縁は切れていったというのが正直なところでしたな。その後も紆余曲折はありますが、相対的にこの半世紀来の私の人生を読み解きなおせば、おおむね、そういう流れで変化してきた。


 その一助となったものの一つが、「職業野球本」なのです。

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