Flag8.お兄ちゃん
『大きくなったら正義のヒーローになる』
それが俺の口癖だった。もうすぐ十歳になる男の夢にしては子供じみていたと思う。しかしそれには理由があった。俺がそう言うと決まって、五歳離れた妹、聖奈がこう言うからだ。
「やっぱり、おにいちゃんってすごいなぁ」
そう言って嬉しそうに喜ぶ聖奈の顔が好きだったから、俺は事あるごとにその夢を語っていたのだ。
俺達には、親父がいなかった。聖奈が産まれて間もなく、母親は原因不明の病気で意識不明になった。その母親を治す手立てを探すと行って、親父は俺達を親戚に預けたっきり帰って来なかった。
『勝一、お前は男の子だ。聖奈と母さんの事、よろしく頼むぞ』
そう言って俺の頭を撫でた親父の目をハッキリと覚えている。その言葉は俺の中で神格化され、俺の行動の指針となっていた。
母さんは親戚の家の近くの病院に入院していたが、程なくしてもっと設備の整った病院に移すと言われ、転院していった。俺は母さんに会う事すら出来なかった。親戚に聞いても居場所を教えてくれず、今でも母さんの行方は知らないままだ。
そうして俺には、幼い聖奈だけが残った。何も知らずに俺を見つめて無邪気に笑う聖奈を見て、俺は決心した。コイツだけは俺が絶対に守る、と。
親父の遠い親戚だと言うおじさんとおばさんは、俺達にまるで無関心だった。二人は俺に生活費だと言って月に僅かな金を渡し、それ以外は俺達に一切干渉しようとしなかった。俺はその金をどうにかやりくりし、まだミルクが必要な聖奈と自分の食事を賄っていた。俺達にあてがわれた物置のような埃臭い部屋で、俺は必死に聖奈の世話をした。この頃は、友達と遊んだり、テレビを観たりした記憶はない。
そんな生活を続けていたら、二人は聖奈を保育園に預けると言い出した。どうやら俺が学校に行っていない事が行政に知られ、二人に注意がいったようだった。二人は顔をしかめて、俺に学校へ行けと言った。
俺は心配だった。聖奈は人見知りが激しく、俺以外の人にはあまり懐かなかった。そんなコイツが保育園にいって大丈夫なのだろうか?と思い、気が気ではなかった。
初めての登園日、聖奈は俺と離れるのを嫌がって泣きわめいた。保育園の入口で、先生に抱きかかえられながら泣いている聖奈を置いて、俺は後ろ髪を引かれるような気持ちで学校に行った。
初めて行った学校は、とても楽しかった。友達が出来て、勉強をして、初めて子供らしい事をしたと思う。それでも、俺の頭から聖奈の泣き顔が離れる事はなかった。
学校からの帰り、俺は聖奈を迎えに行った。とても不安だったが、意外にも聖奈はニコニコと笑って俺を待っていた。
「聖奈ちゃんはとても良い子で、お友達とも仲良くしていましたよ」
先生が笑顔で言ってくれた言葉が、俺はとても嬉しかった。その日は、俺も聖奈も疲れきっていて、二人してすぐに寝てしまった。
そんな生活がしばらく続いた頃、不意に聖奈が俺に言った。
「おにいちゃん、せいなたちのぱぱとままはどこにいるの?」
俺は返答に困ってしまった。聖奈に理解出来るように話すには、俺も幼すぎたのだ。
そんな時、聖奈を不安にさせないため、俺は決まって嘘をついた。
「今は遠い所に行っているけど、もうすぐ帰ってくるよ」
そう言って俺は聖奈の頭を撫でた。聖奈は俺が頭を撫でると、いつも嬉しそうにグリグリと自分の頭を俺の掌に押し付けてくる。もっと撫でて、と言われているようで、俺はなんだかくすぐったい気持ちになった。
ある日、聖奈が熱を出した。数日経っても熱は下がらなかった。どんなに頼んでも二人は病院に連れていってくれなかった。俺は苦しむ聖奈をおぶって、近くの町病院に連れていった。医者は聖奈を診るなり、入院が必要だと言った。病院のベッドで横たわる聖奈の小さな手を、俺はずっと離せなかった。
「…おにいちゃん、せいなしんじゃうのかな…?」
聖奈は真っ赤な顔をして、涙を浮かべながら苦しそうにそう言った。
「そんなわけないだろ。絶対治るよ。お兄ちゃんが絶対にお前を守ってやるからな」
俺は涙を必死に堪えながら、笑顔で聖奈の頭を撫でた。根拠なんて全くなかったけど、俺はそう信じていた。俺は医者に頼み込んで、一日中聖奈の側にいさせてもらった。
「…おにいちゃん…ごめんね…ごめんね…」
夜中に高熱にうなされた聖奈が、うわ言のようにそう言っていた。俺はただ聖奈の手を握り、神様に祈っていた。
…妹を助けて下さい。俺が代わりに死んでもいいから、どうか聖奈だけは助けて下さい。
俺は一心にそう願っていた。
朝、目を覚ますと、聖奈が起き上がって俺の頭を撫でていた。熱はすっかり下がっていた。医者も驚く程に回復していた。
「おにいちゃんのおかげでよくなったよ。やっぱり、おにいちゃんってすごいなぁ」
聖奈はそう言って笑った。俺はトイレに篭って、一人で泣いた。そして神様に感謝した。
自分に不思議な力があると気付いたのは、丁度その頃だった。聖奈と出掛けている時や学校で、毎日のようにトラブルに巻き込まれるが、俺のちょっとした発言や行動でその問題がたちまち解決する。女の子にもすごくモテた。まるで自分が、漫画やアニメの主人公になった気分だった。
「おにいちゃんは、せいぎのヒーローみたいだね」
俺がその日学校であった出来事を語ると、聖奈は嬉しそうにいつもそう言った。それから、俺の夢は正義のヒーローになる事になった。聖奈の事をどんな時でも、どんな事からも守る、正義のヒーローだ。
ある夏の日、聖奈と出掛けていた俺は川で溺れている子供を助けた。その子にもその母親にもすごく感謝されたが、一番嬉しかったのは聖奈が言ってくれた言葉だった。
「せいなね、つよくてやさしいおにいちゃんのことが、せかいでいちばんすきだよ」
その夜、俺は熱を出した。夏とはいえ、濡れたまま家に帰ってきた事が原因だったようだ。心配する聖奈を宥めて、俺は部屋の外で寝た。聖奈に病気を移す訳にはいかない。おじさんとおばさんは、俺達が家で騒ぐと良い顔をしないので、俺は極力咳き込まないようにした。とても苦しかった。
目覚めると、聖奈が心配そうな顔で俺を覗き込んでいた。その傍らには、ぐちゃぐちゃのご飯と野菜炒めのようなものが皿に盛り付けられていた。聖奈が好きで、俺がよく作っていたものに似ていた。
「ごはんつくったの。おにいちゃん、たべて?」
聖奈は恥ずかしそうに顔を赤らめながらそれを俺に差し出してきた。その手は、慣れない包丁を使ったせいか、傷だらけだった。湯気を上げる野菜炒めを一口食べたら、なんの味もしなかった。
「おにいちゃん、せいなのごはんおいしい?」
不安げな顔で俺にそう問い掛ける聖奈に俺は言った。
「…ああ、すごく美味しいよ」
すると聖奈は、はにかみながら頬を染めて笑った。嬉しくて、嬉しくて、俺はその日生まれて初めて、聖奈の前で泣いた。
聖奈は、俺にとっての光だった。
聖奈がいたから俺は頑張れた。
聖奈がいたから毎日が楽しかった。
聖奈がいたから俺は生きてこられた。
聖奈がいればそれでいい。聖奈が幸せになれればそれでいい。
俺達はこれからもずっと一緒なんだ。
俺はそう、信じていた。
*
その日は、雪が降っていた。俺達の部屋は冬になると凍えるように寒くて、俺達はいつも身を寄せあって眠りについていた。朝、目を覚ますと、外の景色が一面の白銀に覆われていた。
聖奈は雪が好きだった。彼女は外に飛び出すと、思いっきり雪と戯れていた。しばらく姿が見えないと思ったら、急に遠くから走り寄って来て俺の袖を引いた。
聖奈に引っ張られた先には、不格好で小さな雪だるまが二つあった。少し大きい方がお兄ちゃん、この小さいのが聖奈、そう言ってコロコロと笑っていた。
その日、俺にはある計画があった。明日の十二月二十五日は、聖奈の誕生日だ。名前の由来でもあるクリスマスと、彼女の誕生日を祝って何かプレゼントを買ってやろうと思っていた。今までは、金のやりくりに不慣れで、プレゼントを買ってやる余裕がなかった。だけど、聖奈も今年で五歳だ。何か女の子らしい、可愛いものをプレゼントしてやりたかった。
俺はこの日のために貯めた金を持って、バスに乗った。向かったのは、オープンしたばかりの当時日本最大級と言われたデパートだった。ここならきっと聖奈が欲しがるものを買える。聖奈の喜ぶ顔が目に浮かんで、俺はウキウキしていた。生まれて初めてバスに乗った聖奈は、白銀に覆われた街並みを物珍しそうに眺めていた。
デパートにつくと、店内は大勢の人でごった返していた。俺は聖奈とはぐれないために彼女の手を握った。慣れない人混みだったせいか、聖奈は少し緊張しているようだった。しかし、おもちゃ売り場につくと、聖奈は目を輝かせてはしゃぎ回った。
「聖奈、明日はお前の誕生日だろ?何か好きなものを買ってやるから選んできな」
俺がそう言うと、聖奈は飛び上がらんばかりに喜んでいたが、不意に黙りこんで目を伏せた。何かを考え込んでいるようだった。
「どうした?」
その問い掛けに小さく首を振ると、聖奈はおもちゃを選びに行った。俺は首を傾げたが、きっと何を選ぶかで悩んでいるのだろうと思い、気に留めなかった。
しばらく彼女を待っていると、聖奈が俺の袖を引いた。その手に持っていたのは、当時流行っていた特撮ヒーローの変身セットだった。俺が欲しいと思っていたが、諦めていたものだった。
「聖奈、お前それが欲しいのか?」
「……うん」
聖奈は俯きながらそう言った。これは聖奈が俺に嘘をつく時や、何か言いにくい事を言う時の癖だった。
「嘘つくなよ聖奈。俺はお前の好きなものを買ってこいって言ったんだぞ」
「……これがほしいんだもん」
聖奈は頑なに首を振った。俺は少し腹が立って、思わず声を荒げてしまった。
「いい加減にしろ!なんでそんな嘘つくんだ!?」
その声にビクッと体を震わせた聖奈は、目に涙をいっぱい溜めて俺を睨み付けた。
「…おにいちゃんなんて、だいきらい!」
そう言うと、そのおもちゃを抱えたまま人混みの中に走り去ってしまった。俺は呆然としながら、一つ思い出した事があった。
今日は、俺の誕生日だった。
もうずっと自分の誕生日なんて忘れていた。だけど、聖奈は覚えていてくれたんだ。だから自分の欲しいものではなく、俺の欲しいものを選んでくれたんだ。俺に、プレゼントするために。
俺は自分の愚かさを責めた。聖奈を傷付けてしまった。聖奈の優しい心を踏みにじってしまった。
聖奈を探そう。そしてちゃんと話をしよう。そう決心して俺は走り出した。
その時だった。
突然、大きな地震が起きたように店内が揺れた。警報が鳴り響き、店内の照明が一斉に消えて真っ暗闇になった。賑やかだった店内は一転、阿鼻叫喚のるつぼとなった。そこかしかで悲鳴が聞こえ、物が倒れる音や壊れる音が所構わず鳴った。俺も後ろから誰かに突き飛ばされ、床に転がった。
しばらくすると赤色の非常灯が点灯し、店内は血塗られたような不気味な明かりで照らされた。転んだ時に頭を打った俺のぼやけた視線の先に、階段に向かって殺到した人達が折り重なるように倒れていた。血を流している人も少なからずいた。
『お客様にお知らせします。ただ今、店内にて火災が発生致しました』
混乱の極みにあった店内に、アナウンスの声が流れた。
『お買い物中のお客様は係員の誘導に従い、速やかに避難して下さい。繰り返します…』
延々と繰り返されるアナウンスを聞き、客達は次々に階段を使い避難を開始した。エレベーターは止まっていたため、五階のおもちゃ売り場にいた俺達の脱出手段はそれしかなかった。
「……聖奈!聖奈!!」
俺はガンガンと痛む頭を抱えながら、必死に聖奈の名を叫んだ。だが、俺の叫びは客達の悲鳴や怒号、けたたましい警報の音にかき消された。
再び、大きな揺れがあった。それと同時に、階下から煙が立ち上ってきた。俺は混乱する客達の合間から、聖奈の名前を呼び続けた。辺りは段々と煙が立ち込め、息を吸うとすぐに煙で咳き込んでしまう。
「……聖奈!せいなぁ…!」
息が苦しくて、すごく恐くて、俺は泣き叫びながら聖奈の名を呼んだ。階段の人混みはまばらになったが、そこに聖奈の姿はなかった。先に下に降りたのだろうか?いや、聖奈が俺を置いて先に行くなんてあり得ない。その時、俺の脳裏に俺を呼んで泣いている聖奈の姿が浮かんだ。
聖奈はあそこにいる。先程俺達がいた場所で、俺を待っている。そう確信した俺は、身を翻して走り出した。ふと掌に生温かい感触を感じた。俺の手は血塗れだった。転んだ拍子に額から出血していたようだ。後から後から、額から血が流れてくる。俺は血で霞む目を擦りながら、走り続けた。
「聖奈!」
やはりそうだった。聖奈は先程俺と別れた場所でうずくまっていた。聖奈の周りにあるおもちゃが飾ってあった棚は全て倒れ、辺りは数分前とは全く異なり、滅茶苦茶になっていた。
「……おにいちゃん!」
聖奈は俺の姿を見付けると、涙にまみれた顔を上げて俺を呼んだ。俺は聖奈に駆け寄ろうと足を踏み出した。
突然、誰かに思いっきり殴り飛ばされたような衝撃を受け、俺は壁に叩き付けられた。感じた事ない痛みと熱風が、俺の体を包み込む。うっすらと目を開けると、目の前は火の海になっていた。何かが爆発したのだろうか、何も分からず、俺の意識は途切れかけた。
「おにいちゃん!」
その声に俺の意識は引き戻された。痛みで引きちぎれそうな体を起こすと、分厚い炎の壁の向こうに、聖奈の姿が見えた。先程の爆発で、俺と聖奈の間の空間が完全に遮断されていた。
「たすけて!」
聖奈の泣き叫ぶ声が聞こえる。俺は炎に飛び込もうとしたが、炎は凄まじい高温でとても近付く事が出来なかった。
「たすけて、おにいちゃん!」
聖奈が必死に俺を呼んでいる。俺は何度も炎に飛び込もうとしたが、恐ろしくて出来なかった。髪が焦げる臭いがして、服にも火の粉が舞い落ちた。俺は血と涙と煤にまみれた顔で叫んだ。
「せいなぁ!お兄ちゃんが……お兄ちゃんが絶対に助けてやる…!助けてやるからなぁ!!」
そうだ。俺は聖奈の事をどんな時でも、どんな事からも守る、正義のヒーローだ。
俺は聖奈の、正義のヒーローなんだ。
「……うわぁぁぁぁー!!」
俺は悪魔のような炎の中に飛び込んだ。
身を焼かれる痛み、服が焦がされ、目も開けられず息も出来ない。
何も考えられなかった。
ただ、聖奈の事を守りたかった。
聖奈の事を、幸せにしてやりたかった。
例え、俺が死んでも構わない。
だから神様、お願いします。
妹だけは、
聖奈だけは、
助けて下さい。
お願いします。
*
……目の前に、白い壁があった。俺はぼんやりとそれ見つめていた。
俺は死んだのだろうか?
聖奈は無事なのだろうか?
幸せに暮らしているのだろうか?
そんな事を考えていると、誰かが俺の顔を覗き込んだ。
「おにいちゃん、だいじょうぶ?」
聖奈は心配そうな顔をして、俺の頭を撫でた。聖奈のこんな顔は見たくない。俺は笑顔を浮かべて言った。
「大丈夫だよ、聖奈」
俺がそう言うと、聖奈はニッコリと笑って言った。
「せいな、おにいちゃんのこと、だいすきだよ」
そう言って聖奈は走って行った。白い壁の向こうに走って行った。俺はホッとして目を閉じた。
*
目覚めた時、俺は病院のベッドにいた。聞いた話では、俺が炎に飛び込んですぐに、駆け付けた消防隊の人が俺を引き戻したそうだ。デパートは全焼したが、奇跡的に死者は出なかったらしい。俺は警察の人に何度も言った。妹がいたはずだと。俺達は二人でプレゼントを買いに来たのだと。そう何度も言った。
警察の人は俺を諭すような顔で言った。焼け跡から人は見付かっていない。君の妹さんはきっとどこかで生きているはずだ。私達がきっと探し出すから家に帰りなさい、と。
俺は家に帰りたくなかった。あんな所は家なんかじゃない、聖奈がいない家なんて帰りたくない。だけど、もしかしたら聖奈が家に帰ってきているかも知れない、俺の事を待っているかも知れない。そう考えたらいてもたってもいられなくなって、俺は家に戻った。
聖奈はいなかった。代わりに、黒いスーツを着た男の人が二人、俺を待っていた。彼らは俺に話があると言って、俺をリビングに招いた。この家のリビングに入ったのは初めてだった。俺は二人に促され、彼らの向かいの席に座った。すぐ脇のソファーには、おじさんとおばさんが青白い顔をして座っていた。
スーツの男は淡々と話を始めた。
『今回のデパートの火災は、世界で同時に発生したものの一つでテロリストグループの犯行によるものである。世界中でテロが起こったが、幸い死者は出ていない。そこで日本のみテロによる死者が出たと発表する事は我が国の安全保障の観点から、国益を大いに損なう行為だ。君の妹さんの死体は見付かっていないので、死亡したと断定する事は出来ない。よって、妹さんは戸籍上、生きているものとして処理させてもらう』
男は大体こんな事を言っていた。傍らにある鞄から、男は分厚い封筒を差し出してきた。男は、ソファーで憔悴している二人を睨み付けると、急に柔和な声で俺に言った。
『君達がこの二人からネグレクトを受けていた事は確認した。そこで君に選択肢を与える。このままこの家で暮らすか、それとも実家に帰るか。どちらにしても、我々は君への支援を約束させて貰う。君はどうしたい?』
その言葉は、今でもハッキリと覚えている。俺は即座に返答した。帰りたい。俺達家族が暮らしていた家に帰りたい。
俺がそう言うと、男は頷いた。そして俺に空の鞄を渡すと、荷物をまとめてきなさいと言った。
俺は、俺達が住んでいた部屋に入った。小さくて薄暗く、埃まみれの部屋に入ると、微かに聖奈の匂いがした。俺は鞄に俺と聖奈の服や、昔聖奈に買ってあげた絵本を詰め込んだ。ボロボロの絵本は、聖奈が何度もせがんで俺に読ませた、彼女のお気に入りの本だった。俺達の荷物は少なくて、鞄はスカスカだった。
ふと俺は、聖奈の枕元に何か紙のようなものが挟まっているのを見付けた。そこには俺と聖奈が描かれていた。
『だいすきなおにいちゃん』
そう書かれた絵の中では、俺と聖奈が笑顔で手を繋いでいた。
「聖奈」
俺はポツリと呟いた。
返事はなかった。
絵の上に、ポタリと涙がこぼれ落ちた。後から後から、涙が零れ落ちてきた。俺は泣いた。声を上げて泣いた。悲しくて苦しくて、ずっと泣き続けていた。
俺は、許せなかった。
俺達を置いて出ていった親父が。
どこにいるのか分からない母さんが。
俺達を無視したおじさんとおばさんが。
聖奈の死を隠そうとする人達が。
聖奈を助けてくれなかった神様が。
そして何より、聖奈を見殺しにした俺自身が、許せなかった。
それから俺は、人と深く関わるのを止めた。俺はきっと、不幸を呼び寄せるんだ。だから聖奈は死ななくちゃいけなかったんだ。誰とも関わらずに一人孤独に生きていく、それが俺の運命なんだ。
それが、守ってあげられなかった聖奈への、せめてもの罪滅ぼしなんだ。
俺は今でも、そう思っている。
*****
「……それが、俺が人との関わりを避けていた本当の理由です」
勝一は笑いながら言った。
「俺、マリアさんに嘘をついてました。すみません」
勝一はそう言って私に向かって頭を下げた。
「聖奈が死んでから、十二月二十四日が近付くと心が暗くなるんです。どうしてもあの日の事を思い出してしまうから」
まるで他人事のように語る勝一は、そう言ってまた笑った。
「俺、本当に情けない男ですよね」
私は、涙が止まらなかった。勝一の話を聞いて、私は全ての合点がいった。勝一を覆う、暗い影の正体を知った。
「……勝一、ごめんなさい…」
『素敵な妹さんなのでしょうね』
「……私は貴方に、とても無神経な事を……」
『どうせ貴方に似て、生意気で出しゃばりな女の子なのでしょう?』
「……私を許して下さい……」
抑えきれない涙を流す私に、勝一は笑顔で言った。
「仕方ないですよ。マリアさんは知らなかったんですから。その事を知っているのは、この国の偉い人達だけらしいですし。隊長は知ってたみたいですけど」
その言葉に、私は顔を上げた。隊長は勝一の過去を知っていた。ならば何故、私達には教えてくれなかったのだろう?
「きっと隊長は、過去を忘れて強くなれって、俺に伝えたかったんだと思います。俺もそう思います」
私の頭に渦巻く疑問をかき消すように、勝一は言葉を続けた。
「聖奈の事は忘れて、前向きに生きろって言ってくれたんだと思います」
…違う。隊長が伝えたかったのは、そんな言葉じゃない。隊長が勝一に伝えたかったのは、きっと……
そう心で強く思っていても、その言葉が私の口から出る事は無かった。勝一が、笑っていたから。
「俺、伊凛に謝りに行ってきます。今の俺はアイツのお兄ちゃんですから。そして明日は、アイツと一緒にいます」
そう言って、勝一は出口に向かって歩き出した。私の脇を通り過ぎる勝一に、私は声を掛けられなかった。必死の思いで振り返った私の目に、茜色に染まった夕暮れに向かって歩く勝一の背中が見えた。
まるで、この夕暮れの空に勝一が溶けていってしまいそうで、すごく、すごく…
すごく、恐かった。
「勝一!」
私は叫び、勝一に駆け寄ってその背中を抱いた。
「マリアさん?」
勝一が戸惑いの声を上げた。それでも私は勝一を離さなかった。離したくなかった。
「…勝一、そのまま聞いてください」
よく伊凛を抱き締める事があるけれど、勝一の背中は伊凛よりもずっと大きくて固く引き締まっている。勝一を抱き締めた腕から、彼の体温が伝わってくる。
「この前、貴方は私の背中の傷に触れて、綺麗だと言ってくれましたね」
私からは勝一の表情は見えないけれど、彼はちゃんと私の話を聞いてくれている。そう感じた。
「…嬉しかった。本当に」
私は溢れる涙を拭わずに言った。どうしても伝えたかった。この人の優しさを。誰よりも、勝一自身に。
「ずっとこの傷が嫌いで、鏡に映る自分を見るのが辛かった。けれど貴方はこの傷を、私の優しさの証だと言ってくれた。私は初めて、この傷を誇りに思う事が出来ました」
この人は、とても強くて優しい人。だってこの人は、私の傷を癒してくれた。私の心に寄り添ってくれた。
「勝一、貴方の傷は心の傷。直接触れる事は出来ない。…ごめんなさい、私にはその傷は癒せないかも知れない」
勝一は今、どんな表情をしているのだろう?守りたい。私は守りたかった。この人の心を。傷付き、疲れ果ててしまったこの人の心を、守ってあげたかった。
「…だからせめて、抱き締めてあげる。幼い頃、寂しくて不安でどうしようもなくなった時、隊長がこうやって抱き締めてくれた事があった。温かくて、私は一人じゃないのだと実感出来た」
私は両の手の力を強めた。足りない、と思った。二本の腕では足りない。勝一の心を包み込むように抱き締めてあげたい。
「勝一、貴方は一人じゃない。私がここにいる。私がずっと、ずっとここにいます」
絶対に離さない。もう二度と、この人を一人になんてしない。私はそう心に誓った。
「貴方が辛くて寂しい時は、いつでもこうして抱き締めてあげます。だから…」
溢れ出る感情が、抑えられなかった。
「だからどうか、一人で泣かないで下さい」
この人はきっと、ずっと一人で泣いていたのだ。誰にも気付かれないように、誰も傷付けないように、たった一人で。それがどれ程の苦しみなのか、私には分かっていた。
だからこそ伝えたい。勝一が教えてくれた、とても大切な言葉。私の心を救ってくれた言葉を。
「涙を流すのは弱さじゃない、明日、もっと強くなるための準備なんだ……そうでしょう?」
私達は互いに言葉もなく、夕暮れの中に立っていた。だけど、確かに感じる。勝一の鼓動を、熱を。勝一はここにいる。私と共にここにいる。勝一が何を思っているのかは分からないけれど、その事実だけは変わらない。
「俺、本当は」
勝一が口を開いた。呟きのような声だった。
「本当は、正義のヒーローなんてなりたくなかったんです」
勝一の小さな声が、私の胸に響き渡った。
「聖奈はすごく優しい子でした。いつも俺に気を使ってくれて。あんなに小さかったのに物をねだったり、ワガママ言ったりもしないで、いつも俺の心配をしてくれてました」
段々と掠れていく声。私は両の手の力を強めた。
「…聖奈は良く笑う子でした。俺が買ってあげた安物のおもちゃをずっと大事にして、ボロボロになってもそれを見て笑うんです。『お兄ちゃんがくれた、宝物』だって」
聞こえなくなるくらい小さくなっていく勝一の声。それでも、私の心にはちゃんと届いている。
「……俺、ずっと自分が許せなかったんです。俺が聖奈をデパートに連れて行かなければ、俺が聖奈の話をちゃんと聞いてあげていれば、俺がもっと早く炎に飛び込んでいれば、聖奈は死なずに済んだのに。俺は俺自身が、誰よりも許せなかったんです」
勝一の体が小さく震え始めた。
「……俺、本当は」
勝一の声が揺れている。
「……正義のヒーローになんてなりたくなかった……なりたくなかったんだ!」
彼はそう絶叫すると、糸が切れた操り人形のように崩れ落ちた。身を丸めて頭を抱え、まるで小さな子供のように泣き叫んだ。
「…俺…俺は!……正義のヒーローになんてなりたくなかった!……ただ…聖奈とずっと一緒にいたかっただけなのに……アイツを幸せにしてやりたかっただけなのに……俺の……俺のせいで……アイツは……」
勝一は泣き続けた。ずっとずっと、泣き続けた。私は小さくなった彼の背中に覆い被さるようにして、彼を抱き締めた。私もまた、涙が後から後から出て、止まらなかった。
「聖奈!せいなぁ……!許してくれ……お兄ちゃんを……お兄ちゃんを許してくれ……!」
勝一は泣きながら、まるで熱にうなされたかのようにそう繰り返した。雪に少し沈んだ体は震え続けていた。いつの間にか西日は沈み、紺色の空から輝く星が顔を出していた。それでも勝一は泣き止まなかった。私はただ、彼の事を抱き締めながら神に祈った。
―神よ。どうかこの人の優しさに、限り無い祝福と幸福を与えたまえ、と…
*
どれくらい時間が経ったのだろうか。俺はマリアさんの膝を枕にし、ぼんやりと彼女の顔を見上げていた。額に滲む汗で張り付いた前髪を優しく掻き分けながら、マリアさんは小さく微笑んだ。
真っ赤に充血した目を細めて、俺は彼女に笑い掛けた。
「……すみません、マリアさん」
俺がそう言うと、マリアさんは俺の頬を撫でた。少し冷たくなった白く細い指先の感触が心地良かった。心が温かくなって、安心する匂いがした。
「愚か者」
マリアさんはフフと笑い、俺の顔を覗き込んだ。
「こう言う時は、『ありがとう』と言いなさい」
「…すみません、マリ……あ」
「ほら、また」
マリアさんは俺の鼻を指で軽く弾くと、ニッコリと微笑んだ。つられて俺も笑った。
「ありがとうございます、マリアさん」
マリアさんは俺の目を見つめた。
「勝一、聞いて下さい」
優しくて、温かな声だった。
「聖奈さんは、貴方をとても深く愛しています。もし、聖奈さんが今の貴方を見たら、きっと心を痛めると思うのです。自分のために、お兄ちゃんが苦しんでいる、と。もし私が聖奈さんの立場だったら、そう思います」
マリアさんは俺の手をそっと取って、言った。
「だから、自分の事を許してあげて下さい。もしも貴方が自分を許せないのなら、私にもその罪を背負わせて下さい。貴方の苦しみを分けて下さい。だって私達は、仲間でしょう?」
俺の手を強く握って、マリアさんはそう言った。マリアさんの言葉が、俺の心に染み込んでくるようだった。
「……ありがとうございます」
また涙が出そうになって、俺は彼女から目を背けた。男としてこれ以上、情けない姿は見せたくない。俺のせめてもの意地だった。
「……俺、伊凛に謝らないといけません。アイツを傷付けてしまいましたから」
俺が怒鳴った時の伊凛の表情を思い出し、俺は心からそう思った。伊凛が明日俺と一緒にいたいと言ったのは、きっと俺のためだったんだ。あの日の聖奈のように、俺の事を思って言ってくれていたんだ。今更そんな大事な事に気付くなんて、俺は本当に大バカ野郎だ。
するとマリアさんはチラリと出口の方に視線を送ると、笑顔のまま言った。
「その必要はありませんよ」
「…え?」
マリアさんに促されて出口の方を見ると、小さな人影があった。
「こちらにいらっしゃい」
マリアさんが呼び掛けると、その影は俺達に向かって走ってきた。何度も雪に足を取られながら、懸命に走り寄ってきた。
「……お兄ちゃん!」
伊凛は俺の傍らに膝をつくと、俺の胸に顔を埋めて泣いた。
「ごめんナサイ……ごめんナサイ……!伊凛、知らなかったヨ……伊凛、なんにも知らなかったヨ……!」
「お前、聞いてたのか…?」
俺がそう問い掛けると、伊凛は泣きじゃくりながら何度も頷いた。
「…い、伊凛のワガママのせいデ、嫌われちゃったと思って恐かっタ……ダケド……ほんとうは伊凛のせいで、ずっと悲しい思いをさせちゃってたんダ……ごめんネ……ごめんネェ…!」
「…違うよ伊凛。それは違う」
俺は伊凛の頭を撫でた。あんなに泣いたのに、伊凛の姿を見ていたらまた目頭が熱くなる。
「……俺、本当に嬉しかったんだ。伊凛がいて、マリアさんがいて、隊長がいて……こんな俺を必要としてくれて、仲間だと思ってくれて、皆に出会えて本当に良かったと思ってるんだ」
伊凛は涙でぐしゃぐしゃになった顔で、俺を見上げていた。俺はその涙の跡を拭いながら言った。
「だから、頼むから泣かないでくれよ。お前が泣くと、俺がマリアさんに怒られちゃうんだよ」
冗談めかしくそう言うと、またマリアさんに鼻を弾かれた。マリアさんは慈しむような目で俺と伊凛を見つめていた。笑っている俺達を見て、ようやく伊凛も小さな笑顔を見せた。
「……お、おにい……」
そこまで言い掛けて、伊凛は口ごもった。モジモジしながら、遠慮がちな目で俺を見つめている。もう二度と、コイツにこんな顔をさせない。俺は固く心に誓った。
「伊凛、これからも『お兄ちゃん』って呼んでくれないか?」
伊凛は目を見開き、涙をいっぱいに溜めて言った。
「……イイノ?」
俺は大きく頷いた。
「伊凛には、俺の事をそう呼んで欲しいんだ」
その言葉を聞いて、伊凛の体はブルブルと震え始めた。彼女は俺の首に抱き付くと声の限りに叫んだ。
「……お兄ちゃん……!お兄ちゃん……!!伊凛ダッテ、伊凛ダッテここにイルヨ!絶対にお兄ちゃんを一人になんかさせないアル!!」
温かかった。体は溶けた雪で濡れて冷たかったけど、心はとても温かかった。俺は伊凛の頭を撫でながら、聖奈の顔を思い出していた。心の中の聖奈は笑っていた。
俺が大好きだった、光のような笑顔で。
「……あのネ、お兄ちゃん……」
伊凛はしゃくりあげながら小さく言った。
「……あのネ、やっぱり伊凛、明日はほんのチョッとだけでもイイカラ、お兄ちゃんと一緒にいたいアル……お兄ちゃんの誕生日、お祝いしたいアル……お兄ちゃんにとっては悲しい日ダケド、伊凛にとっては、お兄ちゃんが生まれて来てくれた大切な日ダカラ……」
伊凛は泣き張らした顔で、真っ直ぐ俺を見つめていた。
「……良いのかな?」
「……エ?」
「……俺なんかの誕生日を祝ってもらって、本当に良いのかな?」
俺が目を伏せると、二人は同時に声を上げた。
「良いに決まってます!」
「良いに決まってるヨ!」
あまりにも息がピッタリで、俺達は思わず目を見合わせた。そして、誰からともなく笑い出した。夜空に輝く星々が煌めいて、俺達の事を見つめているような気がした。
明日は、俺達にとって特別な日になる。そんな予感がしていた。
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