TR-21 - Superstition
眠れないかと思ったが意外と寝つきは早く、目覚めたとき久しぶりに夢の記憶が残っていた。
むかし観た映画〈アナザー・カントリー〉に入りこんだような夢だった。きっとルカの話の所為だろう――周りは制服姿の学生ばかりで、そのなかにまだ幼さを残したルカとテディもいた。
自分の姿を夢のなかでは認識しなかったが、彼らと同じく男子生徒としてそこにいるのだとわかった。セーターを腰に巻き、だらしなく制服を着崩した髪の短いふたりは、映画のワンシーンと同じように絵になっていた。
大人でも子供でもない儚い時期の、瑞々しく透明な輝きを放つ少年期特有の美しさ。未だ男にはなりきらず、かといってもちろん女でもなく、純粋さや潔癖さを隠し持っていながらそれが危うい色気として発露する、アンビバレントな存在。特にテディは垂らした前髪の陰から覗く目が大きく中性的で、普段はくすんで見えるダークブロンドも朝の陽光に透けて輝き、まるで天使のようだった。
その天使が授業をエスケープし、煙草を吸い、部屋の窓から吸い殻を遠くに投げ――数分後、誰かの本が知らないうちに燃えていたと聞いて大笑いをする。その小火の原因が煙草だったことで抜き打ちの持ち物検査が始まり、テディの隣にいた生徒のポケットから煙草とライターがみつかった。僕のじゃないです信じてくださいと何度も訴えながら連れていかれる生徒を見て、思わず一歩前にでて真実を云おうとすると、あの灰色の瞳に射竦められた。
決して睨まれたわけじゃない。テディはただこっちを見て、なにをする気? とでも云うように小首を傾げていただけだった。しかし、ただそれだけでもうロニーはなにを云うこともできなくなった。
意外だった。特に想像をしたことがあったわけではないが、学生時代のテディは今よりもっとおとなしく、引っ込み思案で、いつもルカの後ろをついて歩いているようなイメージを漠然と持っていた。まったく違った――物静かではあるがおとなしいとは云い難い、頗るつきの問題児だった。まさかこんなふうに、テディに妙に擦れた狡猾なところがあるとは、まったく思ってもみなかった。
これは夢だ、本当のことじゃないんだと思いつつ、ならどうして想像もしなかったことを夢にみるのかと不思議になった。そして夢のなかの、少年のテディと話をしてみたくなり、廊下で前を歩くダークブロンドの後ろ姿に追いつき、肩に手を置いた。
立ち止まり、ぞろぞろと他の生徒に追い越されるなか、テディがゆっくりと振り返る。
――そこで、目が覚めた。
「おはよう、ターニャ」
「おはようございます、今朝は早いんですね」
「目が覚めちゃった。慌てなくていいのよ、先にコーヒーだけ飲むわ」
ターニャはいつものようにキッチンに立ち、朝食の支度をしていた。なんだか変わった匂いがするのに気づいて鍋を覗くと、ガラス蓋の中は白くぶくぶくと泡立っている。ロニーは首を傾げて「これはなに?」と訊いてみた。
「おかゆですよ、中華粥。偶には変わったメニューもいいかなと思って」
それを聞いて、ロニーはじっとターニャの顔を見た。
「テディのためね……。ターニャ、いつもありがとう」
蓋を取り、ほわあと湯気が立つ鍋の中に溶き卵をまわし入れると、ターニャは蓋を閉めて火を消し、そのまま手を止めた。
「……テディは、なにか話をしました?」
「ええ、聞いたけど……その――」
「いいんです、云わなくて。でも……昨夜のテディの様子を見れば、だいたいなにが起こったのか……女ならわかります」
ロニーは驚いて顔をあげた。
「まさかターニャ、あなた……」
「いいえ……私は幸い、未遂でした。でもそのあと、しばらくはちょっとしたことに怯えたり、過呼吸になったりもしましたから……」
そういえば、とロニーは気づいた。
あのとき、ターニャは紙袋を手にしていた。過呼吸を起こした場合の応急処置としてペイパーバッグ法*という、紙袋に吐いた空気を再度吸いこんで血中の二酸化炭素濃度を上げるやり方があるのだ。ユーリが落ち着かせたおかげで、必要にはならなかったが。
「そうだったの……。ほんと、男って最低ね」
「一纏めにしちゃだめですよ、最低じゃない男もいっぱいいますし。……自分はなにもしてないのに、なにかしたんだろうかってずーっと悩んで考えてるような男もいますしね」
「……それ、マレク?」
ターニャとロニーは顔を見合わせてくすっと笑った。
と、ちょうどそこへぱたぱたという足音が近づいてきて件の男が現れると、ふたりは今度は声をあげて笑い、マレクをぽかんとした顔にさせたのだった。
演奏しているときだけは、いつもどおりのテディだった。
ユーリに連れられるようにして朝食に現れたテディは、中華粥を食べながらぽろりと涙を零した。自分が泣いているのにも気づいていない様子で、俯いたまま匙を持つ手を止めてしまったテディを、ルカとユーリは本人より辛そうな面持ちで見つめていた。
不安定な、まるで子供に還ってしまったようなテディをユーリが連れていったあと。なにも事情を聞かされていないドリューとジェシが、さすがに事態が尋常ではないことに気づき、いったいなにがどうなっているのかと尋ねてきた。
どうごまかそうかとロニーは迷っていたが、もう隠しておくのは無理だし、ふたりの助けも必要になってくるから話そうとルカが云った。気は重かったが、ルカがそう云うならとロニーはテディに起こったこと、そして彼が今どういう状態なのかを説明した。
ドリューは黙って目を閉じてしまい、ジェシは顔を強張らせていた。警察には、と云ったジェシにルカは、テディがなにも厭な思いをせずに犯人がさっさと捕まって罰せられるなら通報したさ、と答えた。その苦々しい言い方に、ロニーは察した――きっとユーリがテディにかかる精神的な負荷のことを云い、通報を止めたのだろう。
テディの状態には
するとベースを手にした途端、テディはその目に輝きを取り戻し、いつもどおりチューニングをして、演奏を始めた。案ずるより産むが易しとはいえ、皆は大層驚きつつも、ほっと胸を撫でおろした。
ジャムセッションでのユーリとのコンビネーションはますます呼吸がぴったり合っていて、その絶妙なグルーヴの上に乗るドリューのギターもジェシのキーボードもいい意味で引っ張られていく。そしてルカのややハスキーだが甘く伸びやかな声が入れば、もう完全にジー・デヴィールのサウンドである。曲作りのほうも、テディの口数がいつも以上に少ないとはいえ特に問題なく進み、できあがったデモも増えていった。
ロニーはテディにカウンセリングを受けさせようと考えていたが、そんな状態であったため、いったん保留にした。理由のひとつは、ちょっと調子の良さそうなときにテディ本人に訊いてみたところ、気が進まないという返事だったのと、もうひとつは楽曲制作が順調だったためである。
プラハに戻る前に、できれば十五、六曲くらいのデモトラックが欲しい――アルバムを、例えば十二曲入りにするとしたら、全体の雰囲気や流れに沿って曲順を考えていくうち、必ず合わなくて弾かれる曲が出てくるからだ。そうすると、一曲ごとに聴くといまひとつ地味で印象の薄かった曲が、意外なところに嵌って活きてきたりすることがある。逆に、最高の出来だと思っていた曲が三曲あるうち、曲調やテンポが似通っているなどの理由で一曲除いたりすることもある。
よく『
そうやって音楽に触れている時間が長いほど、テディの状態が良い時間も長くなった。夜になるとプレイルーム側のリビングでユーリと一緒にジョイントを吹かしていて、ロニーはいつの間にどこで……! と目を吊りあげかけたが、それで精神状態がリラックスするのならいいかと黙認した。ただし、大麻だけに留めるようにと念は押したが。
そうしてなんとか十八曲をかたちにし、アイデアのストックもかなり貯めた状態で、クラブに置いた機材のほうはもう引きあげる準備をした。予定どおり、二日後にはプラハに戻るのだ。
いろいろありすぎて、長かったような短かったような二ヶ月間だった、とロニーは思った。自分がイビサを選ばなければテディはあんな目に遭わなかったのだろうか、とも思わずにはいられなかったが、それはもう考えないことにしておく。
選ばなかった道の先になにがあったかなど、誰にわかることでもないし、いくら考えても意味のないことだからだ。
ヴィラでの最後の夕食はバーベキューとパエリアだった。イビサを発つのは明後日だが、明日は荷造りを済ませたらもうあとは寝るだけにして、昼食も夕食も外で済まそうということになっていた。
なので今夜は、ターニャが腕を振るう最後の晩餐である。とはいうものの、石窯の火を起こしたり炭を見たりして串焼きを担当するのは男のほうが向いているようで、ユーリとドリュー、そしてマレクが大活躍した。ターニャはその串物の下拵えと、パエリアの大鍋を火にかけるまでを担当したあとは手が空き、今日はめずらしくロニーと並んでのんびりとシェリー酒を飲んでいた。
マレクは大鍋の、ユーリは石窯の前にずっと立ち、ふたりとも汗を拭うためのタオルを首にかけてエストレージャ・ダムを喇叭飲みしていた。ドリューはひたすら串を焼いているユーリの助手をしながら、焼けた串をテーブルで待つ面々の皿に配ってはシェリー酒を飲み、偶にユーリと焼くのを替わったりしていた。
サングリアを飲んでいたテディが、ふらりと席を立ってプールのほうに向かって歩き始めると、皆が一斉にそっちへと注意を向けた。テディがこんなふうに突然の行動を取るのは以前からのことだが、今は放置しておくわけにはいかない。とりあえず何事もなく普通に過ごせてはいたが、不安定な状態であることにも変わりはなかった。
ルカが立って皆へ片手をあげて合図し、テディの跡を追った。プールサイドをぐるりと歩き、ライトに照らされたビーチベッドのほうへ、ふたつの影がぴたりと寄り添うようにしてゆっくりと動いていく。
「そういえば」
ふと今朝の夢を思いだして、ロニーはジェシに訊いてみた。「ジェシはルカたちの後輩だったんでしょ。ルカとテディって、学生の頃はどんなふうだったの?」
「え……それ、前も云いませんでしたっけ。かっこよかったですよ、憧れのナイスカップルで――」
「そういうのじゃなくて。なんか、結構悪さしてたとか隠れて煙草吸ってたとか、そういうエピソードが聞きたいな」
ジェシはええっ、と困った顔をした。
「そういうのは本人に訊いてくださいよ。僕が云ったんじゃ、なんだか悪口みたいになるじゃないですか」
すると石窯の番をドリューと交替したユーリが汗を拭いながら、どかっと椅子に坐ってビールを呷った。
「学生の頃の話くらいならいいんじゃねえか? 正直、俺も聞きたい」
「えぇ……、しょうがないなあ。じゃあ、ちょっと
「超常的?」
「ちょっと家で用があって、マンチェスターの家に戻ってたことがあったんです。用……まあ、親戚の葬儀だったんですけど、僕は埋葬までで、もうそのあとの集まりとかは気が進まなくて、早めに学校に戻るって帰っちゃったんですよ。ほんとは叔母に送ってもらうはずだったんですけど、それも大丈夫って断って逃げて、ひとりで。で、事前に学校に届けでてた時間よりずっと早く戻るのももったいないし、せっかくだからCDショップでも寄っていこうと思って、ロンドンでうろうろしてたんです。ミュージック・アンド・ヴィデオ・エクスチェンジとかラフ・トレードとか。そしたら……そこにテディがいたんです。僕、すごく驚いて、声をかけようとしたんですけど、そのとき手に持ってたのがネルソンで」
「ネルソン?」
「ええ、ネルソンの〈ビコーズ・ゼイ・キャン〉だったんですけど……特徴あるジャケットなんで見間違えたりはしないです。ちょっと、テディの趣味じゃないでしょう?」
「だなあ、そのへんを聴いてるところは見たことがない」
「で、僕もやっぱりどことなく違和感があって、やっぱり他人の空似だったのかなって思ったんです。でも、帰り際にもう一度見かけたんですけど……やっぱり、どこをどう見てもテディなんです。間違いなくテディ本人でした。で、
それでもなんだか僕、納得がいかなくて……ネルソンなんて聴きます? って訊いてみたんです。そしたら……一枚だけ持ってるって云うんですよ。それも〈ビコーズ・ゼイ・キャン〉を。しかも、しかもですよ、僕がその日テディを見たミュージック・アンド・ヴィデオ・エクスチェンジでなんとなく惹かれて買ったって云うんですよ! 結局中身のほうはそんなに気に入らなかったそうで全然聴いてないって云ってましたけど、買って持ってはいたんです……。ただ、それは一ヶ月以上も前のことだって云うんです」
「ええ……そんなばかな」
「おかしな話でしょう? まるで僕が一ヶ月前にタイムスリップでもしたのか、そうじゃなきゃ残像でも見たみたいじゃないですか。ルカとテディにもそう云ったら、
ユーリが肩を竦めて云った。
「おまえ、担がれたんだよ」
「あー、やりそうね。未だに種明かししてないあたり、きっと忘れてるんでしょうけど」
そう云いながら、ロニーはプールの向こう側を見やった。
ふたりはプールサイドに坐りこみ、手で水を掻いていた。ライトの光が揺れる水面に弾かれ、きらきらと揺れている。やっぱり、ああしてふたり一緒に並んでいると絵になるなと、ロニーはあらためて思った。
「まあ、確かにふたりとも
その言葉に、えっ……とロニーは、シェリー酒のグラスを傾けていた手を止めた。
「ははっ、そりゃろくでもないな。身代わりになった奴は気の毒に」
煙草を人のポケットに……って、それは――
今のジェシの話なんかより、私のみた夢の現象のほうがよっぽど
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※「ペイパーバッグ法」・・・基礎疾患がある場合などはかえって危険であったり、低酸素状態になる可能性もあるので、現在では推奨されていない。
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