進境の章
第1話 新生活に音色を添えて
カーテンの隙間から漏れる陽の光が、俺の目を覚ます。
俺は身体を起こすと、その周りに広がる光景を見渡した。
床に散在する段ボール。見慣れない机やオルガン。そして……布団にすっぽりと身体を預けている、1人の少女。
勝幸「うおっ」
意識がはっきりとすると、俺は少しばかり驚きを感じた。この少女がかつて何度かここに寝泊まりしていたにも関わらず、だ。
勝幸(そうか……これから風葉と一緒に生活するんだっけ)
11月15日。その日で、俺の一人暮らしは幕を閉じた。俺は目の前で目を閉じている少女───中津川風葉───と一緒に生活する事になった。
何度考えても不思議な関係性だ。住居を共にしている時点で、お互いが深い関係にある事は間違いないのだが、その一方で、俺は彼女の事をそこまで知らない。
確かに過去の事や家族、基本的な情報に関しては大体は把握している。だけど、彼女は何が食べるのか、趣味は何か、どんな生活スタイルなのか。そうやって浮かび上がる疑問は幾つもある。
それらは、これからの生活で答えが見つかるものだろう。太さの分からないこの繋がりを、より確実な太さへと育てる為に、お互いを少しずつでも知っていくつもりだ。
風葉が起きたのは、10時半頃だった。昨日も色々とあって、心身共に
朝飯を軽くとって、俺は風葉と一緒に昨日の続きをする事にした。
段ボールの中から物を取り出し、棚にしまったり机に置いたりといった作業だ。日曜なので、競馬中継をBGMに流しながらの作業で、俺は風葉の指示に従う。
勝幸「この辺の雑誌は本棚でいいのか?」
風葉「うん。2段目の左側に揃えておいて」
段ボールの中身は次々と場所を移し、部屋を風葉の雰囲気に染めていく。勿論、見慣れない物も多い。
勝幸「この箱は?」
俺は段ボールに入っていた木箱を取り出し、風葉に見せる。
風葉「それはネイルのセットね。机に置くやつだから、ウチに貸して」
勝幸「へぇ……こういうのもやってるのか?」
風葉「うん、まぁ……オシャレにはある
勝幸「え?」
風葉「例えばさ、服装とか」
風葉が返した質問に、俺は唸り声を出しながら考える。
正直、俺のデフォルトはシンプルなパーカーに機能性に優れたズボンだ。それからも分かるように、決して普段からそういうのに気を遣っている訳じゃない。個人的なセンスで格好良いと思うのは選んでいるけど。
ただ、時々理愛華と買い物に出掛ける時に、勝手に選ばれる事はある。まぁ、彼女のチョイスが俺の好みに反する事は少ないので、着せ替え人形の様に服を選ばれてあいつが自費で購入する訳だが……
〜〜
理愛華「かーつゆき‼︎これどうかな⁉︎」
勝幸「んー、よく分からんし前から合わせてみる。どうだ?」
理愛華「あ、似合うじゃん‼︎これにしなよ‼︎」
勝幸「ほーん、それで、値段は………………え、3万円⁉︎」
理愛華「うん、買ってくるねー」
勝幸「おいちょっと待てぃ」
〜〜
勝幸「い、いやぁ…………俺はそんなに拘ってないかな…………」
風葉「ありゃ、そうなんだ」
どう考えても、拘ってるのは俺じゃなくて理愛華の方だよな……
≪≫
かなり段ボールの物を取り出せたので、ひとまず休憩する事にした。
軽く競馬の予想をしながら、コップを取り出し水を飲んで、渇いた喉を潤す。
そしてソファに座ろうとした時、風葉の方に視線がいった。電子オルガンの前に立っている。
勝幸「……何か弾けるのか?」
風葉「え?……うん、そこそこね」
勝幸「そんで、じっと見てたけど弾きたいのか?音量に気を付けるなら、弾いても大丈夫だぞ」
俺は微笑みを風葉に向ける。
正直言って、俺も風葉の演奏を聴いてみたい。わざわざ引っ越し先にも持って来るのだから、かなり親しんでいるものなのだろう。
風葉「じゃあ……弾くよ。聴きたいの?」
勝幸「あ、あぁ……風葉がどんな感じで演奏するのか、見てみたいから」
風葉「ふぅん…………」
風葉は小さく
俺もそこへ行って段ボールを覗くと、そこには数冊の楽譜集が埋もれてあった。風葉はその一冊を取り出すと、パラパラとページをめくる。
これにしよ、と言って、風葉は楽譜を譜面台に置くと、電子オルガンの電源を入れて、音量を調整する。そして、椅子を引いて
風葉「それじゃあ、弾くね」
勝幸「楽譜は途中でめくってやろうか?」
風葉「あ、うん。お願い」
そう言って風葉は深呼吸を一度すると、両手を鍵盤に置く。
そして、その次の瞬間、柔らかく穏やか
メロディーが流れ始める。美しい和音が曲を作り上げ、部屋を満たしていく。
勝幸「ランゲの『花の歌』か。良い曲だ」
19世紀ドイツの作曲家、グスタフ・ランゲ。彼が作曲した中でも最も有名だと言えるのがこの曲だ。
風葉は頷き、鍵盤を叩き続ける。
彼女の表情もまた、曲の雰囲気と一体化している。今まで見たような可愛らしい笑顔とはまた違って、そこはかとなく品を感じられる。
指を器用に動かし続ける風葉の様子は、俺が知らない風葉だ。
音楽とは、あんなに人の雰囲気を変えていくものなのか。これがリズムの早くて激しい音楽なら、それもまた見た事のない彼女を見せてくれるのだろう。難しい曲が多いが、ショパンとかも弾いてみて欲しい。
ただ、その中でも、曲調に風葉という要素は入っていた。良くも悪くも感情の浮き沈みが大きな風葉らしく、柔らかく優美でありながら強弱のはっきりとした演奏だ。
その人らしさを残しつつ、普段のその人とは違う一面を見せる。音楽の力とは、中々にも凄いものなのかもしれない。
そして、演奏が終わる。
風葉は鍵盤から指を離すと、俺にニコッと笑顔を向けた。
風葉「どうだった?」
勝幸「いや、凄いよ。めっちゃ綺麗な演奏だった‼︎」
風葉「本当に?嬉しい……‼︎」
風葉はそう言って、その通り嬉しそうな表情を見せた。楽譜をしまい、鍵盤に
風葉「他にもね、色々と弾けるんだ」
勝幸「ほぉ、例えば?」
風葉「そうね〜、特にシューマンの『トロイメライ』とかドビュッシーの『アラベスク第1番』とかは弾けるし好きだよ」
勝幸「へぇ〜今度弾いてくれよ」
風葉「うん」
風葉は微笑むと、大きな伸びをした。
丁度良い息抜きになっただろうか。
風葉「それじゃ、もう少しだけ荷物整理しようかな」
勝幸「あぁ、手伝える事はやるよ」
そう言って、俺と風葉は再び段ボールの中身を取り出し始めた。
今日は、まだ知らない風葉の側面を見る事が出来た。
こうやって生活していくうちに、もっと彼女の事を知っていきたい。そして、この新生活をより良く出来ればと、俺はそう思ったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます