二十七日目 アブラゼミ
ぺらり、と紙の音が響く。その日の夜、俺は自室に戻り、羽田さんから借りた本を読み進めていた。
あの後結局彼女は姉と盛り上がって、俺は置いてけぼりだった。人間になる原理は分からないが、まだ見えているのは俺と姉貴だけのようだし。父さんや母さんにもそれとなく訊いてみたが、不思議そうな顔をするばかりだった。
「早いところ、呪いを解いてくれないかな……」
それだけが希望だ。本の中のご先祖様は、意外と有意義に書かれている。女の人なのに化粧もせず、ただ好きなことで好きなように過ごしていくだけ。でも幼虫が成虫になるのを観察するなんて、俺なら卒倒ものだ。だってキモイもん。
けど醜い芋虫が、キレイな蝶になるのは、確かに小さい頃俺も不思議だった。昔だし、もっと不可思議なこととして捉えられていたのかもしれない。とはいえ、やっぱり俺は無理。
人間に見えるなら、人間にできるなら、そちらのほうが楽なのかもしれない。虫だと嫌われることもなければ、危害を加えられることもないから。着飾らない方がいいと、初代虫姫は言っているけれど、呪いを受けた見栄にも思えた。
思ったより短かった文章の塊を読み終えると、最後の一文に目が留まる。
「二の巻にあるべし。……って、続きがあるってこと?」
確かにヒロインの恋の模様は最後まで描かれていない。次のページは解説が細かい字で書かれているだけで、読む気を削ぐこと間違いなしだ。例によって俺も話を呼んだだけで本を閉じてしまった。
「また羽田さんに聞けばいいか」
自分の好きなことをしながら生きるって大変なんだな。この虫姫も羽田さんも、自然体で生きられればいいのに。俺は近寄れないけど、虫が好きで何が悪い、と声高らかに宣言できる世の中であれば、彼女たちにとってはとても幸せなのだろう。
おっといけない。本なんて読んだの久しぶりだから少し賢そうに振舞ってしまった。ふふふ、いまの俺なら勉強だってできそうだ。そう思って宿題を開くが、全然分からなくて全滅だった。
「早く会えないかな……。夏休みが終わってしまう」
涙で問題が見えない。いや、見ないように涙ぐんでいる。しかし夏休みが終わってしまうのはなんとも残念なことだ。この素晴らしい時間が、宿題と虫がない方がいいけれど、続かないのは悲しい。
来週には会えると言ったけれども……、ん? 来週? 待って、来週って……、
「夏休み、最終日じゃん……!」
マズい。それは非常にマズいぞ。だってまだ半分もできてない。なんてこった! 虫にうつつを抜かし過ぎた!
無意識に苦笑いを浮かべる。これから徹夜だ! 筋肉のために早寝なんて言っていられない。実はいままで奇跡で乗り越えてきたけれど、テストで赤点ものなら部活を続けられないぞ、幹也ぁ!
「今日は結局全然できなかったし、まずは数学……。あぁいや、この前数字を見て眠くなったから、今回は現代文だ!」
そう意気込んでバッとページをめくったが、ものの数分で夢の中だった。
おかしいなぁ。俺って数字だけじゃなくて文字見ても眠くなるんだ。いや、昨日は徹夜だったし、眠くなるのもしかたないか……。だったら明日から頑張ろうかな。しかしそう思って先延ばしにしてたら、こうなっちゃったもんな。
どうしよう。やはり丸写しを――、ん? 外でコツコツ音がしてる。誰か窓、叩いてるのか? あー、はいはい。いま開けますよー……。
「……えっ?」
手元の、開け放たれた窓を見て、俺は訳が分からなくなった。ブン、と勢いよくくっついてきたアブラゼミに驚いたからではない。いや正確に言うとそれも驚いたけど、俺の腹筋にすりすりしてくるのにも鳥肌が立ってるけど!
俺、いま自分で、窓開けたの……? 念のためこのセミに経緯を訊いてみる。
「あ、あのさ、俺って、自分から開けちゃったよね?」
「うん? それがどうしたん?」
この状況、当たり前じゃねぇからな!? まどろんでいたからいま分かったけど、もしかして俺っていつもこうだった?
そりゃそうか。勝手に入ってくる方がおかしいもんな。ハハッ、笑えてくるよ。……夢遊病ってどうやって治療すればいいですかね? 死活問題なんですが?
「もういいだろ。帰ってくれ」
せっかく起きたのだから、俺は宿題をしなければならない。その点を言えば虫は便利だが、離れないので害悪でしかなかった。アブラゼミは唇を尖らせて不服そうだが、俺には関係なかった。
「つれん男やなぁ。ウチがわざわざ会いに来てるって言うのに……。ま、お兄さんのためになる情報を持って来たんやけど、要らんって言うならええわ」
「……何だよ、それ。気になるじゃんか」
そこまでもったいぶられると、さすがの俺でも気になってしまう。余裕綽々といったように笑うアブラゼミに、ムカついたのもあるけど。
「お兄さん、狙われてんで?」
「えっ、誰に!?」
スナイパーに!? いや日本ではそんな組織はいないか。いたとしても俺を狙う理由が見つからない。夏休みと言えば冒険だが、今年はどこにも行った覚えもないし、どこかにちょっかい出すようなこともなかった。……そんな経験ある方が珍しいよ。
「分からん? お兄さんの周り、スズメバチがツケてるみたいやねん。気ぃ付けた方がええで」
「気を付けろと言われても……。そうか、あのスズメバチ、まだ諦めてなかったのか……」
「とはいえ、会いに来たらウチも危ないんやけどな。もう少しこの腹弁を楽しんだらいったん帰るわ」
腹弁って何だよ。俺はセミじゃないぞ。腹筋は鍛えているが、鳴き声はあげないからな!? というか一回帰れ、いますぐ帰れ!
「おっふ!」
気付けばセミ女はシャツの中にまで指を入れて楽しんでいる。筋肉の盛り上がりをなぞりながら、うっとりした表情で溜息をついていた。ヤメテ! くすぐったい! ……というか、あまり下の方は触らない方が――!
「もう駄目! おしまい! っつか、触っても良いって言った覚えはないから!!」
「えぇー!? 良い情報教えたったやんか! うちかて命がけで来たのに!」
そんなに訴えられても、そこまで許可したつもりはない。確かにその情報は嬉しいけれど、俺が見境ないヤツだったら、いまごろあられもない姿になっているに違いないのだ。
女性社会は厳しいのか、抜け駆けをすればすぐに体育館の裏にでも呼び出されるんだろう。昆虫であれば、よりどりみどりだな。……悲しい。
「これからしばらくは、あんまり外に出ない方がええかもしれんで」
「しばらく、って……どのくらい?」
その言葉だけ妙にシリアスだったので、俺はごくりと唾を飲んでその先を聞き出そうとした。
「うーん、夏が終わるまでかなぁ」
そんな悠長なことは、俺には言っていられない。だって来週は羽田さんとまた会えることになったし。いや、陸上も、大事、だよ? 虻川センセは、でかいし。何がとは言わないことにしておく。
だけど最近身が入ってないな。いかん、いかん! 色々と両立させるのも大変なんだな。俺はいままで通り、陸上やっておけばいいんだ。
「まぁ、忠告は助かったよ。ありがとな。でもそろそろ出てってほしい」
「お兄さん、やっぱり冷たいわ。この水着褐色美少女に、次いつ会えるか分からんのやで?」
自分で言っちゃうタイプか。薄々勘付いてはいたけど。下着が駄目で水着がOKな理由を早いところ解明してほしい。布一枚は一緒だろ!? だから目のやり場に毎回困るんだよ!
別に次いつでも会いたくもないし、仏頂面で見送ることにする。カラダから振り落としてやろう。
「いい加減離れろ!」
思い切ってベリッ、と少女の肩を持って引き離すと、本来の姿に戻ったセミがブンブン飛んでいった。夏の風物詩とは言うが、ぜひとも俺の近くには寄ってほしくはない。いや昆虫ならなんでも側に居てほしくないんだけど。
いつまで言っても俺の周りを集るので、そろそろうんざりしてくるころだ。もう少し、もう少しで夏が終わる。
「あっ! だから俺ってば、やることあったのに!」
完全に忘れていた。それもこれも全部虫のせいだ! ……いえ、自業自得です。
こうやって認めちゃうあたり、まだ俺も可愛げがあるってもんだ。神様、どうかその素直さに免じて少しでも宿題をなくしてはくれませんでしょうか?
そう願ったけれども、ちっとも減っていることはなかった。
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