第93話 本能寺の変?(2)〔明智光秀の謀略と千利休〕

〔永禄5年(1562年)3月28日~29日〕

新右衛門さん (蜷川-親世にながわ-ちかよ)が南光坊なんこうぼう(光秀)と自邸で会っている頃、兄上 (信長)は西院小泉御所の執務室で政務を行っていた。

兄上 (信長)は政所別当と侍所別当を兼任した執権である。


現代風に言うならば、内閣総理大臣 (宰相、将軍)の部下でありながら、首相と陸・海・空の三元帥を兼任したような役職であった。

最高裁の裁判長長官を務めないだけマシと言った所だ。

何が言いたいのかと言えば、凄~~~っくそ忙しい。


短い期間に鍛えに鍛えた側近らが兄上 (信長)の補佐として頑張っていた。

書類に目を通し、兄上 (信長)に渡す。

時には書類を差し戻す。

問題がなければ、兄上 (信長)に印を貰い、問題が無くとも疑問を感じれば、訳注やくちゅうを付け足す。

痒い所で手が届かねば、兄上 (信長)の側近と言えない。


「馬鹿者。この受領書を書いた者は誰か?」

「某でございます」

「この事業に5,000貫文も投じては財政が破綻してしまうわ」

「しかし、申請書には…………」

「見落とすな。ここに10年と書いてあるであろう。添付資料に10年間の継続を約束できないならば、他の方法を考えて欲しいと書かれておる。試算を確認してやり直せ」

「しょ、承知しました」


側近の下にいる右筆や中小姓らは優秀だ。

俺が貸しているので当然だ。

優秀な右筆や中小姓らも意識の統一までされている訳ではない。

限られている予算を奪いあっている。

その決定を下すのが兄上 (信長)だ。

右筆に全権を預ければ完成した予算書が上がってくるが、その場合は兄上 (信長)の意志が反映されない。

何を優先するか?

兄上 (信長)の方針がはっきりするまで手探り状態が続く。

右筆や中小姓らは兄上 (信長)の決定と俺の理想の摺合せに苦労させている。


それに加えて、兄上 (信長)は宮中の行事への出席もある。

新公方と管領らと割振っているが、それでも月に5度ほど呼び出され、別件で意見を聞きたいと帝や女御や公卿に呼び出される事もある。

もちろん、京に上がってきた守護、守護代、地頭らの拝謁もあった。

彼らへの宴会はあいさつだけ済ますと管領に丸投げだ。


信長のぶなが様、幕府政所執事代から会談の申し入れがありました」

「またか!?」

「またでございます」

「夕方の守護、守護代の後でも入れておけ」

「幕府政所執事代ですが、この度は余人を入れずに会いたいとのご要望でございます」


兄上 (信長)が嫌そうな顔をしたらしい。

また、下らぬ話ではないかと疑う。

それに幕府政所執事代と公家の案件は俺の領分と思っている。


「信照は帰って来られんのか?」

「昨日の手紙では22日に出航し、27日に琉球を奪う予定と書かれておりましたので、今頃は琉球で忙しくされていると思われます」

「あの執務から逃げたがる曲がった根性は直らんな。清洲会議でも儂に押し付けて逃げようとしおった」

「はぁ、そうでございますね」

「あの引き篭もり癖を何とかできんのか?」

「太閤様も信長のぶなが様と同じほど忙しくされておりますが…………」

「あやつの本気はこんなモノではない」


過大評価だ。

だから、俺が京にいると兄上 (信長)は朝廷の案件をすべて俺に押し付けてくる。

最悪、清洲に休暇を取って戻ってしまう。

帰る度に子供を仕込むのは止めてくれと、俺は逆に言いたい。

帰蝶義姉上を大切にしろ。

尾張・美濃の主は誰が見ても帰蝶義姉上だ。

兄上 (信長)は子煩悩なパパでしかない。


仕事を減らしたいならば、三十郎兄ぃ(元織田で管領斯波しば-信包のぶかね)や九郎兄ぃ(織田おだ-信治のぶはる)らを成長させるしかない。

因みに、喜蔵 (信時のぶとき)以下は守護代になっている。

領地経営に人を回してくれ、この問題をどう処理すればいいのかと助けヘルプを量産している。

ホントに困ったちゃんだ。


まぁ、半分は仕方ない。

部屋住みからいきなり守護代を熟せと言われる方も困るのだろう。

守役はいるが側近もいない。

だから、こうなる。


『助けて、〇〇えもん』


新右衛門さんみたいな奴らが織田一門衆だった。

織田一門は人材が足りないのだ。

問題の相談、銭を無心し、果ては人材派遣の要望だ。

余っているなら最初から回している。

悩め、自分で稼げ、自分で育てろと付き放したい所だが、織田家の風評を悪くしない為に何らかの援助がされていた。

あと10年もすれば、教育パパごんの兄上 (信長)の子供らが補ってくれるのだろうか?


新右衛門さんの面談要請に兄上 (信長)は少し考えた。

西院小泉御所で余人を交えず会える時間はない。

結局、帰宅後に宿舎である本能寺に新右衛門さんを呼ぶ事にしたらしい。


「して、茶会の準備はどうなっておる」

「問題ございません」

「うむ。万全に整えよ。これからは茶会をけん引するのは織田家である事を内外に知らせねばならぬ。抜かるな」

「はい。魚屋ととやも張り切っております」


兄上 (信長)は集めた茶器を堺や京の豪商に披露し、新しき茶の規則ルールを発表する予定であった。

その為に茶人と呼ばれる堺や京の豪商を呼び、その茶会を成功させねばならなかった。

彼らを納得させた上で幕府の方針を伝える。


『茶の事も判らぬ田舎者が何を言うか』


影口でそんな事を言わせない為だ。

一流の茶器を揃え、見事な振る舞いで茶人を圧倒する。

それが必要であった。


新しき規則ルールとは、茶会を開けるのは茶人のみとする。

簡単に言えば、

これから『茶会』を開けるのは、朝廷か、幕府のいずれから居士号こじごうを拝命した茶人でなければならない。

そういう規則ルールの変更だ。


すでに茶人と呼ばれる者が大勢を呼んで開く茶会を『大寄』、あるいは『広間』と呼ばれ、少人数の茶会を『小間』と呼ぶ。

公的な茶会と私的な茶会に隔てられた。

この『大寄』を開けるのは茶人と呼ばれる者に限られた。

豪商らの権威が上がり、幕府の方針に彼らは大いに喜んだ訳だ。

こうして一度、幕府の方針に従わせる実績を作った。

ホント、光秀の案は芸が細かい。

兄上 (信長)はそれを評価して採用した。


私的に茶器自慢やお茶自慢をする分には問題ないが、そこで『茶会』と名乗ってはならない。

当然、これまでの自称茶人では身分差のある公家や武家の当主を招く事ができなくなる。

ここが肝要だ。


「一番の買手である公家様や一族の当主を招けないとなれば、商家にとって一大事でございます」

「弟子を名乗る者らも出入りできなくなるからな」

「彼らは頭を下げて、幕府に名を求める事になりましょう」

「公家に頼むかもしれんぞ」

「帝を動かすとなると、どれほどの金品を要求されますやら」

「はっははは、その通りだ」


与えるのも取り上げるのも兄上 (信長)の自由にできる。

これで堺や京の豪商の首根っこを掴めるのだ。

その為に全国から名器を取りそろえ圧倒し、非の打ち所のない立ち振る舞いを披露せねばならない。

兄上 (信長)を指導しているのが魚屋ととやであった。


 ◇◇◇


〔永禄3年(1560年)7月頃の話(2年前)〕

俺が武田家や上杉家と戦っていた頃、京で兄上 (信長)は畿内の掌握に苦心していた。

戦後で銭も足りない。

だが、織田幕府の権威付けは必要であった。

忠誠心を得るならば土地を与えれば良いが、土地は有限である。

銭も勝手に湧いて来ない。


「誰か、土地や銭を使わずに織田家の権威を上げる方法はないか?」

信長のぶなが様。名案が1つございます」

惟任これとうか。言って見よ」

(※惟任は光秀が名乗っていた別名)


奉公衆に復帰した光秀が兄上 (信長)に妙案を提示した。

俺も光秀らしいと思った。


信長のぶなが様。茶器を褒美とすればよろしいと思います」

「茶器だと?」

信照のぶてる様も祝いの品によく送られておられます」

「確かにそうだ。だが、土地の代わりになるのか?」

「なります」


光秀は丹波に頂く事になっている3万5,000石の内3万石を返上するので、兄上 (信長)が持っている桜茶碗を所望したいと願い出た。

俺が送った一品だ。

緋が見事に走った一品であり、前関白近衛-稙家このえ-たねいえから『天下の一品』と称された。

その良さが判る兄上 (信長)ではないし、俺も判らん。

陶磁師が稀に見る良い出来と言ったので兄上 (信長)に送っただけだ。


「茶器を所望してどうするつもりだ?」

「幕府から茶会を開く許可を頂きたいのです」

「好きに開いておるではないか」

「これからは幕府が茶人と認めた者しか茶会を開いてはならぬと触れ出すのです。その上で“天下の茶人”と称される者を招いて茶会を開かせます」

「招いた者は“幕府が茶人と認めている”とするのだな」

「はい、そうすれば茶人らも大いに喜ぶ事でしょう。その上で武家の者は幕府より茶器を所望せねば、茶会を開けぬと致しましょう」

「茶人の弟子らが騒がぬか?」

「主な者のみに先んじて茶器をお与えになればよろしいかと思います」

「面白い」


兄上 (信長)が膝を叩いた。

これが『3万石茶碗』が誕生の由来だ。

もちろん、公家様は例外だ。

公家で茶道を知らぬ者はいないとし、公家ならば誰でも茶会を開ける。

茶器を武家の権威付けを加えた。

こうなると茶道楽な武将は領地より茶器を欲するようになった。

銭を使わず、一部の武士を喜ばせた。


信長のぶなが様、他にもございます。幕府独自の官位を与えるように致しましょう」

「それでは公家が五月蠅いぞ」

「大丈夫でございます」


光秀は武家官位を考えた。

正六位上以下の官位を幕府が好きに付ける事ができるというモノだ。

職務のない官位のみの役職名だ。


例えば、

日向に住む武士が日向守を貰うと、日向・日向守となる。

他にも正六位下の日向・安房守、日向・若狭守、日向・能登守、日向・佐渡守が誕生させる事ができる。

役職の上に国名が入るのが武家官位と判り易い。

7位上以下は守護が任命でき、殿上人がゆるされる従5位下以上を犯していない。

同じ官位ならば、朝廷より頂いた官位が上位とする事で朝廷を立てた。

官位を得た者はより上位の官位を有難がる。

そう公家衆を唆す。

加えて、与えた官位に応じて幕府が上納金を納める。

朝廷の収入が増える。

光秀は朝廷に収入と官位の価値が上がると説得したので簡単に朝廷も折れた。

格安の褒美を増やした。

こうして、畿内の武将らに茶器や官位を配って落ち着けたのだ。


 ◇◇◇


〔永禄5年(1562年)3月30日〕

惟任これとう鎮西九党ちんぜいきゅうとう九州における9つの有力武士団の名称の1つである。

義昭から与えられた光秀の『惟任これとう日向守』の名称は『日向守護』と同等に意味を持つ。

義昭政権では誰も気にしなかったが、名護屋へ派遣するに当たって『惟任これとう日向守』の名は大層過ぎた。

いずれは日向守護と取られかねない。

完全に島津-貴久しまづ-たかひさに喧嘩を売っている名前だ。

俺は惟任これとうを返上させて明智に戻し、正六位下日向守から従五位下掃部頭に昇進させた。

これで文句もあるまいという感じだ。


遠く九州に置けば、光秀も畿内で悪さも出来まい。

畿内で悪さができない代わりに九州で悪さをして牢屋に叩き込まれた。

3月中旬、イスパニアの艦船が琉球の那覇湊と入ったと聞いて貴久たかひさから琉球王と協力して那覇湾を強襲する案が持ち込まれた。

当然、俺は許可を出した。

その頃、龍泉寺りゅうせんじから魚屋ととやに手紙が何度か届けられた。

最後の手紙は17日だ。

その手紙が21日に魚屋ととやに届き、22日に兄上 (信長)に面会する。

今となれば、手紙の内容は察しが付く。


富士茄子ふじなすのやり取りだ。

元々は足利-義輝あしかが-よしてるが所有し、どういう訳か知らないが近江国広済寺初代住職の祐乗坊ゆうじょうぼうに下賜された。

銭に困っていた広済寺は訪ねてきた見窄みすぼらしい僧侶に大金で売った。

誰であったかは想像が付く。

魚屋ととやが兄上 (信長)に言ったという。


「機は熟しました」

「であるか」

「ついに富士茄子ふじなすが手に入りました。これで九十九髪茄子つくもかみなす松本茄子まつもとなす富士茄子ふじなす以上の『天下の三品』が信長のぶなが様の元に揃いました。天下は信長のぶなが様のモノございます」

「ふふふ、大袈裟な。高々『茶の天下』ではないか」

「茶人の一人と致しましては、これ以外の『天下』はございません」

「うむ。いつがよい」

「来月の始めに触れを出すとして、今月の末がよろしいかと存じます」

「であるか。励むがよい」

「お任せ下さい」


魚屋ととや、元の名を田中与四郎と言う。

この魚屋ととやと兄上 (信長)を結び付けたのも光秀である。

もちろん、兄上 (信長)は清洲の時代から魚屋ととやと付き合っているので初対面ではない。

光秀が兄上 (信長)に禁中茶会を薦め、茶人としての権威付けを進言した。

その師事に推薦したのが魚屋ととやだった。

魚屋ととやの指導で兄上 (信長)は作法を学び、禁中茶会を開催した。

兄上 (信長)に代わって魚屋ととやが帝の前で茶会を仕切った。

町人の身分では参内できないために居士号こじごう利休りきゅう』が与えられた。

法名の『千宗易せんのそうえき』と合わせて、『千利休せんのりきゅう』が誕生した。


この魚屋ととや自身も俺の間者の一人でもある。

茶を嗜む光秀と付き合って監視を命令した。

今に思えば、これが失敗だ。

間者働きをする一方で光秀に取り込まれた。

否、野心の強い魚屋ととやは光秀を利用しようとした。

魚屋ととやと光秀の共闘関係が生まれた。


武蔵坊弁慶のような体付きに、美濃の蝮のような妖しい眼光を持っていたのが魚屋ととやだ。

手放しで放置する訳もない。

何人もの忍びを置いて監視させていた。

だが、魚屋ととやを監視していた忍びも光秀の思惑まで読み切れない。


魚屋ととやに手紙が来るのも珍しいモノではない。

龍泉寺りゅうせんじ住職の手紙はその中の1つに過ぎない。

たわい無い世間話であり、九州に来た折は寄って欲しいという内容だ。

誰も疑わなかった。

何かの隠語が隠されていたのであろう。


そして、魚屋ととやが準備する“本能寺の茶会”はまっとうなモノだ。

そして、茶会の規則ルール変更も幕府の為になる。

何の問題もない。

誰にも意図を気づかせていなかった。

九州に居ながら畿内で悪さをする光秀は凄い。


どうでもいい話だが、茶器の話がもう1つある。


「茶器の保有者が亡くなった場合、その保有者の委譲を幕府に申し届ける事に致しましょう」


光秀は兄上 (信長)にそう言ったらしい。

つまり、保有者が変わる毎に幕府に届けないと茶会ができない。

末代までも銭をせしめるつもりだ。

茶器と官位でどれだけ銭をせしめるつもりだ。

商家や寺に銭を貸して、一生金利を取り続ける事を画策して幕府の財政を立て直した光秀らしい策だ。

ホント、光秀の計略は底が深い。

二重底、三重底になっている。


本能寺の茶会が成功すれば、兄上 (信長)は公家・武家・豪商から自他共に認める茶人となる。

その茶人となった兄上 (信長)が新しい触れを出す。

居士号こじごうを持たない者は正式な『茶会』を開けない。

全国の茶人らが居士号こじごうを欲する。

茶の世界が朝廷や幕府に従う事になる。

茶器が土地と同等の価値まで引き上げられる。

正に茶で天下を取るというのも大袈裟ではない。


だがしかし、これは兄上 (信長)を一箇所に留める為の謀略の一環だ。

その事に誰も気づきもしない。

予定通りに30日の“本能寺の茶会”が開かれた。

こうして兄上 (信長)は帝のいる御所ではなく、西院小泉御所でもなく、他のどこでもなく、絶対に本能寺にいる事が確定した。

兄上 (信長)が京を制圧した時から誅殺する為に練られた計画というのだから空恐ろしい。


元々、兄上 (信長)はお市の婚姻を戦略に使った光秀を嫌っていた。

だが、才能を認めた。

光秀は変な奴、変態な奴と思われながらも忠誠心を認められて信頼を得たのだ。

そんな信頼をあっさりとゴミ箱に捨てる。

何が光秀をそうさせるのだろうか?


俺は好意には善意を返し、悪意には謀略を持って敵を滅する。

用心深く、猜疑心も高い。

だから、あの光秀は大人しくなるものかと疑っていた。

俺への忠誠心すら擬態と思えた。

絶対に何かやっていると疑っていたが、まったく気づかなかった。

ジグソーパズルを見直すと見えて来た。

今更だ。

謀略に関して光秀は俺などより一段上の豊かな才能を持っていたのは間違いない。

開催場所が本能寺でなければ、そう考えるだけでぞっとする。

ぎゅっと手を握る力が入った。

危なかった。

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