第2節 教えてくれよ、愛ってヤツをよぉ!

16 人生にも道にも行き詰ったみたいですね


 抜けるような青空、澄みきった蒼穹そうきゅう、どこまでも続く好天。

 どんな言葉で飾っても遜色ない絶好の日和。


 これだけで頬を緩ませながら心地良い日差しの下を軽い足取りで歩くのに十分な条件で、この穏やかな陽気を全身で感じながらオールグの街並みをゆっくりと堪能できたら……それはもう最高の休日になるのが保障されたみたいなものだ。


 ――それなのに……。


「イディーちゃあーんッ!」

「あぁああぁーーーーッ!」


 ヒリつくような緊張、冷え切った心胆、どこまでも追いかけてくる叫声。

 どんな言葉を使っても足りない絶対の危機。


 これだけで頬が引きつらせながら人気のない路地裏を全力で駆け抜けるのに十二分な条件で、この壮絶な苦境を脱して糸玉入りの紅茶でゆっくり一息つけたなら……それはもう最高の安息になるのが約束されたみたいなものだ。


 ――どうしてこうなったぁ!?


「ふぐぅううぅ!」


 情けない悲鳴を上げながら懸命に手足を動かし、地を駆け、壁を蹴り。

 自分でもどこにいるのか分からなくなるまで何度も分かれ道を無作為に曲がる。


 恐ろしい気配がだんだん離れていって、リィルさんの声が聞こえなくなったところで物陰に身を潜めて息を殺した。


「はぁっはぁ。っん、はぁ」


 バクッバクッ、と心臓が身体の中で飛び跳ねてるみたいに騒がしい。

 あんまりにもうるさくて、リィルさんに聞かれるんじゃないか心配になって洋服の上から握り拳をぎゅうっと押しつけた。


 さっきからこれの繰り返しだ。


 確かにリィルさんの仕立て屋とは思えない身体能力は驚異的だけど、それでもこの身体がそれ以上の性能を持っているのは間違いみたいで、かれこれ三度は撒いている。

 どう考えてもスピードではワタシの方が圧倒的に上回っているはずなのに、どうして……。


 ――キンッ!


「ひいぅ!?」


 耳元で響いた甲高い音にビクッと身体を竦ませた。


 頭の中で警報が鳴り響いているのに、そのあまりにも信じがたい現実をガチガチに固まった首を無理やり回して、恐る恐るにでもを確認せずにはいられなかった。


 座り込んでいるワタシのちょうど目線の高さ、顔のすぐ横、そこに細長い銀色の棒がいた。いや棒じゃない、何度も見てようやく分かった。


 これは、――針だ!


 二十センチはありそうな大きな針が、どこからともなく飛んできて石の壁に突き刺さってる。

 さっき聞こえた鉄同士をぶつけたような音は針が刺さる音だったんだ。


 そして当たり前の話、針だから針孔めどがついている。

 その穴には白い糸が通されていて、それを辿っていけば……、


「んふふ~……イディちゃん。みぃ~つけたぁ!」


 ディープブルーの瞳を爛々と輝かせて、蕩けるような笑みを浮かべたリィルさんが、空中に張り巡らされた糸の上に優雅に腰かけてワタシを見下ろしていた。


「あばばばば」

「んふふ~、そんなに震えなくても大丈夫だよ。ちゃあんと何からナニまで、ぜーんぶ優しくお世話してあげるから」


 リィルさんが手に持った針をチロリと舐めてみせた。


 柔らかく膨らんだ唇からあかいの舌が覗いて、銀色の上を滑っていくのが恐ろしいくらい蠱惑的な仕草だった。

 まさに獲物を糸で絡め取ろうとする女郎蜘蛛のそれだ。


 ワタシは未だに漏らしていない自分を褒めてやりたいよ。

 元は白かった顔が今はきっと青くなってるに違いない。


 足取りも覚束なくて、尻尾はさっきから股で丸まったままだ。全身がガクガク震えて立っているのもやっとだけど、ワタシの尿道はまだ恐怖に屈していない。


 尿道コイツが頑張ってるのに、ワタシがこのまま屈していいはずがない。

 ヘタりそうになる足を叱咤して、地面を踏みしめて立ち上がった。


「んふ。追いかけっこも楽しかったけど、それももうお終い」

「ワ、ワタシは、まだ諦めて、ません!」

「んふふふふ。私がイディちゃんをただ追いかけてただけだと思う?」

「へ? ……! そ、そんな!? まさかッ!」


 謎かけのような言葉に一瞬何を言っているのか分からなかった。

 そんなワタシを見下し、リィルさんは自分だけの宝物を見せびらかして優越感に浸る子供みたいな笑みを浮かべながら指で糸を弾いてみせた。


 ピュインッとささやかな音を立てて、糸が細かく振動しながらきらめく。


 その振動がリィルさんの手元から周りの糸に伝わっていくのを目の当たりにした瞬間、恐ろしい可能性が脳裏を駆け巡って、慌てて自分の周囲を確認した。


 ――上も、下も、横も!


 いつの間にか、狭い路地裏はどこに目を向けても縦横無尽に糸が張り巡らされていた。今のワタシは正しく巣のど真ん中に囚われている状態だった。


「ちゃあんと一本一本丁寧に織り上げて、一手一手丁寧に誘導して、完璧に作り上げた網だよ。だから、これで――」

「あっ、あっ、あっ」

「詰み。蜘蛛の巣の蝶々だよ」

「あ゛ぁああぁ!」


 リィルさんが束ねた糸を握り込み思いっきり引っ張るのと同時に、周りに張り巡らされていた糸がワタシに向かって凄まじい勢いで収束してきた。

 見せつけられた格の違いに、避けようとか暴れてやり過ごそうなんてことは考えることもできなかった。


 完全に手のひらの上で遊ばれていた。

 リィルさんの操り人形だったんだ。


 糸が全身に絡みついて動くことができないけど苦しくもない。

 絶妙な加減で縛り上げられたワタシは、呆然としたまま手足を大の字に広げて空中に縫い止められてしまった。


「んふふ~。捕まちゃったね、イディちゃん。でも安心して、酷いことなんてしなから」


(今ッ! 今結構酷いことしてるよッ!?)


 リィルさんはふわりと、まるで重力なんてないみたいにゆっくりと地面に降り立つと、片手で針をもてあそびながら緩やかな足取りで近づいてくる。

 その顔には見た人を安心させる微笑みを湛えているのに、瞳の奥には触れたものを溶かし尽くす熱が蠢いていた。


 少しずつ距離が縮めてくる脅威に、ようやく体が動いてくれた。

 どうにかして糸から逃れようともがいてみるけど、そもそも空中に吊られた状態じゃ力が上手く入らないし、力を入れたら入れた分だけ糸が伸縮する。


 為す術がなくて、焦りだけが募っていった。


 もう手を伸ばせば触れられる位置までリィルさんが来てる。

 このまま捕まってしまったら最後、リィルさんに甘えることしか許されない存在になってしまうのは明白だ。


 ――ヤバいヤバい! だ、誰か、誰かいないのッ!? 幼女のピンチですよ!


 誰でもいいから助けてくれる人を探して右に左に顔を向けてみるけど、人っ子一人通りそうにない路地裏は閑散としていて泣きたくなった。


「路地裏に逃げちゃったのが失敗だったね。大通りだったら人もいっぱいいたのに……」


 ついにリィルさんの指先がワタシの頬に触れた。

 顔の輪郭をなぞるように滑っていく。


 指先から伝わってくる熱が人肌の柔らかな温もりでワタシの頬を焦がしていく。

 触られた部分にずっと熱が張りついているみたいだった。


 あまりにも執拗に熱い指先に、全身の体温が奪われるような感じがして、寒気に似た感覚に震えながらいるはずのはない誰かに助けを求めていた。


「だ、誰か、助けっ」


 あまりにもか細い声。隣にいても取り零してしまうだろう儚い音は誰にも拾われることなく、薄暗い路地裏の影にそのまま沈んで……、


「無駄だよ。ここら辺の路地裏は滅多に人なんか通らないから。

 そんな計ったみたいに助けに来る人なんていな」

「――いや、そうでもないさ」


 いかなかった。





      ☆      ☆      ☆


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