第120話 デルニエール攻防戦 二日目 魔王軍サイド③
「うっそ――」
できたことは二つ。
持ち得る魔力を総動員させ、全力で肉体を強化する。奇襲が来るであろう上方に、可能な限り強固な障壁を展開する。
防御の一点特化。この上なく的確な、神がかり的な刹那の反応。
それらはまったく意味を為さない。
まもなく訪れた一撃は、分厚い障壁を薄氷のごとくぶち破り、全身を覆う魔力の鎧を貫いて、致命の威力をもたらした。
目に映ったのは、年若い人間の男。折れた剣の切っ先が、咄嗟に振り返ったソーニャの腹部に潜り込む。その勢いたるや凄まじく、上空にあったソーニャを一瞬で地上へと打ち落としていた。激烈な加速感が平衡感覚を奪い去る。それすら気付く余裕もないほどに。
戦場を揺るがした短い爆音。この轟きが肉体と大地の衝突音だと、一体誰が想像できただろう。爆心地となった墜落地点から、天まで届かんばかりの土煙が忽然と現れる。土砂、岩石、死骸、諸々を含み濛々と。
出来上がった巨大なクレーターの中心で、一振りの剣がソーニャを釘付けにしていた。薄い腹部を貫通して大地に突き立ち、ただその柄のみを晒している。
何が起こったのか。ソーニャには理解が及ばない。五感はひどく曖昧だ。無慈悲な息苦しさがソーニャを苛んでいる。吸うことも吐くこともできず、喘ぐことも呻くことも許されない。
内臓を満たした血液が逃げ場を求め、ソーニャの口から噴出した。堰を切ったように溢れ出す鮮血。内臓ごと吐き出してしまいそうな嘔吐感と、首を捻じ切られたと錯覚するほどの閉塞感が、ソーニャを容赦なく圧殺せんとする。
声を荒げて悶え苦しみたい。体を掻きむしり、のたうち回れたら、どれほど楽になるだろう。悲痛な望みは叶わない。全身の体組織が崩壊し、かろうじて原型を留めているだけのソーニャに、もはや指先一つ動かす力も残っていない。
カイリちゃん。カイリちゃん。
心の中で泣き叫ぶ。祈るように、縋るように。
親愛なる魔王。彼女の存在がなければ、とっくに生を手放していた。
だから、呼んでしまうのだ。
何度も。何度も。
ぼんやりとした視界に人型の影が映る。その輪郭は次第に明晰になり、見慣れた姿へと変わっていく。
健康的な肌の色。黒い頭髪。栗色の瞳。少し幼さの残る顔立ち。必死に何かを叫んでいる。
ああ、来てくれたんだ。
喜びと感謝。自責と悔恨。苦痛と安楽。感情の色彩が、代わる代わるにソーニャの心を塗りつぶす。それは声混じりの呼気となって、友の名をうわ言のように繰り返していた。
カイリちゃんが来てくれた。死にかけた自分を助けに来てくれた。それだけで心は満たされていく。
傷んだ体が揺さぶられている。それをカイリの抱擁だと信じて、ソーニャはかすかな笑みを浮かべた。
すべては、弱った心に映る幻だとも気付かずに。
十数秒前まで轟々と燃え盛っていた彼女の生命は、今や風前の灯だった。すでに勝利への意欲はなく、残されたのは偽りの希望だけ。
ソーニャは知る由もない。
目の前の影が、いつか弄び蹂躙した人間であることを。
その人間が、英雄と称されるめざめの騎士であることを。
そして、畏れ敬う魔王カイリの、実の兄であることを。
濃霧に迷い込んだ意識は、ゆるやかに暗闇へ溶け込み、やがて消滅する。
彼女の正義は敗北した。
強者の存在を知らされていながら用心を怠った。数を頼みながら団結を為せなかった。なにより勝利への執念が、まったく足りていなかった。
今となっては後悔もできない。
ほんの一瞬の出来事が、ソーニャの運命を大きく狂わせた。
否。
あるいはこの結果こそ、来たるべくして来た宿命だったのもしれない。
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