第74話 デュールと入浴
その日の訓練を終える頃には、空に赤みが差していた。
今は束の間の休息。邸宅の風呂で熱い湯に身を浸している。広々とした石造りの大浴場は立ち上る湯気で満たされており、疲労困憊のカイトはぼうっと天井を仰いでいた。
長時間の立ち合い、走り込みによる疲れが全身の力を奪い去っている。ここまで疲れると、疲れたという言葉も出てこない。無気力な吐息だけがカイトの口から漏れていた。
「精魂尽き果てた、という感じだな。明日はさらに訓練の強度を上げるぞ。今はしっかりと休むといい」
「へい」
中肉中背のカイトに対し、デュールの肉体は筋骨隆々だ。浅黒い肌には多くの傷痕が刻まれ、幾多の修羅場をくぐってきたことを物語っている。
彼の鍛え上げられた肉体美を見て、いずれ自分もあのような逞しい体になれるのかと想像する。男として生まれた以上、カイトにも少なからず筋肉への憧れがあった。
「それにしても奇妙なものだな。そのタリスマンという代物は」
カイトの首にかけられたタリスマンをまじまじと見るデュール。
「マナ中毒を抑えるというが、一体どんな仕組みなんだ?」
「さぁ」
考えたこともなかった。異世界ならではの超自然的な魔法の力が云々ではないか。今のカイトにものを考える余力はなかった。
「まったく……だらしがない。疲れているのはわかるが、勇者として振る舞う努力を怠るな。今に君は、国中の注目を集める存在になるんだからな」
もっともだ。カイトに課せられた役目は、ただ魔王を倒すだけではなく、魔王に怯える人々に希望を与えることでもある。頼りなく情けない姿を晒すわけにはいかない。人に見られていない時こそ、勇者に相応しい立ち振る舞いを身に着けるべきだ。
といっても、流石に今は無理である。
「そろそろ僕は帰る。明日の日の出にまた来るから、しっかり体を休めておけ」
「あれ。デュールさんはここに住まないんでしたっけ」
「帰る家があるからな。妻と娘が待っている」
「ええ?」
ちょっとした驚きだった。クディカの副官であるということ以外、彼については何も知らなかったが、まさか妻子持ちだとは。
「なんかすみません。せっかく王都に帰ってこれたのに、俺に付き合ってもらって」
「気にすることはない」
それまで厳めしいだけだったデュールの表情が、ふと和らいだ。
「そもそも君に付き合わなければ、僕はまだデルニエールにいただろう。君には感謝しているくらいだ」
そう言ってもらえるとカイトの気も楽になる。他人の一家団欒を邪魔するのは流石に気が引ける。
「また明日な。溺れるなよ」
デュールは湯船から上がって浴場を出ていく。彼の背中はどことなく浮かれていて、家族に会えるのを心待ちにしているようだ。
一人になったカイトは、肩まで浸かった湯船の中で一段と大きな溜息を吐く。
家族か。
この世界に来てからこちら、頭の片隅にあっても考える余裕などなかった。いや、考えないようにしていた。亡くなったカイリばかり思い出したのも、元の世界に残してきた両親やもう一人の妹のことを考えるのが辛いからだ。
カイリに続き、カイトも死んだ。両親の悲しみを思うと、胸が締め付けられる。だがカイトにできることは何もない。異世界で生きているということを伝える手段もない。
だから、家族のことを考えるのはよそう。どれだけ彼らを想っても、もう遅いのだ。
割り切ったわけでも、開き直ったわけでもない。過去を戒めとして、これからこの世界を精一杯生きる。今のカイトにできるのはそれだけなのだから。
「よしっ」
頬を叩き、立ち上がる。体が悲鳴をあげてもかまうものか。これから魔王を倒そうというのに、疲労や筋肉痛に負けている場合ではない。
風呂から上がったカイトは、その足でリーティアの私室に向かった。
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