第29話 いつかの記憶 ②

「で、結局何が言いたいんだ」


 日頃の行いを咎められていることを煙に巻こうとしているのなら、毅然として叱らなければならないだろう。それが兄の務めだ。

 だが、次に海璃が口にした言葉は、海斗をしばし唖然とさせた。


「自分が一番辛い時には、誰かの為に戦うんだよ」


 その響きは、苛立つ海斗の胸にすっと落ちてきた。

 海璃の屈託のない笑みに、一抹の気恥ずかしさを覚える。だが、それを表情に出すには兄としてのプライドが邪魔だった。


「……お前が病室を抜け出すのとどう関係あるんだよ」


「私のおしゃべりでみんなが元気になってくれるんだから、そりゃ頑張っちゃうよ」


「ああなるほど。そう考えれば、確かにおしゃべりも立派な戦いだな」


「ホントに思ってるー?」


 兄妹はどちらからともなく笑い合った。

 茶化してはいたが、この時の海斗は心からの喜びを感じていた。


 前向きに生きようとする意志を率直に伝えてくれた海璃。自分では情けないと感じていた過去の行いが病床の妹に希望を与えていたのだから、これが心震えずにいられるか。

 重病人の海璃がこんなにも頑張っている。なら兄である自分がやるべきことは、どこまでも妹を支えてやること以外にない。


「まぁ、無理だけはするなよ。もしお前に何かあったら、お前の言うみんなが悲しむことになるんだからな」


「うん。わかってる」


 海璃は微笑みを浮かべて、再び窓の外に目を向けた。

 空は夕焼け色に染まりつつあった。病室の白い壁が、燃えるような赤い光に彩られていく。


「ねぇおにいちゃん。私のお願い、聞いてくれる?」


 しばらくして、海璃がぽつりと呟いた。


「おう、なんでも言ってみろ。けど金がかかることは無理だぞ」


「ふふっ」


 小さく笑い、真剣な眼差しを向ける海璃。


「もしおにいちゃんが、これから先どうしようもなく辛くて苦しい目にあったら、その時は今日のおしゃべりを思い出して」


 栗色の大きな瞳に、カイトの呆けた顔が映っている。


「なんだよ。そんなことでいいのか?」


 改まって言うものだから、どんな大層なお願いをされるのかと身構えていたが、正直拍子抜けである。

 微笑みながら妹の頭を撫でる。こうしてやると、海璃はいつもくすぐったそうに喜んだ。


「それくらいならお安い御用だ」


 思い出すどころか、忘れることすらないだろう。

 これから先もずっと妹を守っていく。その思いが揺らぐことはない。

 そうに決まっているのだから。


 海璃の痩せた顔に、どこかほっとした表情が浮かぶ。


「ぜったいだよ?」


「ああ、約束だ」


 任せとけ、と海斗は自信をもって胸を叩いた。


 この日からちょうど一か月後。

 海璃は、静かに息を引き取った。

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