第9話
目の前に広がっている光景を、俺は信じる事が出来なかった。
濁った空気。唸る獣の声。血走った瞳にクマよりも巨大な体躯。
人間と言う餌を目にした捕食者は自分達を噛み砕こうと、猛禽類を思わせる鋭い爪を伸ばすが、その腕は目の前にある檻の柵に阻まれた。
イメージとしては巨大なライオンが二足歩行しているような形に近い。尤もそれは外見上の話であって、実際は様々な部分に差異はあるし、ライオンなんてまだ可愛らしいものだ。
俺は目の前のそれを見違える筈もなかった。
魔獣だ。魔に属し、人を食らう存在。そんなものがまるで飼い慣らされているかのように首輪をされ、檻に閉じ込められている。
それも一体に限った話ではない。この場所は監獄のように牢獄が乱立し、その中に見世物のように幾体もの魔獣が投獄されてある。どちらかと言うとこの状況は、動物園なんかに近いのかもしれない。
幾つもの唸り声が縦に長い通路に反響し合う。森の東に位置する川の近くの廃屋に案内された時は、ローグの言葉も単なる虚言に過ぎないと思っていたのだが、実際にはそこの地下施設にこのような光景が広がっていたと言う訳だ。
檻の材質を良く見てみれば、上質な魔力が柵に編まれている。これでは弱体化した魔獣如きに檻を破壊する事は困難だろう。
篝火が暗闇を仄かに照らす通路の中を進んで行く。様々な魔獣の姿が見れる最中、牢獄の中はあまり清掃も行っていないのか、糞尿の臭いがした。
そんな時にふと鼻に突く香りがして、足を止める。
糞尿の中に鉄錆びた独特の臭いがあり、とある檻の中に目を凝らすと、無機質な床の上に夥しい量の風化した血と、口元を赤く染めた魔獣が見れた。
食料として提供されたのか。果たしてその血は動物のものか、或いは――。
「何なんだ、ここは」
「さぁね。とは言え、予想は付く。元々は本当に単なる牢獄だったんじゃないかな、エルフ専用の。まぁそれにしては大掛かりだし、維持するのも大変な筈だ。魔獣を中に入れるとしたら尚更の労力は必須だ。全く、誰がこんな魔境を作り上げたのか」
未だ武装を解かないオルコスに向け、皮肉のように彼女は言い放った。
ローグは森の中を賑わせている一連の事件に、自警団が関わっていると話した。となるとそう考える根拠がある筈だが――。
この地下施設の他に、何か彼女は俺の与り知らぬ情報を得ているのか。
問えば、不敵に笑う彼女の顔がある。その発言の真偽によっては、俺も覚悟を決める必要が――。
「実は、この地下施設の事しか知らないんだ。自警団が関わっていると言ったのは、単なる憶測に過ぎない。物的証拠はこれくらいさ」
「……は?」
胸を張って悪びれもせずに言うローグに呆れたような声を上げたのは、果たして俺かオルコスのどちらだったのか。
「それじゃあ、何だ。これ以外、何も知らないと言う事か?」
「ああ。何故この施設の主は魔獣を閉じ込めているのかとか、その主は誰なのかなんてものは知らないよ」
「いや、お前この事件の真相を知っているって……」
「言葉の綾だよ。まぁ、この森の地理に長けたエルフが、ここの存在を知らないとは考え辛いだろう。彼等が良く扱う川の近くに位置する、この廃屋の存在を、さ。今回はその事について良く聞く為に、そこの自警団の女の子に来て貰ったと言う訳さ」
彼女は自分が愛用する双剣に手を掛けた。
必要があれば武力を行使する事も、オルコスを痛め付ける事も辞さないと言うように獰猛な笑みを見せるローグに、流石の俺も頭を抱えた。
出来ればオルコスに知っている事を話して貰いたい。
だがあくまで自警団に抱く感情は不信感に過ぎず、彼等を完全に疑うような証拠がない以上、痛め付けるのは得策ではないし証拠があっても拷問なんて事はしたくない。
故にオルコスから自主的に何か話して貰うのが一番手っ取り早いし、本当に何も知らないのであれば構わないのだけど――。
俺はローグを手で制し、結論を口にした。
現状は様子見と言う事で、オルコスにはあまり拘束力もないが出来れば今回の件を他のエルフ達には内密にして欲しい、と言うような口止めをする。尤もあまり意味のない事だけど、口にするのは大切だ。
ローグは何処か詰まらなさそうに口を尖らせて、オルコスはほっと胸を撫で下ろしたような様子で頷いた。
一旦はこれでいいだろう。この魔獣が飼い慣らされていると言う牢獄も危険なので、念の為にこの地下に入る際に使う出入り口付近に魔術の刻印を刻んでおいた。これがあれば定期的に刻印を通し内部を監視出来る上に、この場所に転移も可能だ。
さて、元の仕事に戻ろうと踵を返そうとした俺を、ローグが引き留めた。
後ろを振り向くと、何か思い付いたように良い笑顔を浮かべている。その思い付いた事が、俺にとって良い方向に向かうのかどうかというのは、言うまでもないだろうけど。
***
「どうも、エルフの皆さん初めまして。一等級冒険者のローグと言います。古い知り合いであるオーウェンから聞いたのですが、何でもこの森には魔獣が居るようで。その退治を彼から正式に依頼され、暫くの間この森に滞在する事になりました。一刻も早く依頼を達成させ、皆さんが安心出来る元の日常を提供したいと思います」
何時もの中性的な口調ではなく敬語を使い、狂気じみた笑みではなく人当りの良い笑顔を浮かべる辺り、彼女も社会の人間なのだなぁと思う。とは言え本性があれなので日陰者である事には違いないのだが。
なんて現実逃避を試みるが、ローグを前にしたエルフ達の騒めきによりそうも言っていられなかった。
同族意識が高く、一定の種族以外には排他的なエルフだ。
と言うより、人狼と言う種族自体他種族から煙たがられる存在であるが故に、エルフの排他的な感情と人狼に対する嫌悪の感情が働いて、相乗効果と言う訳ではないがローグに向ける反応は当然ながら芳しくなかった。
「あー、勝手に決めてしまって皆さんにはすまないと思ってる。けど、昔彼女とは一緒に仕事をしていた事もあって、彼女が――その、誠実で、信頼に足る人物だと言うのは、俺が……保証する。だから彼女に対して思う事もあるだろうが、どうか現状を乗り越える為にも、今ばかりは偏見を捨て、種族関係なく接してやって欲しい」
血を見て発情し死体の前で致そうとする狂犬が誠実で信頼に値する、なんて。この場を凌ぐ虚言だとは言え、胸が痛い。
集まる一同の中に交じるオルコスの方に目を向ければ、合わせた視線を逸らされてしまう。辛いものだ。
俺が居なければ直ぐにでも石を投げて来てそうな彼等だが、最終的にはこの森にローグを受け入れざるを得なくなるだろう。
何せ事前にこの森の主であるネライダには、ローグが一定期間――魔獣の件が解決するまでの間、このエルフの居住区に滞在する事を許可されている。
尤も最初こそダメだの一点張りで取り付く島もなかったのだけど、必死に頼み込んだ末、条件付きで滞在する事を許可されたのだ。
ローグに自分も自警団に加わり働けば俺の負担が少なくなり、ネライダと過ごす時間も増えると言われたのがどういう訳か決め手だったようで、実際ローグに対する不信感を口にする彼等の前にネライダが現れると、監視の下自警団の仕事に彼女も加わると言えば鶴の一声が如く非難する声も止んだ。
――何故ローグがエルフ達の前に現れたのか。
これに関してはひとえに彼女が自警団が今回の事件に関わっている事の物的証拠を探る為のもので、リスクはあるが現場の情報がリアルタイムで伝わると言うのはメリットであるとのこと。
一先ず現地民の同意、と言えるかどうかは疑問だが、一段落して皆それぞれに自分の勤めに戻るのだった。
因みにローグにはネライダの屋敷にある余りある部屋のひとつを貸すとの事で、森の主である彼女の家に見ず知らずの冒険者を泊めさせる事に住民は反発したが、何かあった時は勇者が助けてくれるだろうと強引に話を進めた。
時刻は日が明けて早い時間帯である。
夕暮れになると森の中には不穏な気配が漂うが、朝や昼の内はまだ平和なもので、俺は自分に宛がわれた自室に戻ると装備を解除し、ラフな格好に戻ると屋敷の廊下に出た。
既に一階にあるキッチンからは朝食の香ばしい匂いがする。同居人が増え彼女の負担も大きくなるだろうに、申し訳ない限りだ。
と、廊下に出た所、丁度同じタイミングで部屋を後にしたローグとばったり出くわした。同じ階に住む者同士だ、顔を偶然合わせる事もあるだろう。にしては随分と見計らったような偶然だが。
「良い匂いだね。多分これは……ベーコンエッグに食パン、あとコールスローサラダかなぁ」
「流石人狼だな」
「まぁね。言ったろう、嗅覚には自信があるのだと」
互いに他愛のない会話を繰り広げながら階段を下る。正直彼女の本性を知っている身分からすると苦手意識が生まれるが、近頃は割り切って付き合う事に決めていた。
まぁ数少ない知り合いだ。ちょっとやそっとの事くらいで別れるのも悲しい。パトリオットのように、碌に話もせず別れるような事はもうしたくないし。
ダイニングに入ると、既に机にはローグが言った通りの料理が並べられていた。
だが、どうにも数が少ない。皿が各種二人分。食べるのは三人だ。困惑していると、食パンだけを乗せた皿がもう一皿だけ追加される。
「……貴女にはこれだけで充分でしょう」
「おや、まさか早速いびりを受けるとは」
「言っておきますが、貴女を信用する事はありません。これからもずっと。貴女が自身の勤めを果たすまで面倒は見ますけど、それも最小限のものに限ります。これから自分の事は自分でするように」
そう言って悪びれもせず席に着くネライダとあまり気にもしていないローグだが、何と言うか俺としては少し居心地が悪い。
先程も言った通りローグとは割り切った関係を目指しているが、流石にあれだけじゃあ足りるかどうか不安だし、少ない食料のみを与えられている人の目の前で食事にありつける程、俺の神経は図太くない。
おろおろして食もあまり進まない俺の元に、そっと白い腕が伸びた。
その腕はフォークだけで器用にベーコンエッグの黄身を割り、その半分を持って行った。犯人は言うまでもなく、ローグである。
「それは勇者様の為に作った料理です、貴女の為のものじゃありません。何て手癖の悪い……躾のなっていない犬ですね」
「ん。ああ、すまないね。彼が少しばかり私に対して申し訳なさそうにしてたから、その気持ちを和らげてあげようと思って。ほら、彼氏が辛そうにしているのは、見たくないだろう」
「――はぁ!?」
声を荒げたのは俺かネライダだったか。
彼氏。ローグは俺の事をそう形容した。だが生憎俺は彼女と男女の関係になった記憶はないし、そのつもりもない。
混乱する最中ふと自分の足を蹴られる。蹴られた箇所から察するに、俺の目の前に座るローグのものだろう。
彼女は小悪魔に微笑んで、話題を合わせろ、と唇の動きのみで俺にそう告げた。
「勇者様!? 嘘ですよね!」
「あ――ああ。実は、さっきは彼女の事を仲間と言ったが、前の話でね、それも。まぁ、何と言うか。事実、かなぁ。だからローグには、優しくしてくれると嬉しい」
「はは、少し恥ずかしいね。まぁ、そう言う訳だ――残念だったね」
後には魂が口から出ているようなネライダだけが残った、と言う。
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