第四十話 悪夢と生徒会長

 桃香は寝付かれなかった。幾度も寝床の中で寝返りを打ちながら、眼を閉じ眠ろうと努めるのだが、眼はますます冴えていくばかりだった。

 あの戦いから一週間が経とうとしていたが、桃香はあれからずっと、不眠に近い状態が続いていた。モンプエラに遭遇し対峙したのはこれが最初ではなかったが、受けた衝撃はこれまでの中で最も大きかった。

 アサシンバグモンプエラというあの怪物が身にまとっていた死体の堆積は、彼女の脳裡にこびりついて離れなかった。嘔吐を催すあの凄まじい腐臭、流れ落ちる茶色の液体とそれに群がる蠅の群れ……、露出した骨、殆ど髑髏に近くなったその頭部が怪物の動きにつれてがくがくと動く様……。何もかもがおぞましく、惨たらしかった。そんな死体の山を背負い、無邪気な笑顔で歩み寄って来る少女……ああ、怪物! 悪魔!……その姿は夢にまで現れ、桃香は魘された。

 アサシンバグがこちらへ歩み寄って来る。黒く輝く剣をその手に持ち……桃香は何とかして逃れようとするが、脚は地面に吸いつけられたかのように全く動かない。反撃しようなどという気はとうに失せている。相手が剣を振り上げる。その尖端が身体を貫く。必死に逃れようと、深々と剣の突き刺さったままの身体であがく。敵の背から死体たちが降りてくる。両手を前方に突き出し、腐乱した汁を撒き散らしながら、一歩々々、桃香に歩み寄って来る。来ないでと必死に叫ぶが、届く筈もない。よろめくようにして駆け出す。入り組んだ住宅街を駆け抜けていく。何度も角を曲り追っ手を撒こうとするが、追いかけてくる足音は常にすぐ後ろにある。視界が急に開ける。そこに立っていたのは碧衣だった。先輩、と叫ぶ桃香に、碧衣は冷たい視線を返す。持っていたユーストボウをこちらへと向け、弓をつがえて引く。

 ――あなたにユーストガールは務まらない。

 矢が放たれ、桃香の身体に的中する。思わず悲鳴を上げたところで目が醒めた。朝であった。

 桃香は溜息をついて起き上り、朝食を摂って高校へと向った。とにかくこういうときは、友人たちと話すに限る。一人で悩んでいると気が滅入るだけだ、と思いながら、桃香は自転車のペダルを漕いだ。

 しかし早く教室へ行って絵里たちと話そうという桃香の思いは、昇降口まで来たところで、ものの見事に裏切られた。

「佐々井桃香。ちょっと来てくれる?」

 下駄箱で靴を脱ごうとした桃香は、昇降口の壁に寄り掛かって待っていた様子の碧衣に背後から声を掛けられ、思わず身体を硬くした。

 見れば碧衣は普段にも増して不機嫌そうな表情をしていた。心なしか、顔は蒼白く、窶れてさえ見えた。そんな様子の碧衣に連れられて、桃香は階段を昇り、生徒会室の前まで連れて来られた。

 碧衣はポケットから鍵を取り出して、扉を開けた。

「今日は誰もいないから」

 碧衣はそう言って、桃香を室内へと導いた。中は相当に狭く、壁に沿って並べられたスチール製の棚、中央に置かれた長机で一杯だった。碧衣は様々な書類が散乱したままのその長机のパイプ椅子を一脚引くと、「坐って」と命令でもするような口調で言った。

 桃香はおずおずと、遠慮がちに腰を下した。碧衣は自身は椅子に腰掛けずに、物憂げな足取りで窓へと歩み寄った。窓からは白い雲に覆われた空の下、広がる運動場を眺め遣ることができた。眼下のそんな景色を見下ろしながら、碧衣は静かに口を開いた。

「この間の戦い……、何故負けたのだと思う?」

 予期していた問いではあったが、桃香は答えに詰まった。

「それは……、私が攻撃を躊躇ったから……」

「そうよね」と碧衣は窓を向いたまま言った。「あなたは死体を突き付けられて怯み、攻撃を躊躇った。私があそこで加勢していなければ、あなた、死んでいたかもしれないのよ」

「それは本当に、失態でした」と桃香は項垂れて答えた。「でも、死んだ人を先輩のように剣で傷付けることが、私、どうしてもできなかったんです。今、再びあのモンプエラが現れたとしても、私は先輩のようなことができるかはわかりません……」

 アサシンバグが目の前に突き出してきた女性の死体、そのおぞましい姿がありありと脳裡に蘇った。碧衣はその盾を、平然とユーストソードで一刀両断したのだ。しかし桃香には、そんなことをする勇気はとてもなかった。

「それがあなたの、覚悟の程度ということね」

 碧衣は桃香を振り返り、睨み下した。「このままでは到底、モンプエラ……あの悪魔たちに立ち向っていくことはできないわ。あなたの存在、却って足手まといなくらいなのよ」

「足手まとい……」

 桃香は俯き、脣を嚙んだ。どうしようもない口惜しさばかりが込み上げた。それと共に、自分を擁護したいような思いもないわけではなかった。確かに自分は死体の盾を切り捨てることを躊躇したが、それは一瞬のことに過ぎなかった。少なくとも完全に戦意を失って敵に押されていたわけではない。僅かに躊躇したその間隙に、碧衣が矢を放ったのだ。しかしそんなことを、碧衣の前で言い出せる筈もなかった。

「……白井先生に……」

 独り言つような碧衣の声を聞きつけて、桃香は顔を上げた。碧衣は曇天の空を窓越しに見上げながら、打開策を練り上げようとしているのだった。やがて彼女は、硬い決心を窺わせる、強い口調で宣言した。

「今度、また白井先生の元へと行くわよ。あなたよりもよい仲間を得ることはできないか、戦闘能力を高めるためによい方法はないのか、教えを乞いたいことは山ほどあるわ」

「でも、あの人が……」桃香は戸惑いを覚えつつ口を挾んだ。「あの人が、そんなことを知っているんでしょうか。話を信じるにしてもただ、神の声とかいうものを聞いて、私たちユーストガールの存在を知った、というだけの存在に過ぎないのではないかと思うのですけれど」

 碧衣は苛立っているような、戸惑っているような、複雑な感情の入り混じった表情を桃香に向けた。まるで子供が予想外の悪戯を始めて、どう叱るべきか途方に暮れている母親のような表情だった。

「何でも知っておられる方よ、あの方は」

 やがて碧衣は、威厳を取り戻そうとするかのように、確信に満ちた口調で答えた。

「あの方に訊けばきっと有用な知見を得られる。ユーストガールの存在を御存知になったのも、決して偶然のなせる業ではなく、必然的にそうなることが決まっていたのよ。だから……」

 碧衣ははっきりと、桃香を見据えて言った。

「今後の指針を、あの方の言葉によって定めるのよ」

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