黒猫少女亜紀

富田敬彦

第一部 銀剣の黒猫

第一話 一九八九年、二〇一四年

 西暦一九八九年。日本では時代が、昭和から平成に移り変って数ヶ月後の、六月十日の出来事である。国際テロ組織『ブラックローズ・バトルフロントライン』により実行された世界同時多発テロが、全世界を震撼させた。

 ブラックローズがテロを実行したのは、アメリカ、ソ連、日本、イギリス、フランス、西ドイツの六ヶ国であり、それぞれの主要都市が標的となった。アメリカではニューヨーク市営地下鉄が爆破され、日本では航空機一機がハイジャックされ、霞ヶ関の官庁街に墜落した。ソ連ではモスクワの人民宮殿が爆破され、フランスではパリのシャンゼリゼ通りに猛毒ガスが撒布された。イギリスではテロリストたちが時計台ビッグ・ベンに籠城した末、爆弾で自爆した。死者は合計で数千人を超える、甚大な数に上った。

 時は冷戦時代であり、東西陣営の双方が大規模テロの標的となったことが、各国政府に大きな衝撃と混乱とをもたらした。その意図が余りに不可解であるために、第三世界の国の仕業ではないか、或いは東西いずれかのテロは、捜査を攪乱させるための自作自演なのではないかという噂も、まことしやかに囁かれたほどである。

 しかし程なくして、ブラックローズ側から犯行声明が出され、各国の警察及び軍は、直ちに実行犯の逮捕に乗り出した。当時、世界各国に支部を持っていたこの組織は、元は無政府主義を掲げる政治結社であり、次第に思想を過激化させて武装をするに至り、最終的に全世界の国家転覆を目標とする、テロ組織と化したものであった。

 組織代表者、即ち頭領の氏名は、ダーナル・スミスと公表された。ニューヨークに於けるテロの実行犯であり組織幹部でもある二名は、ジャッキー・ガーネント及びギサブロー・クロカワであることが突き止められた。後者の日本人らしきテロリストの名は、殊に日本に於て大きな注目を集め、その正体が取沙汰された。その後の報道で、この男の氏名の漢字表記が「黒川義三郎」であること、年齢は六十歳前後であることが判明したが、その生い立ちやテロ組織構成員となるまでの経緯は、結局一切明らかになることはなかった。他に報道されたのは、彼の出身地がカリフォルニア州であるということぐらいであった。

 同年の十一月、ブラックローズの本部が、アメリカ東部の沙漠地帯に所在することが明らかになり、米軍による急襲が行われた。最終的には上空からの爆撃によって本部の建物は全壊し、スミス、ガーネント、クロカワの三人を含む、数十人の構成員の死亡が確認された。世界各国の支部も一九九〇年代の前半までに全てが壊滅し、ブラックローズは消滅した。

 その頃には誰もが忘れていたことであるが、ネバダにあったブラックローズ本部への爆撃後、瓦礫の山と化した建物へ調査に入った米軍の兵士たちが、残っていた一枚の壁にペンキで大きく書かれた一文を見て、等しく不気味な思いを抱いたという出来事もあった。それは次のような文章であった。

〝BLACK ROSES WILL BLOOM AGAIN.〟

「黒い薔薇は再び咲く」、そう書き残されていたのであった。


* * * * * *


 ……眩しいほどに夏の日光を反射する、河の流れのほとりだった。

 彼女は、大小の石に覆われた歩きにくい河原を横切って、水際へと近付こうとしていた。太陽は真上近くにあったから、時刻は昼過ぎ辺りだったかもしれない。辺りに人気はなく、やや離れた場所にある鉄橋を行き過ぎる自動車の音だけが、柔和な響きを以て耳に届くのみだった。

 強い日光が剝き出しの腕や首筋を灼くのを感じながら、ようやく流れの傍までやってくると、立ち止って、森閑とした辺りの光景を見渡した。河は広く、遠い向う岸までの間には、幾つもの大小の砂州が浮んでいた。中には葦のような植物が繁茂している州もあったが、風はなく、熱せられた大気の中で、その葉は小揺るぎもしなかった。

 水に足を浸けようとサンダルを脱ぎ掛けたとき、やや離れた場所で、流れの傍らにしゃがみ込んでいる、一人の少女の姿が目に映った。彼女は一目見て、相手が自身と同じぐらいの年齢であることを見て取った。少女はうつむいて、流れに片手を浸していた。その姿は何故か寂しく見え、彼女はこの少女に、不思議な親しみを覚えた。何か歩み寄って、話し掛けてみたいような、そんな思いをふと抱いた。……


* * * * * *


 ……目覚まし時計の音に、彼女の眠りは破られた。眼を開けた彼女は枕元へ手を伸ばし、鳴り響くベルを止めると、カーテンを透かした日光に明るんでいる、部屋の白い天井をしばし見つめていた。窓際のベッド、壁に掛けられた時計に高校のセーラー服、カレンダー、勉強机、その上の教科書、ノート、横に置かれた鞄……、何もかもが普段と変らず、彼女の周りにあった。

 北野亜紀はやがて起き上り、カーディガンを羽織りながら、よく自分が見るこの夢は、一体何なのだろうと考えた。初めて見たのは数年前の中学生の頃だったような気がするが、それ以来殆ど内容を変えることなく、同じ夢は何度も繰り返し、亜紀の前に現れ続けているのだった。

 夢の中で、自分は子供の姿になっている。サンダルを履き、広い河辺に立っている。照り付ける日光は暑く、季節は明らかに夏であろう。起きてから考えてみれば、辺りの光景は、実際に亜紀が居住している神奈川県藤野市を流れる、藤野川の光景にもよく似ていた。そして毎度現れる、あの見知らぬ少女。夢の中で自分は、彼女を自分と同年代だと認識し、話し掛けてみたい願望を感じるのであるが、ついぞ話し掛けられた試しはなく、そう考えたのみで夢は杜絶してしまう。彼女の顔も明瞭には見えないし、その正体も当然ながらわからぬままだ。

 同じ夢をこれほどに何度も見るとは、亜紀にしても珍しいことではあった。これ以外に何年にも亙って現れ続ける夢は、これ以外には記憶にある限りではなかった。それだけにあの少女が何者であるかが一向にわからないことが、一種のもどかしさを亜紀に与えもした。しかし夢とは元来そういうものでもあるのだ、と亜紀は思っていた。摑もうとしても手の届かないあの苛立たしい感じ、あの曖昧な浮遊感、それらをあの夢も例に洩れず持っている。河端にしゃがみ込んでいるあの少女も、結局は誰でもないのかもしれない。

 或いは遠い昔に見た光景を、自身が心のどこかで記憶していて、見知らぬ少女をちらと見たその場面だけを、さながらテレビの再放送のように、繰り返し流しているに過ぎないのかもしれない。藤野川には子供の頃、幾度も遊びに行ったことはあったから……。そこまで考えて、亜紀の胸は小さく痛んだ。夢の記憶を振り払うようにして、そのまま彼女は階下へと降りた。

 台所では母親が、既に起きて立ち働いていた。亜紀は戸を開けながら、「おはよう」と声を掛けた。

「おはよう。もう鮭も焼き上るから、納豆と醬油、出してくれる?」

「はあい」と返事をして、亜紀は冷蔵庫を開けた。四人分の納豆と戸棚の醬油を出して居間へ入ると、父が畳の上に新聞を広げて読んでいるところだった。亜紀は卓の上に納豆を並べた。

「おはよう。祐樹はまだ起きてないの?」

「ああ、まだ来てないな。亜紀、起してやってくれ」

 仕方ないなあ、と呟いて、亜紀はもう一度階段を上った。部屋の扉を開けると、今年で中学三年生となる弟の祐樹は、窓際のベッドの上に大の字になって、大きな鼾をかきながら熟睡していた。亜紀が閉まったままのカーテンを開け放つと、眩しそうに唸り声を上げながら、寝返りを打って日光へ背を向けた。

「おはよう、祐樹! もう朝だよ!」

 声を掛けても中々起きようとしない祐樹を、亜紀は何度か揺すぶった。相手は布団を頭から被り、しばらくの間抵抗を続けていたが、やがてとうとう観念して、眼をこすりながら起き上った。亜紀が弟と共に階下へ降りると、既に居間では朝食の準備が整っていた。家族は各々の席について食事を始め、弟も寝間着姿のまま、眠そうな表情で箸を取った。

 朝食を終えると、亜紀は制服に着替えて準備をし、家を出た。自転車で十五分ほどの場所にある県立藤野高校が、亜紀の通う高校だった。今年で既に、彼女は二年生である。通学路では途中、数人のブレザー姿の高校生とすれ違いもした。駅近くにある、私立ウィステリア学院高校の生徒であろう。中学校も併設している規模の大きな高校で、亜紀も高校受験時には併願して受験もしたのであるが、真新しい現代的な校舎と、瀟洒な雰囲気が印象に残っていた。

 登校すると亜紀は窓際の席へ着いた。今のクラスには親しい友人もおらず、誰かと会話するようなこともない。小学校以来、彼女は周囲に心を閉ざしがちだった。周りを拒絶しようとしていたわけではないが、友人と呼べる関係となる、その手前の一歩のところで、どこか相手と自分との間に距離を感じてしまうのであった。恐らくその心理作用には、子供の頃の人間関係が大きく作用しているのかもしれないと、亜紀自身では考えていた。

 小学校低学年の頃、亜紀はよく、男子を中心とする集団に、みなし子と言われてからかわれた。彼女からは何も口にしてはいなかったので、自身が孤児であったことを、どこで彼らが知ったのかは詳らかでない。しかし恐らく近所の子供が親から聞いた話が、学年の中で伝播していき、そのような有様となったのであろうことは想像に難くなかった。

 しかしみなし子というその言葉が事実であるだけに、亜紀は何も言い返すことができなかった。彼女は父母及び祐樹とは血が繫がっていない。北野家の中で唯一、血筋からは除外された存在であるのだった。養父母は実子同様に亜紀に愛情を注いでくれたし、祐樹も生れたときからいる亜紀に対し、そんなことを意識することは家では殆どなかったが、そのとき初めて、彼女は世間の一面が持つ冷たさを知ったのだった。

 亜紀の実の父母は全くの謎である。十七年前に病院の玄関に、籠に入れられて遺棄されていた彼女の、父母を捜し出そうとする調査は、一応幾度も行われたようであった。しかし結局手掛かりを摑むこともできなかったらしく、そのまま亜紀は北野家へ引き取られ、現在に至っていた。その当時、亜紀の他にも幾人もの乳児が市内外の病院の玄関に遺棄されていたらしいとの噂もあったが、それについても詳しいことは何もわからなかった。弟の祐樹は亜紀が引き取られてのち、養母の不妊治療が成功して生れた子供である。

 ともかく亜紀が周囲との関係に壁を築くようになったのには、こうした経緯が介在していた。ふと周囲を見渡して、自分一人だけが実の父母を知らないという事実を意識するとき、彼女は寂寥感と疎外感とを覚える。実際に孤児であることから排斥された経験、それが今に至るまで亜紀に、周囲との間に見えぬ壁を築かせているように思われてならなかった。……

 笑い声が亜紀の耳に届いた。我に返って亜紀が顔を上げると、前々列の席で喋っている、女子生徒二人の姿が目に入った。片方は伊東奈緒で、もう片方は名取早穂である。二人とも明るく活発な性格の生徒で、笑い声を上げたのは茶色がかった髪をポニーテールにしている、早穂のほうだった。早穂とは二年になって初めて同級生となったのだが、見るからに自分とは正反対な性質の存在だと、亜紀は漠然と意識していた。会話を交したことは一度もない。何とはなしに亜紀は彼女へと眼を向けたが、視線を感じ取ったらしい早穂がふとこちらを振り向き、慌てて視線を逸らせた。

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