18.「旅立ちの日。そして『勇者トーヤ・アーモンド』のファン、第一号」

 ――これは悲劇か、それとも喜劇か。


 童貞ヴァージンより先に殺人童貞マーダー・ヴァージンを卒業した、悲しき少年、トーヤ・アーモンド。

 そんな僕のなけなしの童貞が、無残に散らされてしまったのだ――。


 マンドラゴラの霊薬を盛られ、意識がハッキリしないまま。

 それも相手は自分の一回りどころか、千歳近く年上の"幼女"相手に……。

 しまいには向こうに乗せられて、勢い余って自分から『』しまう始末。


 薄汚れた裏社会ドブの中に生きてきたからこそ、綺麗な水に憧れることもある。

 けれど……初めては・・・・好きな人同士で・・・・・・・――なんていう淡い夢物語は、脆くも崩れ去ったのだった。


 そして、僕がひとつ大人の階段をしまった、"熱い夜"が明け――





 ……いつも通りの、新しい朝がやって来たのだった。



  ◇



「二百六十一っ、二百六十二っ、二百六十三っ……」


 薄暗い寮の自室の中に、断続的に生まれる、小さな吐息と静かな呟き。

 僕はぽたり、ぽたりと額から汗を流しながら、腕立て伏せを黙々と行っていた。


 毎日の日課となっている『朝の鍛錬』だが、今日のそれは少し様子が違った。

 一心不乱に鍛錬に取り組むその様子は、まるで頭の中にこびりついた煩悩を振り払おうとしているかのよう。


 集中、鍛錬に集中するんだっ……。

 しかしどうしても、脳裏に昨日のニトラ学院長の姿が思い浮かんでしまう。


 ゆらゆらと揺らめく蝋燭の灯りに照らし出される、"魅惑の肢体"……。

 思い出す度に、体が熱を帯び、体中の血液が一点に集中するのを感じてしまう。


 昨日からずっと、この調子だった。ここまで自分がお盛んだったなんて……。

 ずっとこの手のものを遠ざけてきた分、抑圧してきたものがあの夜、一気に爆発してしまったかのようだった。


 ああもう、どうしちゃったんだ、僕はっ!

 これじゃあまるで、盛りの付いた猿じゃないかっ……!?


 しかし、これも仕方のないこと……昨夜まで童貞だった少年に、"魔女の媚態"は刺激が強すぎたのだ。

 初めて抱いた相手が、悪名高い"背徳の魔女"だなんて――

 さしずめ、離乳食もまだの赤ん坊に、"脂の乗った極上のステーキ"を食べさせるようなもの……。中毒になるのも無理がないと言える。


 くっ、これじゃあ鍛錬にならない。どうにかして、これを治めないと……。

 とにかくっ、明鏡止水、心を無にするんだっ……。


 と、その時。カサッ……と小さな衣擦れの音が頭の上から聞こえてきた。

 いつもなら無視できる程度の小さな物音だったが、集中できていない今の僕は、つい反応してしまう。


 その衣擦れの音の正体、それはベッドの上でリゼが寝返りを打った音だった。


「……んっ……ふぅ……」


 部屋に並ぶ二つのベッドのうち、手前側のベッドの上には、ルームメイトである"リゼ・トワイライト"が寝間着ネグリジェ姿で眠っているのだが……。


 僕の視線の先には、すぅすぅと寝息を立てるリゼの、可愛らしい寝顔。

 そして――はだけた寝巻きの下から無防備に覗く、白い柔肌があった。

 

「っ…………!」


 ……ゴクリ。僕は思わず生唾を飲み込む。

 大きく露出した胸元からは、控えめながらも、はっきりと谷間が覗いていた。

 そしてめくれた寝巻きから覗く、眩しくも悩ましい、肉付きの良い太もも。

 それが目の前の、手を伸ばせる距離に存在するという事実……!


 ヤバい、これは、本当にマズい……!

 僕は勢い良く首を左右に振って、邪念をかき消すと、何とか気力を振り絞って、精神を集中させる。


 真の勇者を目指すのなら、これくらいの誘惑を断ち切れなくてどうするっ……!

 そして、僕は覚悟を決める。

 これはもう、行くとこまで追い込むしかないっ……!


 そして僕は遂に、限界を超える程のハードワークに突入する。

 限界を超えた鍛錬に、筋肉が絶叫する。


 全て、自らを無我の境地に追い込む為。

 そして精魂が尽き果てた頃、ようやく僕は煩悩を振り切ったのだった……。




 ――チュンチュン、チュンチュン。

 そして太陽が昇り始め、カーテンの隙間から、陽の光が差し込んでくる頃。

 窓の外から聞こえてくる小鳥たちのさえずりに起こされて、リゼはゆっくりと目を覚ます。そして迎える、のどかな朝……。


 リゼはベッドの上で体を起こすと、乙女座りの姿勢になる。

 そして、はだけた寝巻き姿そのままで、眠そうに目元を擦るのだった。


 やがてリゼはぐるりと部屋を見回して、ルームメイトの姿を探す。そしてようやく、床の上に大の字になってバテバテになった僕を見つけたのだった。


 リゼは首を傾げると、不思議そうに僕を見つめる。


「……どうしたの……?」

「ハァ、ハァ……あはは、あまり聞かないでくれると、嬉しいかな……」


 全身の筋肉繊維がプチプチと引き裂かれる苦痛に耐え、肩で息をしながら。

 何とか僕は、喉から声をひねり出すのだった……。



  ◇



 そして――朝。それから僕とリゼの二人は、再びニトラ学院長の呼び出しを受け、今度は学院の校門へ向かうことになった。

 王都へ向かう手筈が整ったとのことで、まずは荷物を纏めると、寮部屋を綺麗に掃除して、鍵を学院に引き渡す。


 ――とうとう、この時がやって来た。

 僕は荷物を片手に、ぼんやりと空っぽになった寮部屋を眺めていた。


 昨日の朝には、こんなことになるなんて、思ってもなかったな……。

 リゼと出会って、カルネアデスの塔を攻略して、そして――

 ――僕はこれから、勇者になるんだ。 


 この部屋で生活して、一年とちょっとか。名残惜しくないと言えば、嘘になる。

 あと一年、この部屋で過ごすと思っていたから……どうしても戸惑ってしまう。

 けれど、勇者になるため、遂にこの部屋から飛び立つ時がやってきた。

 これは、名誉なことなんだ……。けど、いざ空っぽの寮部屋を前にすると一抹の寂寥感を感じるのも、また事実だった。

 

 コンコン。外からドアをノックする音が聞こえる。

 手続きにやって来たソフィアさんだった。


「これで、トーヤくんともお別れかぁ。本当は祝わなくちゃいけないんだけど、やっぱり、寂しいね……」


 ルームキーを受け取り、空っぽになった寮部屋を見て、ソフィアさんが呟く。

 感慨深いような、それでいて、寂しそうな……そんな口調だった。

 しかしソフィアさんは思い直したように、ブンブンと首を横に振る。


「ううん、せっかくの門出なのに、湿っぽいのは良くないよね! 『勇者トーヤ』のファン第一号として、応援しなくっちゃ!」

「ファン……第一号?」

「そう! ほら、トーヤくんはカッコいいから、これから一杯ファンが出来ると思うけど……トーヤくんのファン第一号は、この私、ソフィア・ブルームですからっ!」


 そう言ってソフィアさんは、満開の笑顔でニッコリと笑う。


 そして――。

 ソフィアさんは僕に近づくと、僕のことを、ギュッと抱きしめたのだった。

 制服越しに、むにゅっ、と柔らかいものが体の前面に押し付けられる。

 

 それは優しくも暖かい、お別れのハグだった……。

 

 スレンダーで名高い妖精エルフ族には似つかわしくない、母性溢れるたわわな双丘。

 そして何より……ソフィアさんの体は、温かかった。思わず僕は、亡くなったお母さんのことを思い出していた。


「私はずっと、応援してますからねっ……」


 ソフィアさんは僕の頭を撫でながら、優しい声を掛けてくる。

 そして僕はしばらく、ポカポカした幸せに包まれていたのだった……。

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