正しくあること

「結構です」


 男がそう言って、数回だけ拍手をした。部屋の中にその音が、必要以上に大きく響く。

 そのすぐ近くでカナタが、苦しそうに肩を震わせていた。まるで拍手の音に叩き潰されそうになっているかのようだった。


「取るべき選択肢は同じでした。しかしそこで満足したのがカナタ、満足しなかったのがアオです。より効率的に、より完璧に、政策を作り上げました。僅かな差ではありますが、どちらが優れているかハレルヤが判断するには十分です」


 男はカナタの方へと数歩近付いた。くすんだ銀色の髪が揺れ、カナタが先程とは全く異なる、空虚な瞳を向ける。そこに何が映っているのか、誰にもわからない。


「カナタ。これが貴女への答えです。ハレルヤは合理的に正しい選択をしました」


 カナタは唇を少し震わせて、長く細い息を吐いた。


「……理解しました。ミスター・カロク」

「貴女は優秀だった。しかしアオのほうが優れていることに気が付かない程度の」


 男の口調は、カナタを憐れみ、そして惜しんでいるようだった。実際そうなのだろうと、部屋にいる誰しもが理解していた。あまりに静かな部屋と、静かな受け答え。しかしそれはいつものような質疑応答などではない。


「貴女は重大な違反行為を行いました」


 ゆっくりと、しかし一切の迷いもない声で男は告げる。

 アオは自分が言われたわけでもないのに、思わず背筋を正してしまった。その言葉が何を意味するのかなど、考えるまでもなく知っている。


「起立しなさい、カナタ」


 男の声に従って、少女は立ち上がった。せめてものプライドなのか、その姿は凛としていた。その内面を周囲に悟られまいとするかのようだった。


「貴女の「権利者」権限を剥奪し、一時的に上層区における全ての権利行使と義務遂行を停止します。処分内容についてはハレルヤが決定します。良いですね?」


 カナタは声を発さずに、黙って頷いただけだった。

 アオの位置から、その表情は見えない。だから想像するしかなかったが、アオの脳裏には先程の怒りに満ちた顔だけが浮かんでいる。

 誰もが成り行きを見つめる中で、不意に男が「あぁ」と思い出したように声を出した。


「解説は終わりました。皆さんは退室して結構です」


 誰も動かなかった。もしかしたら、一人か二人ほどはそうしたかったかもしれないが、部屋の空気全体が、その行動を押しとどめようとするかのように重苦しいものになっていた。

 男は、部屋にいる人間がどうしようと関係ない様子だった。至極普通の声量で、カナタにだけ話しかける。


「ハレルヤは貴女を罰するでしょう。しかし、怯えることはない。これはハレルヤの正しい選択の元に行われるのです」

「わかっています。ミスター」

「貴女は優秀です。きっとハレルヤは厳罰を与えることはしない。再教育……特別カリキュラムの適用が妥当なところでしょう」


 慰めるような声で告げられた言葉に、カナタは少し顎を持ち上げて、それから微かに笑った。微笑むようなものではなく、自嘲に少し似ていた。


「特別カリキュラムですか」

「そうです。少々道を踏み外した者を、正しい道に戻すための」

「それを……」


 カナタは口を開きかけて、すぐに閉ざす。その続きを言うべきか考え込んでいるのだと、アオにはわかった。特別カリキュラムに対して誰もが思っていること。しかし、誰も言わないこと。それがカナタの喉元まで迫り上がっている。


 そのことは、指導係の男も感じ取っているはずだった。だが意外にも、男はそれを事前に止めようとはしなかった。ただ口を閉ざして、カナタの次の言葉を待っていた。既に違反者となってしまった少女に対する、ほんの僅かな同情だったのかもしれない。憐憫にも当てはまる。どちらにせよ、カナタは再び口を開いた。


「それを受けた後の私は、果たして私と言えるのでしょうか」


 男は眉を持ち上げる仕草をした後に、首を左右に振った。質問を口に出すことは許すが、答えを得る権利はないということなのだろう。そのまま踵を返した男に、カナタは素直に付き従う。全員に見送られるようにして部屋の出口へと向かった少女は、一歩外に踏み出した時に、ふと振り返ったと思うと、アオの方を一瞥した。


「正しくあり続けるのは大変ね」


 独り言にも似た投げかけだった。アオは椅子に座ったまま、その視線と言葉を受け止めた。


「それが、僕達の義務だ」


 声が部屋に軽く反響する。自分が放った言葉が、どこか余所余所しく聞こえて、アオは一瞬だけ目を閉じた。その間に、カナタは部屋を出ていって、後には声の余韻だけが残った。

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