第16話 そのころ村では

 サクリ、サクリと、青空の下に乾いた音が響いている。

 音を発しているのは使い込まれた鍬だ。音と同じ数だけ土が耕され、地面の色を変えていく。


「――ふっ、と、端まで来たか」


 あぜ道に足が付いたことを確認して、ハウエルは鍬に体を預けて一息ついた。

 目の前には自分が耕した地面と、それを囲む圧倒的な緑がある。


「ふうむ……農作業というのも、思った以上に大変なものだ」


 汗が滲む額を手で拭い、ハウエルは肌に感じた硬い感触に両手を見る。


 かつては書類仕事によるペンだこしかなかった白い手も、今では豆だらけで皮膚が分厚くなっていた。

 草むしり、鍬の使用にその他諸々。両手にはすっかり土と緑の匂いが染みついている。


「……それが嫌ではないことが、自分自身でも少し驚きではあるな」


 そう独りごちて、ハウエルは再び鍬を持ち上げる。耕す土地はまだまだ広い。あまり休んでいては、今日の目標分が終わらなくなってしまう。


 そう思って鍬を構えて体の向きを変えたところで、ハウエルは近づいて来る人影を見つけた。


 黎明の空のように濃い青の髪をした、ハウエルと同年代の青年だ。向かってくる青年にハウエルは手を挙げる。


「どうしたロイ、そちらの作業はもう終わりか?」


「ははは、そんなに簡単に終わったら苦労はねえっての。そろそろ休憩しようぜ。茶をもらってきた」


 ロイは片手に持った荒い目の籠を掲げて見せる。もちろんハウエルに反対する理由はなかった。



 男2人であぜ道に腰を下ろし、朝の残りの種なしパンを齧りながらお茶を飲む。

 世界が止まったように牧歌的だ。吹き抜ける風が汗を冷ましていく。


 お茶の香りと共に爽やかな空気を飲み込んで、ハウエルはほう、と息を吐く。


「こんな辺境でも、茶が美味いのが最近一番の驚きだ」


「シエラの特製だから当然だ、って自慢したいところだが、この辺に使える植物が多かったのが大きいな。まあそれでも、この味になってるのはシエラの腕だぜ」


「うむ。ありがたい限りだ」


 後で礼を言っておこう、と考えながらハウエルは茶を口にする。


「ロイ、そちらの仕事の進みはどうだ?」


「ぼちぼちってところだな。肥料は熟成待ちのところまでは来た。あとは野生化しちまってる麦と野菜の救出だな。今さら移動させる訳にもいかねえし、当分は周りの草むしりに集中だ」


「それは腰が痛くなりそうだな……」


 ハウエルは連日の除草作業を思い出して無意識に腰をさする。

 引き抜いても引き抜いても尽きることのない雑草の群れ、頑固に張った根、中腰のせいで徐々に痛みを訴えてくる腰……。


 ハウエルは貴族としての恵まれた魔力量によって肉体的にも頑健だが、それでも慣れない姿勢での長時間労働は辛いものがあった。進んでやりたいものではない。


 ……だが、休憩中の視界の中では、まだまだ草に覆われた開墾予定の土地が存在を主張している。

 ままならない現実に、ハウエルはいったん目と思考を逸らすことにする。


「……そういえば、ロイはやはり植物に詳しいな。私には肥料の作り方など分からん」


「植物、特に花なんかを育てるのは趣味だったからなあ。基本的なことは一通りできると思うぜ。さすがに本職の農家に敵うとは自惚れねえけど」


「ふむ、趣味か……。私には花の良し悪しなどさっぱり分からないのだが、どういう部分が気に入っているのだ?」


 ハウエルの問いに、ロイは考え込むように顎に手を当てる。


「ん~、改めて聞かれると難しいな……。元々花を育てるのは俺の趣味じゃなかったんだが、手伝ってるうちに愛着が湧いたのがきっかけだった、はず。それから自分で育てて、世話をした分応えてくれるのが分かって……ああ、注いだ愛情を、綺麗に花を咲かせることで素直に返してくれる部分が気に入っているのかもな」


 ロイはかつて咲いた花を思い出したのか穏やかな顔で言い、その様子にハウエルが感心しかけたところで、最後に一つだけ付け足した。


「――あとはまあ、植物は人と違って裏切らないのがいい」


「そ、そうか……」


 なんだか闇深いものを感じて、ハウエルは若干引きながら頷いた。時折気配を感じるロイの人間不信。いったい過去に何があったのかと、ハウエルはついつい考えてしまう。

 警戒が解けるほどに穏やかな環境に、ついその疑問が口に出た。


「あ~……ロイはとても知識が豊富だが、ここに来る前は何をしていたのだ?」


 過去を問う質問に、ロイはゆっくりと悪戯気な笑みを浮かべて問い返す。


「――なんだハウエル、お互いに昔話でもするか?」


「む……」


 ハウエルは黙り込まざるを得なかった。ロイに過去を話させて自分が話さないというのでは理屈が通らない。

 だが、逃亡中である自分の過去は話したいものではない。


「……いや、やはり止めておこう。こんなところまで来て、わざわざ語り合うものでもない。互いの過去など秘密にしておくのが一番だ」


「ははは、その意見には賛成だぜ。誰にだって、話たくないことの一つや二つはあるもんだ」


「うむ。我らが村長とて、秘密の多い人物だからな」


 頷いて互いの過去に蓋をする。これまで何をして来たかなど、目の前に積まれた大量の難題に比べれば、気にする必要のない些事だった。

 少なくとも今は。





「今ごろ村長とエミリーさんはどこを走ってるっすかねー」


 すっかり住居として馴染んだ小屋の外。

 自分の師匠が乾いた誤魔化し笑いをしているとは露知らず、アニスはパタパタと家事に走り回っていた。

 隣には、アニスにとって生活全般の教師となったシエラがいる。


「馬車の速度からすると、たぶん帝都には到着していると思いますよ」


「お~! それなら帰ってくるまでもう半分っすね!」


 渡した木の棒に洗濯物を干しながら、アニスは機嫌良く笑った。


 今の4人での生活も悪くないが、歳の近いエミリーが不在なのはやはり少し寂しいし、助けてもらった恩のあるルヴィは、貴重な肉を獲って来てくれる良い人だ。


 ――これだとお肉を恋しがってるみたい?


 とふと思ったが、よく考えなくても肉に関係なくルヴィは重要な人物だ。やっぱり村長がいるのといないのでは、村の安定感のようなものが違う。

 だからルヴィとエミリーが早く帰って来てくれると嬉しい。……もちろん、良いお土産があるともっと嬉しい。


「薬草とか茸とか、いい値段で売れてるといいっすねー」


「帝都では貴重なものも多かったので、きっと良い値は付くと思いますよ。アニスさんは何か欲しい物はありますか?」


「欲しい物っすか? ん~、買いたい物……特にないっすかね?」


「そうなのですか?」


 切れ込みを入れた木の枝で洗濯物を固定しつつ、シエラはアニスの答えに首を傾ける。


「お金がないと暮らして行けないっすから、くれるならいくらでも欲しいっす。けど、この村にいても食べ物に困ってないすからね。小さい頃住んでた村よりいいもの食ってるっす! シエラさんのおかげっすね~」


 ハウエルに弟子入りしてから生活水準が向上したものの、アニスの基準は故郷の村だ。重い税を取られた大人たちの暗い顔が並んでいない分、むしろこの村は過ごしやすい。


「……そうですか。褒めてもらえるなら私も嬉しいですよ。今日の夕食は少し手間をかけて作りましょうか」


「やった! 手伝うっすよ!」


「ふふ、それではこの仕事は急いで片付けてしまいましょう」


「はいっす!」


 にこやかに笑い合いながら、シエラとアニスは協力して残りの洗濯物を広げていった。


 夕食の準備のために小屋に戻る途中で、アニスはシエラに問いかける。


「シエラさんは、お金があったら何を買いたいっすか?」


「私ですか。そうですね……新しいお鍋と、丈夫な針と糸が欲しいですね。ロイ……の服が最近ほつれてきたので。そろそろ本格的に修繕したいです」


「おおー、家庭的っす! ていうか師匠もロイさんも、ちょっと乱暴に動き過ぎっすよね。服が毎日ドロドロのボロボロになってるっす!」


「ふふふ、その汚れの分だけ、お2人とも頑張っていますからね」


「むー、シエラさんが大人っす……」


 柔らかに微笑むシエラの表情に、アニスはすぐに毒気を抜かれてしまう。


 実際、ハウエルとロイが頑張って働いているのはアニスも知っている。特にハウエルは城にいた頃よりも楽しそうに労働しているので、アニスとしてはむしろほっとしているくらいだ。


 ……ただそれはそれとして、綺麗に洗った服が一日で汚されていく様子を見るのは複雑な気分になるのだ。


「シエラさんは前からこういうお仕事をしてるんすよね。たまにメンドくさい! って思わないっすか?」


「いいえ、思ったことはありませんよ」


「ええ~……シエラさん凄すぎっす」


 アニスはシエラと自分を比べて肩を落とす。そんなアニスの肩に手を置き、シエラが目線を合わせて微笑んだ。


「アニスさん、これは特別なことではありませんよ。支えたいと想う人ができれば、いつかアニスさんにも分かります」


 そう言って軽く撫でられた頭に、アニスは自分の手を載せて考える。


「ん~……むずかしいっすね」


「ふふ、いつか簡単なことだと気が付きますよ。それでは、食事の準備を始めましょうか」


 微笑むシエラの隣で、アニスは首を捻りながら準備を手伝い始める。

 シエラの言った内容は理解できない。だからシエラが言った“いつか”はまだ先なのだろうと、気楽に考えないことにした。


 ひとまず今は食事の準備に集中だ。自分が手伝った料理をハウエルが美味しそうに食べるのは、アニスにとっても嬉しいことなのだから。



 こうして、ルヴィとエミリーのいない村での一日が過ぎていく。

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