第5話 森の茸と素人2人
空は青く澄み渡り、太陽は春らしい陽気を降らせている。その陽光の下で、赤髪の少女アニスは口元を引き攣らせていた。
アニスの目の前には、春の日差しさえ飲み込むような薄暗い森がある。とても素人が踏み入って良さそうには見えない。
そんな森を前にして、アニスはポツリと呟いた。
「ホントに来ちゃったすねー、森……」
「ああ! ようやく着いたな!」
沈んだアニスの声とは裏腹に、隣にいる人物は楽しそうに相槌を打つ。アニスはその声の主、自分の師匠に視線を向けた。
帝都での激務から逃げ出してから早20日。師匠であるハウエルと共に、アニスは追手の騎士から逃げきれてしまった。
そう、逃げきれてしまった、だ。
アニスとしてはいくら頑張っても上司の捜索の手からは逃げきれないと思っていたのだが……まさかの逃亡成功である。
改めて見せられた自分の師匠の優秀さに驚いているところだ。その驚きよりも不安の方が大きいが。
「師匠、ホントに森に入るんすか? 追手は撒いたみたいだし、少し前の村にでも住まわせてもらった方が楽っすよ」
「いや、人がいる場所では室長に見つかる可能性がある。それに大丈夫だ。森で暮らすための知識はちゃんと調べてきた」
自信満々なハウエルの言葉に、アニスはハウエルが持っていた怪しい本を思い出す。やっぱり不安しかない。
だがそれでも、アニスにとってハウエルは大事な師匠だ。ハウエルの精神が回復するまでは、この逃避行に付き合おうとアニスは覚悟を決めた。
「ふぅ……よし! 行きましょうか師匠。早くしないと日が暮れるっすからね」
「ああ、早く行くとしよう! ここから新しい生活の始まりだ!」
そう声を上げて、ハウエルは意気揚々と森へ踏み出した。アニスはその後ろを困ったような笑みを浮かべてついていく。
どうあれ、弟子として師匠を放って置く訳にはいかないのだ。
◆
鬱蒼と茂った植物たちが光を遮り、森の中は薄い闇に満ちている。人が入らない森の中は下草に覆われ、足元すら良く見えない。
当然、森に慣れていない2人の歩みは順調とは言い難かった。
「ぬう。ただ歩くのが、これほどまでに辛いとは」
「そう、っすねー。ふう。草が邪魔っすよ」
2人はハウエルを先頭にして、前後に並んで歩いている。後ろにいるアニスはまだ楽だが、前を歩くハウエルは枝を払ったり、藪を掻き分けたりと重労働だ。髪には木の葉と蜘蛛の巣が絡まっている。
「アニス、水場に着いたら休憩にするぞ。もう少し頑張れ」
「はあい。……早く見つかるといいっすね~……」
2人が目指しているのは森の中にある川だ。手前の村で、森の中の大まかな地形は聞いて来ている。
とはいえ、森を歩くのには慣れていない2人だ。知らず知らずのうちに蛇行し、無駄に遠回りすることになっている。
目的の川辺までは、まだまだ道半ばだ。
◆
結局、2人が川辺に着いたのは夕暮れ時だった。
「やっとついた~……」
「……ああ、かなり時間が掛かったな」
夕焼けを反射しながら流れる川を前に、アニスは地面へと座り込む。ハウエルも疲れた表情だ。
「陽が暮れる前に野営の準備をしよう。アニス、動けるか?」
「大丈夫っす~」
川から少し離れた位置で、2人は声を掛け合いながら手慣れた様子で天幕を設置し始める。
「野営の準備も慣れたっすねー」
「ああ、かなり手際が良くなったものだ。我々の成長を感じるな。夜中に風で天幕が吹き飛ばされたあの頃が懐かしい」
「ああ~、あったすねー……。追い掛けるのちょー大変でした」
はじめの頃は天幕一つ張るのにも手間取った2人だったが、ここまでの旅を経て、並みの冒険者程度には野営にも慣れた。
ハウエルが感慨深そうに頷いている一方、アニスとしては喜んでいいのか微妙な心境だ。本来の自分達の仕事を考えれば、野営技術は役に立つ技能ではない。
「……まあ、無駄にはならないっすかねー」
人生何が起きるか分からない。辺境の小娘が、珍しい適性を持っただけで城勤めになるくらいだ。何かを経験するのは良いことだろう。そうアニスは一人で納得することにした。
「アニス、どうかしたのか?」
アニスの独り言に、ハウエルが不思議そうに視線を向ける。
「なんでもないっすよー。師匠、ぱっぱと終わらせちゃいましょー」
「ふん? そうか。そうだな。早く終わらせて食事の準備に移ろう。ここに来る途中で採った茸も焼かなくてはな」
「……あのキノコ、本当に食べるんすか……?」
手を止めずに会話しながら、アニスは森の中でハウエルが採取した茸を思い出す。灰色の大きな傘をした茸だった。
帝都ではあまり茸を食べる習慣がないため、アニスにとっては不気味な物体に見える。
だが、ハウエルは自慢気な表情だ。
「私の本によると、あれは“大雲茸”という種類だ。とても美味いらしいぞ。アニスも楽しみにしているといい」
「そうっすか~……」
ハウエルの持つ本を信用しきれていないアニスとしては、不安感が増すだけだった。
◆
森の木々の向こうに陽は沈み、周囲はすっかり夜だ。その中で、2人の野営地周辺だけが明るく照らされている。
「『光よ』……これだけあれば問題ないか」
「師匠の光は相変わらず綺麗っすねー」
光源はハウエルが魔術で出した光球だ。真っ白な光を放ちながら宙を漂っている。高い光の適性を持つハウエルにとって、光球程度は朝まで使用しても問題はない。
「私としては、アニスの暖かみのある光の方が好みだがな。私の光は寒々しく見える」
「そうっすかねー? アタシのは黄色いだけっすよ?」
首を傾げるアニスに、ハウエルは笑い掛ける。
「自分が持っていない物は価値があるように見えるものだ。アニスの光も良い色をしている。自信を持つといい」
「はあい」
気の抜けた返事をしてから、アニスは自身の手のひらへと集中する。
「『光よ』」
呟くような声に比例するように、小さな光がアニスの手の上に現れた。淡い黄色の光球が、弱々しく光を放っている。
ハウエルは暖かみのある光だと言っていたが、アニスには黄ばんだような色合いに見える。
その見た目に溜息を吐こうとした瞬間、バチッ、という鋭い衝突音が聞こえ、アニスは息を詰めた。
ハウエルと共に音の出所へ視線を向ければ、少し離れた草の上に、大振りの甲虫が仰向けになっていた。光に照らされた足の動きに、アニスの頬は自然と引き攣る。
「……虫除けの魔道具が買えてホントに良かったっす。これがなかったら、さすがにアタシは夜寝れないっすよ」
魔道具を入手する前。夜に光球を出して虫に集られた記憶は、アニスにとって軽いトラウマだ。
「ああ。今となっては手放せないな。効果の割に消費する魔力も少ない。良い品だ。安く買えたのは幸運だな」
「外国製でしたっけ?」
「都市連盟の職人が作った魔道具らしい。帝国の外にも優秀な職人はいるものだな」
2人がそう話す間にも、魔道具が張った透明な壁へと虫がぶつかって来ている。
完全に虫を遮断しているその様子に、ハウエルは満足気に頷いた。
「では、虫の心配をしなくて良いことに感謝をしつつ、食事を始めるとしよう」
夕食のメニューは、干し肉と野草のスープ、旅用の固焼きパン、ハウエルが採った茸の串焼きだ。
「……師匠ー。明日は魚採りましょーよ。そろそろ新鮮な食材が必要っすよ」
育ち盛りアニスとしては、もう少し食事面を向上させたい。何より干し肉には飽きた。
「いい考えだな、アニス。明日は魚用の罠を仕掛けてみるとしよう」
アニスの提案にハウエルも同意する。塩辛いだけの干し肉から脱することに、ハウエルも異存はない。
「まあ、それも明日だ。今はこの食事で我慢しよう。アニス」
アニスの名を呼んで、ハウエルは軽く目蓋を閉じた。食前の祈りの体勢だと気づいたアニスも真似をする。
2人の声が重なった。
「「偉大なる父祖と精霊に感謝を」」
略式の祈りを終えて、2人は目を開ける。
「では冷めないうちに食べるとしよう」
そう言いながら、ハウエルは自分で採った茸へと手を伸ばす。その動作に、アニスは思わず口を出した。
「あ~。あー、師匠?」
「む? どうした? アニスの分もちゃんとあるぞ?」
いや、そうじゃない。と思いながら、アニスは言葉を選んで話す。
「いちおう、毒の心配とかした方がいいんじゃないっすかねー。ほら、アタシたち素人ですし」
アニスの言葉に、ハウエルは手元の茸へと視線を落とす。自身の本に載ってあった挿絵と瓜二つの茸だ。間違いはないと判断している。とはいえ、弟子の心配を無下にするのは良くないだろう、とハウエルはアニスを安心させる方法を考える。
「ふむ……。それなら、毒茸だった場合はすぐに解毒の魔術を使えるようにしておこう。それなら問題ないだろう?」
解毒の魔術は、人の体に不要なものを精霊に除去してもらうもの。帝国ではかなり秘匿性の高い魔術だが、危険が付きまとう仕事に就いていた2人には教え込まれている。
「……それならいいっすけど。ダメそうだったらすぐに使うっすよ?」
「もちろんだとも」
そう言って、ハウエルは焼き茸にかぶりつく。
肉厚な傘を噛み千切り、火傷しそうになりながらも咀嚼する。茸の繊維は歯切れよく、ハウエル好みの食感だ。
噛み締めるほどに溢れる熱々の汁も、旨味と香りが素晴らしい。
その美味しさにアニスにも勧めよう、と考えたところで、ハウエルは言葉が出ないことに気が付いた。
「ふお……?」
舌が回らない。どころか体が動かない。何が、と思っている内に、アニスの体が回った。
「し、師匠ー!?」
慌てて駆け寄って来るアニスの姿に、ハウエルは回ったのは自分の方であることに気が付いた。地面に倒れたらしい。触れているはずの草の感触すら薄い。
「師匠!! 解毒っす!! 早く使ってください!!」
状況を理解したハウエルは、焦りながら魔術の詠唱を始める。体は熱いのに冷たい。これは不味いと、思考だけが回る。
「あ、う……」
解毒の魔術を使おうとしたハウエルだが、出そうとしたはずの声が出なかった。
つまり……魔術の詠唱ができない。
ハウエルとアニスの目が合い、2人は同時にそのことを理解した。
「わあああっ!? 師匠が死んじゃうー!!」
混乱したアニスの叫び声が、暗い森へと響き渡った。
◆
数分後。落ち着いたアニスが解毒の魔術を使用することで、ハウエルの症状は治まった。
「いやあ、さすがに危なかった。すまないな、アニス。助かった」
「本当っすよ。次からはキノコ禁止っす!」
ばつの悪そうな顔で謝るハウエルに対し、アニスは怒った表情だ。自分の師匠が倒れる姿は、アニスにとってはかなり衝撃的な光景だった。
自分がいなければどうなっていたか、そう思うと心臓の動悸が激しくなる。
「ちゃんと本に載っていたはずなんだがなあ……」
言い訳のように口にしながら、ハウエルは自身の本を開く。アニスも不審そうな顔で本を覗き込んだ。
「絵は完全に一緒、だと思うんだが……」
挿絵を見て首を傾げるハウエルをチラリと見て、アニスも挿絵の茸を観察する。確かに見た目は同じだと思いながら、その下の文章に目を通し始めた。
「…………師匠」
「む? どうした?」
「ここ読んでくださいっす」
アニスが指差す部分を、ハウエルは読み上げる。
「え~と、『大雲茸は非常に美味であることが知られている』さっき食べたものも味は良かったな」
「その先もっす」
アニスは鋭い目付きでハウエルを見上げた。
「あ、ああ、分かった。ええ、『しかしながら、良く似た見た目の雷雲茸と間違う可能性があるため、初心者は注意するべし。雷雲茸には毒があり、食べると雷に打たれたように体が麻痺する』ああ~……」
ハウエルは自分が食べたのがその雷雲茸だったことを理解した。
「なにか言うことはあるっすか?」
「反省した。茸に手を出すのはやめることにする。それとアニス、ありがとう。お前がいてくれて良かった」
「……ちゃんと反省してるならいいっす」
ふいっと顔を背けるアニスに、ハウエルは申し訳なさそうな顔だ。
「明日はちゃんと魚を獲るから、それで許してくれ」
「……溺れるのはナシっすよ?」
「ああ。もちろん気を付けるとも。さて、明日動くためにも食事を再開しよう。……その前にスープを温め直すか」
ハウエルが痺れている間にスープはすっかり冷めてしまっていた。腰を上げようとするハウエルを、アニスが止める。
「師匠は倒れたばっかりなんだから座っててください。アタシがやるっす」
「そうか……悪いな」
そう言って、ハウエルは座り直した。少し落ち込んでいるらしいその様子に、アニスは機嫌を直すことにする。
「明日は魚、いっぱい獲れるといいっすね」
「そうだな。私も頑張るさ」
もちろん行動には気を付けた上で、と、スープを温め直すアニスを見ながらハウエルはそう思った。
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